第26話:憎悪と野心の残滓
エフィナが意識を取り戻した直後、重苦しい気配が玉座の間に充満する。
闇が揺らぎ、床に黒い靄が溢れ出し、そこから「影」が立ち上がった。
それはもはや人の形を成しておらず、どす黒い炎の塊のようだった。
だが口から発せられる声は、憎悪と野心の塊そのもの。
「……忌々しい……我を拒むか……!小娘の意識など不要だ、憎しみこそが力!奪われはせぬ!」
咆哮と共に黒い波が放たれる。
俺達はすぐに構え、剣や杖、短刀を手に応戦する。
しかし
ユナの拳は霧の中を貫き、何も当たらない。
ガルドさんの剛剣も、ミリアさんの光魔法も、黒煙を裂くだけで形を成した本体には傷一つ残らない。
「くそっ、効かねぇ……!」
ガルドさんが舌打ちをする。
「物理も魔法も通じない……!」
ミリアさんも額に汗を浮かべる。
俺は短刀を握りしめたまま、焦りの中でエフィナを振り返った。
彼女は左手首を押さえ、苦しげに呟く。
「……そうだ……この前魔王城に来た時にもらった『印』が……!これならもしかして」
その手首には、淡く光る刻印が浮かんでいた。
かつて魔王城で、理性の残滓がエフィナに託したもの。
「理性の願い」そのものだった。
「これを使えば……あの憎悪を封じられる……」
影が嘲笑う。
「やってみろ!お前ごと消し飛ばしてくれる!」
俺は即座にエフィナの手を取り、強く握る。
「一人じゃない。俺達全員で一緒にやるんだ!」
ユナが隣に立ち、頷いた。
「当然でしょ。……置いてかれるのはイヤだから」
ガルドさんは剣を肩に担ぎながら短く言う。
「全力で守ってやる」
ミリアさんは杖を掲げ、祈るように微笑んだ。
「光よ、この子の心を照らして」
エフィナは涙をこらえ、手首の印に意識を集中させる。
淡い光がじわりと広がり、刻印から力が解き放たれていく。
「……私の中にあった理性……お願い、もう一度……!みんなと未来を生きるために!!」
光が爆ぜた。
影が耳をつんざくような悲鳴を上げる。
「やめろおおおお!!我は憎悪と野心!消えることなど」
だが光は抗う闇を包み込み、締め付けるように収束していった。
やがて影は細い糸のように引き絞られ、印の中へと吸い込まれていく。
最後に残ったのは、闇の名残のような黒い火花だけ。
それも消え、玉座の間に静寂が戻った。
魔王の憎悪と野心の残滓、完全封印。
エフィナは力を失い、膝から崩れ落ちる。
俺はすぐに抱きとめ、優しく声をかける。
「終わった。……本当に終わったんだ」
涙で視界が滲む中、エフィナは小さく笑って答えた。
「……うん。ありがとう、みんな……」
俺達の間に、ようやく重苦しい戦いの幕が下りた……かのように思った。
封印が完了し、静寂が玉座の間を支配したはずだった。
しかし、次の瞬間。
足元に残っていた黒い火花が、一斉に渦を巻き、影の形を一瞬だけ取り戻す。
「……我を消したつもりか……!」
「憎悪も、野心も……決して消えはしないッ!」
振り返る間もなく、黒き残滓が槍のように伸び、ガルドの胸を貫いた。
「ぐ……ッ!!」
血が飛び散り、ガルドさんはその場に崩れ落ちる。
残滓は歪んだ笑い声を上げながら、空気に溶けるように消え去った。
「くははは……絶望を置き土産に……!」
完全に消滅。だが、その言葉を最後に残して。
「ガルドッ!!」
ミリアさんが駆け寄り、杖を握りしめて必死に治癒魔法を施す。
「お願い……光よ、彼を癒して! 返して……返してよ!!」
眩い光がガルドの胸を包み込む。
だが、脈は戻らない。心臓は完全に停止していた。
「いや……そんな……!」
ミリアさんの目から涙があふれ落ちる。
俺の脳裏にあの夜、ガルドさんから聞いたリオンさんの最期の話がよぎった。ミリアさんの脳裏にもよぎったはずだ。ユナはへたり込み、エフィナはただ呆然と立ち尽くしていた。
ミリアさんは自分の無力さ。救えなかった過去。
そして、またしても仲間を失うのかと絶望していた。
「どうして……私は……! また……守れなかった……!」
その嗚咽に、場の全員が胸を締め付けられる。
そんな中、エフィナが震える手を伸ばした。
彼女の手首には、まだ淡い光を放つ「印」が残っていた。
「……大丈夫……まだ、終わってない。『印』さんが今教えてくれた」
その声はかすれていたが、不思議と確信に満ちていた。
「この印さん……“理性”が残してくれた力で……まだ間に合うって!」
エフィナの小さな体が眩い光に包まれる。
彼女はその光をミリアの胸へと押し込むように触れた。
「ミリアの中に眠ってる力を……開放する!」
ミリアの体を金色の光が駆け巡る。
その光は今までの治癒魔法とは比べ物にならないほど強烈だった。
「わ、私の……中に……?」
ミリアさんは呆然としながらも、ガルドさんへと杖を向ける。
「お願い……戻ってきて……!」
光が迸る。
ガルドさんの胸を貫いた傷口がみるみる塞がり、途絶えていた鼓動が……。
「ドクン……」
確かに、再び鳴り始めた。
「……ッ……はぁ……ッ!」
ガルドさんが大きく息を吸い込み、目を開く。
「ガルド……!」
ミリアさんは泣き笑いのまま、彼にしがみつく。
「……また、助けられちまったな」
ガルドさんは苦笑しながら、彼女の肩に手を置いた。
全員がその奇跡を目の当たりにし、しばし言葉を失う。
エフィナはその場に崩れ落ちるが、安心したように微笑んでいた。
「……よかった……みんなが、また一緒に……」
彼女の言葉と共に、玉座の間の重苦しい気配は、完全に消え去っていた。




