第70話:エフィナ・ルア・ファルミナス
王の言葉の重さが部屋を満たしていた。
その中央でエフィナが震える声を絞り出す。
「……ねぇ、王様。あたしの名前……エフィナ・ルア・ファルミナスって言ったよね。……知ってるの?あたしの
“昔のあたし”を」
ジルヴァ王は静かに頷く。
その眼差しには、主を見る忠臣の深い敬意が宿っていた。
「知っていますとも。いや、余ほどあなた様を知る者は、他におりませぬ」
エフィナは喉がきゅっと締まるような感覚に襲われる。
手が微かに震えた。
「じゃあ……教えて。記憶を無くす前のあたしは、どんな人だったの?」
ジルヴァ王はゆっくりと目を閉じた。
そして語り始めた。
「エフィナ様は魔界における尊き血の一つ“古代血統”の直系。余はその腹心。あなた様に遣えていた者です」
エフィナの呼吸が止まりそうになる。
「幼い頃より聡明にして高潔。力を持ちながらも驕らず、民を思い、争いを嫌った。あなた様は争いを望まぬ魔族にとって“希望”であった」
カナトたちも息を呑んで聞き入る。
ジルヴァ王は続ける。
「しかしある時から魔界はあなた様を脅威と見なす者たちに侵食された。陰謀が渦巻き、あなたさまは記憶を奪われ、人間界へ放逐されました」
エフィナの瞳が揺れる。
「……誰がそんなことを?」
王は首を振る。
その表情は深く苦しいものだった。
「まだ全ては分からぬ。だが確かなのはあなた様を失って以降、魔界は急速に乱れた」
静寂が落ちる。
エフィナは唇を嚙んだ。
涙が滲む。
王は深く息を吸い次の真実を告げた。
「余はあなた様を追い、人間界へ出た。姿を偽り、顔を覆い人間の一人として生きた」
エフィナは驚愕する。
「……それで?」
王の声には、悔しさが混じっていた。
「あなた様の痕跡は掴めなかった。いかなる魔術も通じず、どれほど探しても見つからなかった」
彼はゆっくり手を見下ろし、手のひらを握り込む。
「途方に暮れ、荒廃した地に腰を下ろした。そのうち、住処を失った人間たちが寄り集まり余の周りに国ができた」
カナトもユナも言葉を失う。
王は小さく笑った。
「人間界で王になるとは、余も思わなかったがな」
そして言葉は静かに締めくくられた。
「あの聖ヴェリシアの騒動にて、ようやく、ようやく気づいたのだ。あの少女こそ、あなた様であると」
エフィナの瞳に涙がこぼれる。
王は深々と頭を下げた。
「遅くなり申し訳ない。主を取り戻せなかったこと、二十年近い歳月を空費したこと全て余の責」
エフィナは横に首を振った。
「違うよ……違う。見つけてくれたんだよ。あたしを、今ここに。それにこの村でカナトやユナに会えてあたしは幸せだよ」
王は顔を上げ、柔らかく微笑む。
その笑みに宿るのは臣下ではなく、親子にも似た深い情だった。
「主が生きていたことが何よりの救いだ」
エフィナの心に、消えなかった空白が埋まり始める。
自分は、誰にも望まれず生まれた存在ではなかった。
帰る場所を持たない孤独な存在でもなかった。
自分には、守りたいと思ってくれる人がいた。
その事実が胸を震わせる。
「ありがとう……ジルヴァ」
王は驚き、小さく目を開く。
呼び捨てされたことが嬉しいのか、驚いたのか複雑な表情を浮かべた。
そして静かに頷く。
「エフィナ様。継承戦は、あなた様自身を取り戻す戦いでもある。過去と、未来を繋ぐために」
エフィナは涙をぬぐい、真っ直ぐに王を見た。
「あたしは戦うよ。怖いけど、逃げない。記憶がなくても今のあたしは誰より、この世界を大切に思ってる」
王はゆっくりと頭を垂れた。
「ならば余は、命を賭してあなた様を支えよう」
その誓いは、鉄より重く深いものだった。
ジルヴァ王の語りが終わると、部屋の空気は静まり返った。
暖炉の火が揺れる音だけが、わずかな呼吸の乱れを照らし出している。
エフィナは膝の上で揺れる手をそっと握りしめていた。
記憶を奪われ、追放され、行方不明になり、それでも探し続けた者がいた。
その事実は温かさと同時に、胸の奥深くを強く締めつけた。
彼女が言葉を紡ごうとした時、ユナが先に口を開いた。
ユナの瞳は揺れていた。静かだが、激しい怒りが滲む。
「魔王城でも聞いたけどさ……記憶を奪った誰かがいるんだよね?エフィから大切なものを奪って、ひとりにして……そんな奴、絶対に許さない。見つけ出して、全部終わらせてやる」
声は震えていたが、その決意は強く深かった。
カナトもまた拳を握り締める。
胸の奥に、熱いものが込み上げる。
「エフィナにこんな辛い思いをさせやがって……俺だって許せない。どんな奴でも、必ず突き止めて……」
言い切る前に、エフィナがそっと視線を向ける。
その瞳は静かで、悲しみと決意と、どこか優しい諦めが混ざっていた。
カナトはそれ以上言葉を続けられなかった。
一方で、勇者エルネストはわずかに目を伏せ、深く息を吐き、すぐに顔を上げてラディウスへ視線を向ける。
「継承戦について、確認したい。いつ始まる?場所は?参加条件は?選別の方法は?」
声は冷静だったが、緊張の糸は硬く張りつめていた。
ラディウスは短く頷き、情報を整理するように語り始めた。
「日にちは二ヶ月後。魔界の暦に合わせると新月の前夜だ」
「場所はまずは魔界王城に集合……だが、今は魔界の門が不安定で行き来が難しい。方法はこちらで用意する」
「選別方法は武力だけでは測らない。血統、魔力の質、人格、心根。全てが判断材料となる」
王も言葉を継いだ。
「足りぬ情報は余が補おう。……エフィナ様を危険に晒すつもりではない。だが、逃げ場のない戦いであることも事実だ」
淡々と語られる現実は重かった。
だが誰も反論はしなかった。
外はすっかり暗くなり、窓の外には星が滲んでいた。
暖炉の火が弱まり、影が部屋を満たし始める。
「今日はこれまでだな」
ラディウスの声に全員が頷き、帰り支度を始める。
ユナは最後にエフィナの肩に触れ、何か言いかけて口をつぐむ。
ただ小さく微笑んで去っていく。
エルネストも無言のまま、カナトの肩を叩き、静かに家を出た。
扉が閉まった瞬間、静けさが雪のように降り積もった。
だが、まだ一人残っていた。
蒼陽連邦の王がカナトを呼び止める。
「……カナト殿。少し時間をいただきたい」
カナトは思わず背筋を伸ばした。
残っている者は王と自分――そして部屋の隅で気まずそうに座るエフィナだけ。
エフィナが立ち上がろうとした時、王が穏やかに微笑んだ。
「エフィナ様。すぐに終わります。少し休んでいてください」
彼女は戸惑いながらも頷き、廊下へ姿を消す。
扉が閉じた。
静寂が満ちる。
王はゆっくりとカナトに向き直る。
瞳は穏やかだが、強く深い。
「率直に問おう。……エフィナ様のことを、どう思っている?」




