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怪談

料理と猫

作者: 波留 六

 彼が私の作った料理を褒めてくれることはない。

 でも、料理を食べているときの彼の表情は、私を温かく包み込み、甘くとろけさせるのだ。それは私が作った料理でしか見ることができない。彼にさえ伝えていない、私だけの秘密だ。


 ある日のこと、いつものように向かい合わせに座り夕食を食べる。

 そしてその特等席から彼の表情を眺めたとき、何とも言えない陰りに気づいた。


「もしかして、何か嫌いな食べ物でもある?」


 ご飯を挟もうとしていたお箸を止める。彼もまた箸を止め、見つめ合う。


「いや……、別に好き嫌いはないけど?」

「ふうん……」


 調味料の配分を間違えたか。そう思って箸で酢豚のとろとろの衣に包まれた肉をつかみ、口に運んでみる。いつもの味のように思えた。彼に視線を戻すが、先ほど感じた違和感は消えていた。



 それ以来、彼は時々、あの表情をするようになった。いつも通り幸せそうな表情だ。それに重なるように、陰りが見えるのである。絶対に何かあると確信した。

 しかし、彼に尋ねても何もないと言われ、逆にどうしてそういうことを尋ねるのかと問い返されてしまう。首を傾げるその表情には、本当に心当たりがないように見えた。

 陰りを上手く表現できない。しかし、確かに感じてしまうのだ。表情でも仕草でもない、彼の顔に黒いヴェールのようなものが、そっとかけられたというべきか。とにかく、彼に説明をしようと思っても、どのように言葉にすればいいのかわからず、もどかしさだけが澱となって胸の奥に溜まっていった。

 どうやって聞き出すべきか考えながら眠りにつくと、翌朝、クローゼットの扉が少し開いていることに気づく。



「閉め忘れていたっけ?」


 独り言を呟きながら、扉を閉める。そういえば最近、開いたままになっていることがよくあった。身に覚えがないので、私が原因ではないはずだ。しかし、彼も物忘れがひどくなるような年齢は、まだまだずっと先のことだ。扉を締める。そしてベッドに戻ろうと振り返ると、彼が半身を起き上がらせ、じっとこちらを見つめていた。

 その顔を見てゾッとし、思わず後ずさる。

 目の下にひどい隈を作り、まるで生気が感じられない。


「どうしたの?」


 彼は眠そうに目を擦るが、その隈が消えることはなかった。


「すごい隈だけど……」


 それを聞いて彼はのそりと起き上がると洗面所へ向かう。そして「おー」と驚くのではなく、感心したような声を漏らした。



 朝食のパンの隅々にまでバターをたっぷりと塗った。それだけで、食パンに滑らかな舌触りと塩味が加わる。それを二人で頬張った。


「最近、夢を見るんだ」


 彼がポツリと言った。それが目の隈の原因なのだろうか。


「クローゼットが開き、猫が出てくる」

「んんっ? それはなんだか楽しそうな……」

「最初は遠くで目を光らせ、こちらを見つめているだけだったんだ」

「ちょっと不気味だね」


 私の返事に彼は軽く目を見張った後、言葉の真意を伺うようにこちらを覗き込んできた。


「なっ、何?」


 思わずパンを喉につまらせそうになり、慌てて紅茶を流し込む。蒸らしたときからかなりの時間が経っていた。生ぬるく、砂糖の甘さがねばりつくように口の中に残る。


「猫の夢を見る日は、決まって夕食のときに君が変な顔をしているときだと気がついた」

「私が変な顔?」


 彼は頷くが、変な顔をするのは彼ではないか。私はそう思ったものの、黙って続きを聞くことにする。


「そんな夜は、君はクローゼットを開き、そして朝にクローゼットを閉じる」

「待って。クローゼットを閉め忘れているのはあなたじゃ……」


 私の言葉に、彼は食べようとしていたパンを皿に戻す。


「……そうかも知れない。僕も君がクローゼットを開けたままにしているところを見たわけではないからね。それで夢の続きだ」

「続きがあるの?」


 夢は夢ではないか。彼の奇妙な話に繋がりはあるのだろうか。そう言えば彼の目の隈は、蒸らしたあとのティーパックに似ている。そんなことをぼんやりと考えるほどに、この会話から逃げ出したくなっていた。


「遠くで見ているだけだったんだ。でも、僕が動かないことを知ると、だんだんと近づいて来るようになり、そして、胸の上に座るようになった」


 懐かない猫が、徐々に人に慣れていく。幼い頃に祖母が猫を飼っていたことを思い出した。私が祖母の家を泊りがけで尋ねて行くと、猫は決まって家の押し入れの中に隠れて出てこないのだ。でも、暗い影からじっと私の様子を見つめている。夜、寝ていると、猫はようやく出てきて、私のお腹の上で丸くなって眠るのだ。重くてどいてもらおうと思ったが、その毛に触れるのはなんだか怖いような気がした。そういえば、その後、人の食べ物を食べて、病院に運び込まれたと聞いた。

 隈の中に沈んでいくような彼の暗い瞳は、私を見つめていた猫の目のように思えた。


「そして、口の中に手を入れ、食べ物を掘り出そうと口の中をまさぐるんだ。喉の奥まで爪で掻き立てられ、えずきそうになるが、猫が僕を見つめている間は金縛りにあったように動けない。そして僕の体の中から何かを取り出して食べ始めるんだ」

「夢は……」


 夢ではないか。そう言おうと思ったとき、カチャリと寝室のクローゼットの扉が開く音が生々しく響いた。



 料理を食べ、彼が奇妙な表情を浮かべた夜に、クローゼットは開き、彼は悪夢を見る。

 しかしいくら考えても、どの料理や具材が引き金になるのかわからない。それ以来、私たちは外食や総菜で夕食を済ませるようになった。


 そして、私の密かな楽しみも消えてしまった。

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