第8話「村での休息」
森を抜けた先に、小さな村があった。
「緑風村」。
丘陵地帯に寄り添うように広がる素朴な集落だ。
整備された道はなく、泥道に並ぶのは、質素な石造りや木造の家々。
だが、そこには確かに、人々の生活の温もりがあった。
リュシアとガルドは、村の中央にある宿屋「緑風亭」にたどり着いた。
「……こんなところに、宿なんてあるんだな」
リュシアは、ぼそりと呟いた。
魔導書院で育った彼女にとって、こうした庶民の暮らしはほとんど縁がなかった。
どこか、異世界に迷い込んだような心地すらする。
「贅沢は言うな。あれでも、この辺りじゃ一番マシな宿だ」
ガルドがぶっきらぼうに言いながら、木の扉を押し開ける。
——ギィィィ。
中に入ると、暖炉の火のぬくもりと、香ばしいパンの匂いが出迎えた。
年配の女主人が、柔らかな笑顔で出迎える。
「おやまあ、珍しいお客さんだね。旅のお方かい?」
「一泊、二人分だ」
ガルドが銀貨を差し出す。
リュシアは、懐からぎゅっと銀貨を取り出して握った。
害獣討伐の報酬。
自分の手で、初めて稼いだお金。
「私の分は、自分で払います」
女主人は、少し驚いたような顔をして、にっこりと笑った。
「しっかりしてるねぇ」
リュシアは、照れ隠しにそっぽを向いた。
質素な部屋だった。
木の床に、手編みのカーペット。
小さなベッドと、窓際の机だけの、簡素な作り。
だが、今のリュシアには十分だった。
(これが、私の稼ぎで得た場所……)
胸に、じんわりと温かいものが広がる。
ガルドは、窓際にどかりと腰を下ろすと、腕を組んで言った。
「今日の戦い、悪くなかった」
リュシアは、思わず顔を上げた。
「……本当に?」
「ああ。初めてにしては、上出来だ。よく考えて行動した」
ガルドの評価に、リュシアの胸がふっと軽くなった。
ほんの少しだが、誇らしかった。
誰かに認められることが、これほど嬉しいとは思わなかった。
「でも……」
リュシアは、拳を握った。
「まだまだ、だよね」
「当たり前だ。剣は、魔法みたいに一夜にして極められるもんじゃない」
ガルドは、にやりと笑った。
「だが、あきらめなければ強くなれる。それが剣士だ」
リュシアは、強く頷いた。
(——私も、あきらめない)
たとえ、魔法を失っても。
たとえ、何度転んでも。
私は、前に進む。
***
翌朝。
リュシアは、一人で村を散策していた。
澄んだ空気。
朝露に濡れた田畑。
泥だらけの手で作業する農民たちの、たくましい背中。
かつて、王国の中心、魔導塔の上から眺めた世界とは、まるで違う。
ここには、魔法も栄誉もない。
ただ、生きるために働き、生きるために笑う人々がいた。
リュシアは、胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
(……私は、あの高い塔の上で、何を見ていたんだろう)
かつて、見下ろしていたはずの人々。
だが今、彼らが眩しく見えた。
ふと、道端で売られていたリンゴを眺めていると、店主の中年女性が声をかけてきた。
「坊ちゃん、珍しい顔だねぇ。旅人かい?」
「……まあ、そんなところ」
リュシアが曖昧に答えると、店主は顔をほころばせた。
「昨日のイノシシ退治、あんたたちがやったんだってね!助かったよ。あんな化け物に畑を荒らされたら、たまったもんじゃないからねぇ!」
リュシアは、驚いた。
「……知ってるの?」
「もちろんさ!村中で噂になってるよ。ありがとね、坊ちゃん!」
リンゴをひとつ、手渡してくる。
「これ、お礼だよ。受け取っときな!」
リュシアは、戸惑いながらもそれを受け取った。
暖かい手だった。
(私でも……誰かの役に立てるんだ)
胸の奥で、何かがそっと芽生えた気がした。
***
村の広場。
子供たちが走り回り、老人たちが日向ぼっこをしている。
その中で、リュシアは奇妙な噂を耳にした。
「森の精霊と話せる少女がいるんだって!」
「ほんとかよー?お化けだろ?」
「でも、あの子、本当に不思議な力を持ってるってさ」
リュシアは、耳をそばだてた。
森の精霊。
そして、精霊と話せる少女。
(……精霊)
かつて、魔導書院でも研究されていた存在。
自然の中に宿る不可視の力。
リュシア自身も、魔法を失う前は微かに精霊を感じ取ることができた。
(……気になる)
自然と、足が村外れへと向かっていた。
やがて見えてきたのは、花々に囲まれた小さな小屋。
まるで、森の中に溶け込むように佇んでいる。
リュシアは、小さく息を整え、扉をノックした。
——コンコン。
しばらくして、扉が開いた。
現れたのは、銀白の髪を持つ、儚げな少女だった。
翡翠色の瞳。
透き通るような白い肌。
小さな身体に、柔らかな緑の衣をまとっている。
(……この子が)
リュシアは、静かに言った。
「君が、森の精霊と話せる子?」
少女は、警戒した様子でリュシアを見つめた。
だが、リュシアは焦らず、ただ真っ直ぐに目を合わせた。
「私は、リュシア。……昔、精霊を見ることができた」
少女の瞳が、かすかに揺れた。
そして、静かに扉を開き、リュシアを招き入れた。
——こうして、リュシアとエルナの出会いは始まった。




