第19話:揺らぐ安息
酒場のざわめきがまだ続いていた頃、扉が勢いよく開いた。
冷たい夜風とともに、重い足音。
「……ただいま戻った」
現れたのはガルドさんとミリアさんだった。
旅の疲れを隠そうともせず、肩に土埃をまとい、背負った新しい剣と杖が微かにきらめいている。
「ガルドさん! ミリアさん!」
ユナが立ち上がると、冒険者達が次々に駆け寄る。
「どうだった? ギルドの応援要請は?」
ガルドさんが無言でフッと笑いながら親指を立てた。
「そうか、援軍が来てくれるか。これで少しは楽になるな」
だが、二人の表情は晴れやかではなかった。
ガルドは酒場の空気を見渡し、ひと呼吸して低く言う。
「……あの城の気配は、さらに濃くなっている。村に届くのも、そう遠くはない」
空気が重く沈む。俺もユナも勿論、他の冒険者達も感じていた。
その直後だった。
「っ……あ、あぁ……!」
小さな悲鳴。
エフィナが頭を抱え、椅子から転げ落ちた。
「エフィナ!」
俺が慌てて抱き起こすと、エフィナは頭を抱えていた。
「く、苦しい……っ! いや、来ないで……!」
いつもの無邪気な笑みはなく、幼い顔を歪め、必死に耐えている。
ミリアさんが即座にエフィナのそばに駆け寄り、治癒の術を試みる。
だが白い光はエフィナの体に触れる前に、何かに弾かれてしまった。
「これは……治癒では抑えられない」
ミリアさんの声に焦りが滲む。
「どうなってやがる!!」
ガルドが低く呟き、エフィナの苦しむ姿を見下ろす。
「……このままじゃ、エフィが呑み込まれるぞ」
俺はエフィナの冷たい手を強く握りしめ、震える声で叫んだ。
「どうすればいい! どうしたら助けられるんだ……!」
酒場の空気は一変し、誰もが言葉を失った。
ただエフィナの荒い息と、外から吹き込む夜風の音だけが、静かに響いていた。
「うっ……うぅっ……!」
顔は土気色に引きつき、額には冷たい汗が浮かんでいる。細い胸が激しく上下し、口からは掠れた息しか出ない。
エフィナは薄く目を開け、か細い声で何とか言葉を絞り出す。
「……聞こえるの。あの城の中から……さっきから、声が……『もう、限界だ』って……伝えてくるの」
その一言が、酒場の空気を凍らせた。言葉の「意味」以前に、彼女の声に混じる恐怖が皆の胸に刺さった。誰もが無意識に声を潜め、外の夜風の音さえ大きく聞こえる。
ガルドの顔が強張る。低く、短く言った。
「呼びかけが強まっている。奴らが何かの限界に触れて、こちらへ波及しているのかもしれん」
俺はエフィナを抱えたまま、耳元に顔を寄せる。エフィナの薄い唇が震え、彼女の呼気は小さく白くなる。
「声は……消えかけてる。もう時間がないって……、来てって、迫ってるの」
その言葉には、子供の素朴さと、どこか遠い場所で聞いたような冷たさが同居していた。
ミリアさんがさらに深く詠唱を重ねるが何度も何度も試すほど、ミリアさんの顔色は青ざめていく。
「通常の癒しでは治せない。これは、魔力の逆流か、結界の破れです。エフィナさんが“通り道”になっている可能性がある」
「通り道……?」主人公の声がかすれる。彼はエフィナの小さな手をぎゅっと握り返す。
そのとき、親父さんが奥から出てきて、そっと周囲の人々を促すように言った。
「全員、厳戒態勢を取れ。村の連中にも知らせるんだ」
冒険者達はそれに従い、ざわざわと動き出す。だがその動きは慌ただしく、どこか手探りだ。親父さんは俺をまっすぐ見据え、声を落とした。
「お前は外に出るな。エフィナを動かすなら手早く。行くなら、俺とガルドとミリアさんが先導する」
ガルドが黙って前に出る。彼の瞳は冷たい石のように硬い。
「時間がない。もし声が『限界』だとするなら、それは何かが”終わる”か、あるいは”目を覚ます”サインだ。どちらにせよ波及は増す。あの子を屋外の安地に移す。ミリア、戒めの結界を張れ。それで多少苦しみは和らぐだろう」
ミリアは頷き、薄く口を結ぶ。だが詠唱の合間にも、動きは速い。彼女は掌に小さな円を描き、周りの者を指示して
鍋や塩を集めさせる。これは即席の護りの一環だ。慌ただしい準備が始まる。
エフィナはひどく疲れているのに、なお小さな声で続ける。
「声が……呼んでる。もう、限界って……」
その言葉が繰り返されるたび、場の人々の顔色はさらに陰る。言葉の輪郭は曖昧だ。だが確かなのは「呼びかけの温度」が上がっていることだ。冷たく、差し迫る。
俺はエフィナの額に自分の手のひらを置き、息を合わせる。心の中で、教わった全てのことが走馬灯のように巡る。
ロックさんに教わった隙の見極め、ユナの体術、マスターの厳しさ。だが今や必要なのは技術より決断だ。俺は声を絞り出した。
「……分かった。動く。皆、落ち着いて。俺が連れてく」
ミリアさんが素早く小さな札を結界の中心に置き、短く付け加える。
「おそらくエフィナさんを苦しめているのは魔王城からの呪詛です。移動中も呪詛を受けないように。走ったらダメ、でも速く。外に出たら、すぐに塩と煙で呪詛の影響を散らします」
周囲で手分けが始まる。ユナは素早くエフィナの肩にマントを掛け、親父さんと数人が出入口を守る。
ガルドさんは鞘に手をかけ、そのまなざしはどこか遠いところを見据えている。酒場の灯りが、いつのまにか行動の赤信号のように見えた。
エフィナの呼吸は浅く、唇は乾いている。彼女が最後に小さく囁いた。
「……もう、いかないで……お願い……」
その言葉に、俺の胸がつんときた。彼はエフィナを強く抱きしめ、一瞬だけ世界の時間を止めるように目を閉じた。
だが止めることはできない。外では、風が一度鋭く吹き、村の遠くにかすかな黒い靄が立ち上るのが見えた。あれは、確かに魔王城からの影のように思えた。
動きは素早かったが慎重でもあった。守る者達は皆、言葉少なに自分の役割を果たしていく。だが、その背中にあるのは確かな恐怖と、同じだけの決意だった。誰もが「限界だ」と伝えられたその一言の重さを、骨の奥で理解していた。
酒場の戸が閉ざされる直前、俺はエフィナの耳元で囁いた。
「俺がついてる。怖がらないで、俺が絶対にエフィナも声の主も助けてやる」
エフィナは目を閉じ、小さな手で俺の胸を押した。薄い笑いが唇に浮かぶように見えた。それは子供の信頼の証だった。
戸が閉じ、外の夜気が二人を迎える。そこから先は、やらねばならぬ一連の行動だ。だが室内に残った者たちの視線は、皆揃って同じ一点を見ていた。
魔王城の方角、夜空の暗がりに隠れているはずの巨大な影。その影は、確かに「何か」を待っているように思えた。




