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悪役令嬢のおもてなし

作者: 錆猫てん

 談話室には、翡翠色のカーテンを透かして陽光が柔らかく差し込んでいた。磨き上げられたテーブルには、純白のティーセットと控えめな焼き菓子。並んで置かれた書状の封蝋には、金色の双頭鷲──エレシアン帝国の紋章。


 アクヤ・カルディスは、その手紙に目を落としながら、静かに紅茶を口に含んだ。対面に座る母、公爵夫人リディアもまた、同じく無表情のままカップを傾けている。


「そう」


 それだけが、夫人の返答だった。


 それだけで、すべてが通じた。エレシアン帝国からの第二皇子ジェラルト殿下との縁談は、友好国との結びつきを意図した形ばかりの申し出であり、アクヤの意思、公爵家の立場、そして何をどうすべきかまで、言葉なくして理解し合っていた。


 この親子にとって、言葉は最小限で足りる。


 アクヤは視線を落としたまま、静かに口を開いた。


「手紙には、“前向きな顔合わせを経て”と書かれていました。すぐに断ることは、外交上望ましくないようです」


「ええ、そう、ですわね」


 母は紅茶をひとくち。まつげの影がカップに落ちる。


「ジェラルト皇子に関する情報は?」


「手配しておりますが……帝国は情報統制が強いので、あまり期待はできませんわ」


「ええ、そう」


 短いやり取りの中に、母娘の阿吽の呼吸が感じられた。

 公爵家の者として、軽々しく感情を表に出すことはない。だが、互いの思いは、もうとっくに言葉を超えて伝わっている。


 中等部の卒業式の日。

 第一王子の気まぐれな婚約破棄。

 “真実の愛”という名の無責任な言葉。


 それらがどれほど娘を傷つけたか、母は理解している。

 そして、アクヤの意志を何よりも尊重すると決めている。


「それで……?」


 その問いに、アクヤはカップを置いた。


「お任せいただけますか?」


「ええ、もちろん。あなたの好きなように、ね」


 淡々とした会話の果てに、ほんのわずかな、目に見えぬ微笑が浮かぶ。

 たとえ“帝国との縁談”であっても──この娘ならば、やってのけるだろう、と。


***


 私室の扉を閉める音と同時に、アクヤは深くため息をついた。

 談話室では見せなかったわずかな疲れの色を、ようやく浮かべる。


「……おかえりなさいませ、アクヤ様」


 控えていた侍女エルナが小さく一礼し、緋の瞳がすぐに主の顔を見つめた。微細な表情の変化すら見逃さないのが、長年仕えてきた彼女の特技だった。


「顔合わせ、ですの。数日後に」


「エレシアン帝国の、あの噂の?」


「ええ。昼行灯と名高い第二皇子ジェラルト殿下。情報は集めさせていますけれど、帝国はなかなか手強いわ」


 そう言いながら、アクヤの口元がわずかに吊り上がる。


「あら、エルナ。どうしたの? そんなに怯えた顔をして」


「い、いえ……あの、アクヤ様。その……何か、考えていらっしゃいますわね……?」


 エルナの声がわずかに震える。手にしたメモ帳が、かすかに揺れた。


「帝国に、わたくしが嫁ぐのよ? このままでは」


「そ、それは──」


「……それとも、あなた。わたくしがあちらの宮廷で、知らない男たちに囲まれて暮らす未来を想像して、何も思わないの?」


「あ、アクヤ様っ……!」


 エルナが息を呑んだ。その手がぴたりと止まる。


 アクヤはくすりと笑った。その微笑は、あまりにも悪役令嬢的で、優雅で、そして、──楽しげだった。


「さあ。どうすれば、向こうから“ご縁談などなかったことに”してくれるかしら?」


「……本当に、やるのですね……ごくり……」


 エルナの喉が鳴った。


 アクヤは優雅に椅子へ腰を下ろすと、まるで舞踏会のドレスでも選ぶような気軽さで言った。


「ええ。過不足のないもてなしを、ね。──こちらが本気で断りにいくのだもの、それ相応の礼儀は尽くさなければなりませんわ」


 その声に宿る確かな決意と、どこか無邪気な期待。エルナは悟った。主は本気なのだ、と。


***


 壁には古い地図、棚には兵書と歴史書──質素ながらも選び抜かれた調度に囲まれた室内で、ジェラルト・エレシアンは一枚の報告書に目を通していた。


「……ふむ」


 薄暗い照明の下、灯の揺らぎに瞳が静かに光る。

 普段の彼からは想像もできない、鋭く研ぎ澄まされた眼差しがそこにはあった。


「アステリオ王国、カルディス公爵家令嬢。名はアクヤ・カルディス」


 近くで控える黒衣の青年が一礼する。

 ジェラルトの侍従にして、唯一の腹心・カインである。


「報告書、まとめました。諜報網が掴めた範囲ではありますが……公には『婚約破棄された冷たい令嬢』との評が定着しています」


「“冷たい”ね……実際は?」


「才色兼備、王妃教育を早期修了し、国政の基礎知識も履修済み。加えて高等部は首席卒業」


「その程度で“冷たい”と評されるのなら、国の基準の方を疑うべきだな」


 ジェラルトはくつくつと笑い、紅茶に口をつけた。帝国では彼のことを「女癖が悪く、無能な皇子」と見る者が多く、その通りだと思っている者もいた。


 それでいいのだ。皇族の継承権など、目立てば潰される。兄に疎まれず生き残るには、無能を装うことが最善の策だった。


 だが──。


「中等部卒業式での婚約破棄、第一王子の口から“真実の愛”などと語られたとあるが……」


「アクヤ様は、淡々と『それなら仕方ありません』と受け入れたそうです。第一王子が悪者にされぬよう、学校側から箝口令が敷かれ、世間では“彼女に何か問題があった”という空気が流れたそうです」


「ふん。気の毒な話だな」


 そう言いながら、ジェラルトの指先が静かにページをめくる。

 語調に同情の色はない。けれどその目は、明らかに強い関心を帯びていた。


「この令嬢、“選ばれること”に意味を見出していない。むしろ“選ぶ側”に立とうとしているように見える」


「……殿下の仰る通りかと。あの方、王子との婚約破棄後、いくつも縁談を断っておられます」


「この時代に、公爵令嬢でそれが許されるのは珍しい。つまり、実家の力に頼らずとも、自身の判断と知性で未来を選ぼうとしているのだな」


 ジェラルトはゆるりと椅子に凭れかかり、ひとつ深く息を吐いた。


「面白い。こんなに“意志”を持った令嬢は、初めて見る」


 彼が興味を抱くのは、ただ美しいからではない。頭が良いからでもない。

 “利用される側”を拒み、“自分の未来を選ぶ覚悟”を持った女性──その存在が、心底面白かった。


「カイン」


「は」


「すぐに縁談の申し込みを出せ。条件は、『顔合わせ』だけで構わない。強く押しすぎると、引かれるだろうからな」


「承知しました」


「ふふ……さて、どんな“おもてなし”が返ってくるのか。楽しみだ」


 カップに残る紅茶をすべて飲み干し、彼は薄く笑った。


 “昼行灯”など、ただの仮面。


 本当の自分を曝け出せる相手など、この人生で現れはしないと思っていた。


 だが──アクヤ・カルディス。

 あの氷の令嬢と出会った時、果たして仮面を被っているのはどちらなのか。


「これは、楽しい駆け引きになりそうだ」


 ジェラルトの声には、確かな熱と戦意が宿っていた。


***


 三日前


「……帝国で主に流通している新聞は五紙。うち三紙は王族への批判を避け、残る二紙が比較的自由な論調。少なくとも、書評欄や文化面の片隅から、ジェラルト殿下の人物像の断片は掬えそうです」


 アクヤは書架に並んだ資料を丁寧に抜き出し、机の上に積んだ。並ぶ文献、旧聞、帝国の式典名簿、舞踏会の参加記録──。


 その傍らで、侍女のエルナが半ば呆れ顔で呟く。


「……普通のご令嬢は、顔合わせにここまで全力を注いだりしませんわ」


「普通の縁談ではないもの。こちらから“白紙にして差し上げる”ことが目的ですもの」


 アクヤは紅茶をひとくち。優雅に口元を拭きながら、続けた。


「外交の都合で断れぬのなら、断ってもらうしかありませんわ。皇子殿下が“これは縁談どころではない”と思うほどの過不足のないもてなしを、ね」


「まるで毒入りのお菓子で誘惑する魔女みたいですわ……」


「まぁ。毒を盛るなんて下品な真似はしませんわ。せいぜい、過剰に気を遣わせたり、居心地を悪く感じさせる程度の“礼節”を尽くすだけですもの」


 エルナはごくりと息を呑む。


 アクヤ様の「おもてなし」は、礼儀と常識を守った上で最大限に“心を折る”という、逆に一番タチが悪い部類だ。


 だが、それでも、これほど生き生きと策を練るアクヤの姿は、久しく見ていなかった。


「……本当に、行ってしまわれるのですか? 帝国に」


 そう尋ねるエルナに、アクヤはゆるく笑った。


「あら。そんなに寂しくなるの? いっそ、ついてくる?」


「そ、そういう意味では……っ」


「冗談よ。でも、だからこそ協力してくれるわよね?」


 目元をわずかに緩める主に、エルナは根負けしたように頭を下げる。


「……分かりましたわ。アクヤ様。全力で“おもてなし”のお手伝い、いたします」


「ええ、期待しているわ。あなたの采配、いつも完璧ですもの」


 ふたりの令嬢と侍女が静かに微笑み合うその瞬間から、精緻な“歓迎の舞台”が幕を開けたのだった。


 二日前


 エレシアン帝国の王宮から、使節団を率いて出発するジェラルトは、玉座の間での“出発前の儀礼”を粛々とこなしていた。

 表情は穏やか。言葉は控えめ。まるで何の関心もない男のように、退屈げに振る舞っていた。


 もちろん、全て演技である。


 馬車の中、ふたりきりになったジェラルトとカインは、表の仮面を脱ぎ捨てるように顔を見合わせた。


「アクヤ・カルディス令嬢……事前情報からして、こちらの仕掛けに気づく可能性が高いと考えますか?」


「気づくどころか、既に“迎撃準備”を進めているだろうさ」


「つまり──こちらが“試される”側、ですね?」


「いいや、むしろ“歓迎される側”として心して臨まねばなるまいよ。きっと想像の斜め上を用意して待っている」


 ジェラルトは、馬車の窓から遠ざかる帝都を眺め、笑った。


「面白くなってきたな。実に、楽しい。こんな風に心がざわつくのは、何年ぶりだろう」


 前日


 カルディス公爵家の屋敷では、侍女と従者が慌ただしく立ち働いていた。

 玄関ホールの絨毯は新調され、応接間の装花は帝国式の好みに合わせてあしらわれていた。

 あまりに完璧すぎる“調整された空間”は、むしろ居心地の悪さすら感じさせるほどだった。


「……ここまでする必要、ありますか?」


 エルナが遠慮がちに問う。


「ええ。やり過ぎるほど、やるのが礼儀ですわ。──歓迎の名の下に、徹底的に気を遣わせる。それが今回の“趣旨”ですもの」


 アクヤは静かに髪をとかしながら、鏡の前で微笑む。

 その表情は冷ややかで、けれどどこか楽しげだった。


***


 時刻ぴたりに、公爵邸前に黒馬のひく馬車が止まった。

 エレシアン帝国の紋章を冠した豪奢な車体。扉が開き、第一歩を踏み出したのは、柔らかい金髪を丁寧に整えた青年──ジェラルト・エレシアンである。


「お迎えにあがりました、殿下。どうぞ、こちらへ」


 アクヤは、自ら出迎えていた。控えめな礼に、表情は動かさず。


 ジェラルトもまた、軽く頭を下げた。


「ご丁寧にどうも。……アクヤ・カルディス令嬢」


「こちらこそ、ようこそお越しくださいました、ジェラルト殿下。精一杯、おもてなしさせていただきますわ」


 氷と仮面が、初めて相まみえた瞬間だった。


 空気は静かに凍りつき、そして……駆け引きの火種が、音もなく灯された。


***


 カルディス公爵家・正応接室。


 部屋の中央に置かれた長方形のテーブルには、帝国様式の純銀のティーセットと、丁寧に磨かれたクリスタルガラスの水差し。周囲の家具はすべて、帝国の宮廷に倣って配置が調えられ、絨毯には帝国皇室とゆかりのある紋様が織り込まれていた。

 まるで、帝国宮廷の別室をそのまま再現したかのような空間。


 それは完璧な“帝国流”の空間だった。だが、あまりにも不自然だった。


「……まるで帰省でもしたような気分ですね。居心地が良すぎて落ち着きません」


 ジェラルトはそう冗談めかして言い、椅子に腰を下ろす。笑みの奥には探るような光。


 対するアクヤは、姿勢ひとつ崩さずに微笑んだ。


「それは何よりですわ。お客様に不快な思いをさせぬことが、第一ですから」


「過不足なく、完璧なもてなし……でしょうか?」


「いえ、過剰に、ですわ。──“特別なお客様”ですもの」


 アクヤの声には柔らかな響きがあった。けれど、それは心を許す柔らかさではなく、氷の表面に陽光が差すような一瞬のきらめき。


 ジェラルトはティーカップを取った。ふと、その中に注がれた茶の香りに目を細める。


「……エルザローズ。帝国北部原産の、少し癖のある香りですね」


「お気に召しましたか?」


「ええ、とても。だが珍しい選択です。あれは一般的には、“意図を読むのが難しい”とされる香りでして」


「奇遇ですわね。殿下のことも、私にはまだ読みづらくていらっしゃいますから」


 瞬間、カップの縁で交わる視線。微笑を浮かべたままの攻防。

 刺すでも殴るでもなく、ただ優雅に。けれど明らかに、これは“試合”だった。


***


 応接室の隅に控えるエルナは、アクヤの一挙手一投足に絶妙な呼吸で対応していた。

 ティーポットの交換、室温の調整、窓辺の光の加減──すべてが“最上級の礼節”として仕込まれた仕掛け。


 それは、アクヤからの「あなたにふさわしい接待をしていますよ」という無言の圧力でもあった。


 (……本当に、全部やってしまうなんて)


 エルナは胸中で呟く。あれほど用意した“やりすぎな空間”を、アクヤは寸分の妥協もなく実行に移した。


***


「殿下には、もう一室ご覧いただきたい場所がございますわ」


 アクヤがそう促したのは、応接の終盤。

 案内されたのは、別室に設えられた小舞踏会場──通常はパーティーに使われる空間を、帝国式の宮廷舞踏会にならって設えたものだった。


「……これはまた」


 ジェラルトが立ち止まる。目に映るのは、帝国式の音楽家配置、舞踏の手順が記された小冊子、さらに軽食や飲料の準備まで含めた、完璧すぎる再現。


「顔合わせとは、単に言葉を交わすだけでは不十分ですわ。帝国では、舞踏会における所作や即応力も評価に含まれると伺っておりますもの」


「これはつまり──?」


「ええ、“ご評価”いただければ幸いですわ、殿下」


 あえて皇子に“選ぶ側”ではなく“評価する側”を意識させる配置。そしてその場を主導しているのが“令嬢”であるという事実。


 誘導。主導権。試すという行為の裏返し。


 ジェラルトは、その意図を正確に読み取った。そして、面白がった。


「……参りました。こちらの仕掛けが一手も打たぬうちに、既に数手先を行かれているようです」


「何のことかしら。これはただの“おもてなし”ですわ」


 微笑とともに手を差し伸べるアクヤ。その表情は冷たいまでに優雅で、そして──一瞬だけ、ほんの僅かに頬が赤らんだようにも見えた。


 ジェラルトはその手を取り、笑った。


「でしたら、全力で“礼を尽くす”といたしましょう」


***


 夜会ではないはずなのに、部屋には仄暗く温かな照明が灯っていた。壁際には、帝国式の楽団が静かに奏でる弦の調べ。床には磨き上げられた寄木張り、部屋の四隅には控えめな香を焚き、来訪者の嗅覚までも“帝国式”に染め上げる徹底ぶり。


 その中央、アクヤ・カルディスが立っていた。


 その立ち姿は、凛として美しい。銀糸の刺繍が施された紺青のドレスは、夜空のように気高く、仮にそこに“王妃”の名を冠しても誰も疑わぬだろう。

 彼女の準備は万端だった。全て計算ずく。全て、ジェラルト皇子を“試す”ために。


 ジェラルトは軽く一礼し、右手を差し出した。


「お誘いする立場かと思っていましたが、これはどうやら──私の方が試される役回りのようですね」


「それもまた、“舞踏会の定め”ではなくて?」


 アクヤは、迷いなくその手を取った。


 第一の回転


 第一楽章。ゆったりとした三拍子の舞曲が始まる。

 ふたりは自然な足運びでステップを踏み出す。右足、左足、軽やかに回転。


 完璧な所作。誰が見てもそう思う。


 アクヤは目を細めた。

 足の動き、手の角度、旋回時の重心移動。すべてが“帝国舞踏”の上級貴族教育に沿っていた。


 (……隠していらっしゃいましたのね。皇子として、ここまでの基礎が備わっているとは)


 宮廷において、舞踏は“政治”のひとつ。ふたつの国が正式に交わる第一歩として、ここは譲れない舞台だった。

 だが、彼は軽やかに、しかも余裕を持って踊っていた。


 第二の旋回


「……実は昔、姉君の婚礼の際、式典舞踏の予行でこっそり練習をさせられましてね」


「まあ、殿下にも“こっそり”なさることが?」


「ええ、嫌々ながらも。誰に見せるわけでもないと思っていましたが、まさか十年後、今日この時に役立つとは」


 言葉の端々に皮肉をにじませながらも、声は穏やかだった。

 アクヤは、ふと視線を向けた。


 ──彼の笑みは、演技なのか、素なのか。


「殿下は、ずっと“隠されてきた”のですね」


「……何を?」


「ご自身の能力、理解力、そして──感情を」


 ジェラルトは小さく笑った。ほんの一瞬、目元に驚きが走ったが、それはすぐに消える。


「隠してきた、というより……見せる必要がなかったのですよ。少なくとも、今日までは」


「今日までは?」


「ええ。──今夜、ようやく。仮面を脱いでもいい相手に出会った気がしていますから」


 言葉に乗せられ、アクヤは一瞬だけ動揺しそうになる。けれど、表情には出さない。


「……ずいぶんと、お上手なのですね、そういう口説き」


「光栄です。ですがこれは、口説きではなく“観察報告”ですよ。私が、あなたに見つめられていると感じたように、私もまた、あなたを見ていたのです」


 終曲


 曲が終わる。最後の回転と停止。

 ふたりは距離を取り、優雅に礼を交わす。


 その一連の動作すべてが、公爵家の令嬢と帝国皇子にふさわしい振る舞いだった。

 だが、それ以上に、そこには“ふたりの個人”が確かにいた。


「素晴らしいお時間を、ありがとうございました、アクヤ・カルディス令嬢」


「こちらこそ。……お楽しみいただけたのなら、幸いですわ」


 その言葉に嘘はなかった。

 アクヤにとってもまた、想定外に心の熱が揺れ動いた舞踏だったのだ。


***


 ジェラルトとの舞踏の余韻が残る部屋を出たあと、アクヤは一人、渡り廊下の窓辺に佇んでいた。


 おもてなしは、成功している。彼の懐に踏み込み、試し、揺さぶった。今のところ、すべて計画通り。


 しかし。


 (なぜ……こんなに、心が落ち着かないのかしら)


 風が頬を撫でる。思わず手を握り締める。


 (あれほど完璧に振る舞ったはずなのに。……あの方の言葉ひとつで、こんなにも、揺れてしまうなんて)


 遠くで鳥の声がした。アクヤは一度だけ、深く息を吐いた。


 (だめ。今は、まだ)


 それは“勝ち負け”の問題ではなかった。だが、譲れない矜持は確かにそこにあった。


***


 自室に戻ったアクヤは、深く息を吐いた。


「……あの方、本当に“ただの昼行灯”ではありませんわね」


「はい……むしろ、アクヤ様と似ておいでのような」


 エルナの言葉に、アクヤはふと口元を緩めた。


「似ている……? ──それは褒め言葉として受け取っておきますわ」


 鏡に映る自分の顔が、少しだけ紅潮しているのに気づき、そっと髪を整えなおす。


 (……まだ、勝敗はついていませんわ。次は──)


***


 舞踏会の夜が明けた翌朝、カルディス邸は一層静寂に満ちていた。


 絨毯に吸われるような足音、香木の焚かれた香り、銀器が光を受けて生む微細な煌めき。

 それら全てが、あくまで“自然に”、“過剰すぎない範囲で”配置されていた。


 まるで館そのものが生き物のように、客人である皇子を包み込み、心地よく締め上げていく。


***


 朝の食卓には、アクヤが前夜から準備を指示したメニューが並んでいた。帝国式にアレンジされた品々はどれも美味ではあるが、形式・作法ともに細部まで“再現”されている。


 ジェラルトは銀のナイフを静かに置き、ふっと微笑んだ。


「まるで実家の朝食のようです。皿の配置、配膳の順序、焼き加減、全て──記憶と寸分違わぬほど」


「お気に召していただけたのなら、幸いですわ」


 アクヤは静かに答える。口調には柔らかさと共に、明確な“意図”がある。


 そう──これは“情報戦”でもある。

 ここまで帝国式の生活様式を再現できるということは、彼女がどれだけ調べ上げたかの証明に他ならない。


 (どうぞ、重く感じていらしてくださいませ。私がどれほど“あなたを分析しているか”を、痛感して)


 だが──ジェラルトは苦もなくパンにバターを塗り、平然と微笑んでいた。


「ところで、朝食の香草は帝国北東部のものですね。アクヤ令嬢は、あちらのご滞在経験でも?」


「いえ。わたくし、すべて書面と資料と記録から得た知識でございます」


「なるほど……それは、それは。学者のような勤勉さです」


 言葉の応酬は穏やかながら、刃のように鋭い。

 アクヤは微笑を崩さず、カップを傾ける。


***


 食卓の端で控えるエルナは、侍従カインの動きをじっと見つめていた。

 相手が皇子付きの侍従というのは承知している。が、それにしても──


 (……細かい。あの動き、絶対に“何かを察して”動いてますわ)


 たとえば、アクヤの飲み物の残量に合わせて絶妙なタイミングで殿下に水を注がせたり。

 エルナが意図的に“もてなしの圧”を上げようとした仕掛けを、さり気なく中和させてしまう。


 (さすが、ジェラルト殿下の侍従……こちらの動きに慣れておいでですのね)


 一方、カインもまた心中で小さく唸っていた。


 (この侍女……抜かりがない。さっきの紅茶の銘柄、殿下が好むものをピンポイントで使った)


 静かに交錯する視線。音もなく交わされる、小さな駆け引きの数々。

 主従同士の見えない攻防は、今や“補助”の域を超えて“補佐戦”に昇華していた。


***


 昼食後、アクヤは館内の庭園を案内しながら、あくまで自然な会話の流れで「結婚観」や「女性の役割」など、価値観に触れる話題を振った。


「殿下の帝国では、王族の伴侶は、政治的にはどのような立場で在られるべきと?」


「問いの立て方が鋭いですね。……強いて言うなら、“一枚岩ではなく、双つの柱”であってほしいと思っています」


「お飾りではなく、ですか?」


「もちろん。美しさも品位も求められますが、それだけでは国は支えられない。共に考え、共に進む人でなければ──私には、不要です」


 その一言に、アクヤの目がわずかに見開かれる。


 (……言葉では、いくらでも理想を語れます。けれど、この方は──)


 ジェラルトの声には、どこか諦観と現実感、そして熱が混ざっていた。

 それは、“口説き”としての言葉ではない。真実として抱えている、信条に近い。


「あなたが、仮に帝国に嫁がれるとしても──ただ黙って後ろに立つような相手ではないと、私は分かっています」


 アクヤは小さく息をついた。


「……どうしてそう思われますの?」


「あなたは、あの舞踏会の場でも“場を制した”。何も言わずに、です。そんな方が、ただ従うなど……有り得ないでしょう」


 彼は、こちらの“演出”の意図をすべて理解し、そのうえで言っている。


 ──だからこそ、厄介だ。


***


 夜のティータイム。

 アクヤは最後の“もてなし”として、あえて用意した少し“外した”デザートを差し出した。


 素朴な地方の焼き菓子。上品ではあるが、明らかにこれまでの高級路線とは違う。


「……これは?」


「王国北西部の農村で作られている菓子です。素朴ですが、わたくしの好きなものの一つです」


 ジェラルトはその菓子を口にし、ふと目を細めた。


「……これは、いい」


「お気に召しましたか?」


「ええ。こういう“余白”のある味、私は好きですよ。……それに、あなた自身を少しだけ垣間見えた気がします」


 アクヤは、少しだけ視線を伏せた。


 “完璧”で押し通すつもりだった。

 けれど、今は──。


***


 その夜、自室で髪を解きながら、アクヤは鏡の中の自分を見つめた。


 次の一手。まだ勝負は終わっていない。


 けれど、彼と話しているとき、確かに心のどこかが“揺れた”気がした。

 それは認めたくない感情だった。


 (ジェラルト・エレシアン。あなた、あまりにも……)


 静かに目を閉じる。


 面白すぎるお相手ですわ。


***


 ジェラルトの滞在も、明日で終わる。

 アクヤはその日の午後、館の一角──客人を通さないはずの別館書斎に彼を招いた。


 重厚な扉が閉じられ、空間は二人きりになる。

 椅子は向かい合わず、横並び。窓の外には晩春の庭が広がっていた。テーブルには書簡と茶と──一枚の書類。


「ご案内いただき、光栄です。……けれど、どうして書斎などという場所へ?」


 ジェラルトが探るように問う。


 アクヤは静かに答えた。


「この空間は、わたくしが“公爵家の令嬢”としてではなく、アクヤ・カルディスとして誰かと話をする、数少ない場所です」


「……なるほど。では、“本音”を語る場所でもあると?」


「ええ。そして本日お呼びしたのは、殿下に──“最後の確認”をしておきたかったからです」


 アクヤは文書を差し出す。

 それは、王国における縁談取り交わしの覚書──“面会の結果を持ち帰り、後日再検討する余地を残す”ための、いわば“即答を避ける文書”であった。


「わたくしは、これに署名をいただければ充分です。今回の顔合わせは、外交儀礼としては十分に果たされたでしょう。お互いに、礼節の内に幕を引ける」


 ジェラルトは黙って紙を見た。

 表情に、初めて“動き”が走る。


「……つまり、それがあなたの“答え”なのですね?」


 アクヤは頷いた。視線はまっすぐ。表情は冷静そのもの。


「殿下のお立場、これまでの言動に一点の非もございません。それでも、わたくしは──“縁談”という形を望みません」


「理由を、お聞きしても?」


「……理由など、いくらでもご用意できますわ。ですがそれは本質ではありません。──わたくしの意思です」


 “選ばれる側”ではなく、“選ぶ側”で在ること。


 それがアクヤ・カルディスの矜持だった。


***


 ジェラルトは長い沈黙ののち、立ち上がった。

 窓辺に歩み、外の庭を見下ろす。日差しが横顔にかかる。


「……正直に申し上げて、今回の縁談は、“わたしから”申し上げたものでした」


 アクヤの目がわずかに動く。


「帝国の命ではない。兄の命でも、外交儀礼でもない。──わたし自身が、あなたに会いたくて動いたのだ」


「…………」


「中等部卒業式の日、あなたが“真実の愛”という言葉に何の抵抗もなく背を向けたと、帝国の諜報記録で知ったとき……“この人間は、信じられる”と、思ってしまったのです」


 ジェラルトは振り返る。

 いつもの飄々とした微笑はそこにない。かわりにいたのは、真っ直ぐに感情を露わにする、一人の青年だった。


「わたしは、父にも兄にも、信頼されたことはありません。能力を隠したのではなく、“疑われたくなかった”のです。……けれど」


 アクヤは、はっとする。

 その瞳に、痛いほど真摯な光が宿っていた。


「あなたなら、きっと“わたしの本質”を見てくれる。仮面の裏を暴くことを恐れない。そんなふうに思ってしまった。──それが、わたしの驕りだったのかもしれません」


 アクヤは返す言葉を、失った。


 完璧に封じたはずの舞台で、完全に主導権を握っていたはずの計略で──彼は、仮面を脱ぎ、剥き出しの言葉で告げてきた。


「……この縁談が流れたなら、それでいい。あなたが選んだ答えならば、尊重します」


「…………」


「ただ、どうか──あなたが誰かに“選ばれた”ときではなく、“誰かを選ぶ”ときが来たなら。そのときの候補に、わたしの名が浮かぶことを──ほんの少しだけ、願ってもよろしいですか?」


 アクヤは、胸の奥を深く突かれたような感覚に、ただ、立ち尽くしていた。


***


 その夜──


 エルナは、アクヤの傍らに静かに立っていた。

 無言で椅子に座り込む主の肩に、そっとショールをかける。


「……少しだけ、予想外だったわ」


 アクヤがぽつりと呟く。


「どこまでが計算で、どこからが本音だったのか。──でも、あの目は、嘘ではなかったわ」


「アクヤ様……」


 アクヤは、ショールの端を握りしめる。

 頬は紅潮していた。悔しさか、困惑か、あるいは──別の何かか。


「わたくし、負けたのかしら。……いえ、勝ち負けの問題ではなくて」


 少しだけ、涙ぐんだような笑顔を浮かべた。


「こんなの、ずるいですわ、ねえ、エルナ」


***


 翌朝、ジェラルト皇子は静かに帰路についた。


 特使を通じて伝えられたのは、ただ一行。


 『縁談は一旦保留。互いに礼を尽くした上で、再考の余地を残すこととする』


 それは、白紙ではない。けれど、契約でもない。

 ただ、可能性の余韻だけが、柔らかく残された。


 それが、アクヤ・カルディスとジェラルト・エレシアンの“顔合わせ”の結末だった。


***


 夏の陽光が、カルディス邸の庭を柔らかく包んでいた。


 午前のひととき、アクヤは談話室の一隅で、文机に向かっていた。

 白い封筒の上には、見覚えのある紋章──エレシアン帝国第二皇子、ジェラルト・エレシアンの私印。


 けれど、使われている封蝋は公文書用の赤ではなく、私的通信を意味する“藍”。


 エルナが、黙って隣に湯を注いだ。

 アクヤは礼も言わず、ただ、しばし封筒を見つめていた。


 そして、指先でゆっくりと封を切る。


――――――


 拝啓、青葉繁れる季節、貴家のご清祥を心よりお祈り申し上げます。


 あの日、貴邸にていただいた“おもてなし”の数々、いまだ記憶に鮮やかに残っております。

 特に最後の焼き菓子、あれは今でも時折、帝都にて取り寄せております。


 あの後、帝国では例によって政変の風が吹きかけ、兄は表舞台を離れました。

 おかげさまで私は、また少し自由な時間を得ております。


 貴女に対し、改めて申し上げたいことがひとつございます。


 私は、貴女に王妃としての役割を求めていません。

 伴侶として共に歩む人間が、どのような形を選ぶか──それはその人自身が決めるべきだと思っております。


 ゆえに、これは“求婚”ではありません。ただの、私信です。

 ただの、ジェラルト・エレシアンという一人の人間が、アクヤ・カルディスというあなたと、再び話がしたいと願っている──それだけです。


 もしも、また一度、お茶をご一緒いただけるようでしたら。

 どうか、そのときは、帝国の形式でも、王国の礼式でもない──


 ただ、貴女と私の言葉で語らえる時間を、願ってやみません。


 敬具


 追伸:前回は、全て読み切られていた気がしてなりません。今度は、こちらの番にさせてください。


――――――


 そして、手紙の余白に走り書きのように


 あの焼き菓子のように──少しだけ“余白”を残した時間をご一緒できたら、これ以上の幸福はありません。


 アクヤは、手紙を最後まで読み終えて、そっと机に置いた。

 その表情に、誰も見たことのない、けれどどこか“少女のような”揺らぎが浮かんでいた。


「……なんて、ずるい手紙かしら」


 エルナが、わずかに息を呑んだような気配を見せた。


「それは……どういう、意味で……?」


 アクヤは、カップを手に取り、窓辺に向かう。


「王子としての力も、知略も、格式も全部脱ぎ捨てて……“あなたと話したい”ですって、……断る理由が、見つからないじゃありませんの」


 庭に風が吹いた。カップの中の茶が、かすかに揺れた。


「エルナ、準備してちょうだい。“私自身”として、返事を書きますわ」


「……畏まりました、アクヤ様」


「ふふ。──いいえ。今のわたくしは、ただの“アクヤ”でございますもの。ね?」


 それから数日後、帝国に届いた一通の返書。


 それは公印も礼式文もない、ごく個人的な私信だったのだ。


――――――


 返事が遅れてごめんなさい。少しだけ考える時間が必要でした。


 あなたと再びお話しできること、わたくしも少し──いえ、とても、楽しみにしております。


 でもひとつだけ、お伝えしておきますわ。


 わたくし、二度と“選ばれるだけの人生”は歩みません。


 ですから、あなたを“選ぶかどうか”は、これから、わたくしが決めさせていただきます。


 どうぞ、それを前提に、またお茶をしましょう。


 ……カルディス家書斎より、アクヤ・カルディス


 PS:あの焼き菓子は、帝国に持っていっても美味しく焼けるよう、今レシピを調整中ですの。……また、お口に合いますように。


――――――


 アクヤは手紙を封筒に納め、しばし静かに窓辺に立った。


 その瞳には、晴れやかな光と、まだ名付けようのない“熱”が宿っていた。


 これは、まだ始まりにすぎない。


 選ばれるのではなく、自ら選ぶ者として。仮面を脱いだ者同士の、新たな駆け引きが。




最後まで読んで頂きありがとうございました。

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