第6話「酒場での出会い」
王都アルカディア。
夕暮れが、石畳の通りを赤く染めていた。
剣の訓練を終えたリュシアは、全身の筋肉痛と疲労に襲われながら、ふらふらと街を彷徨っていた。
(……体が、重い)
慣れない剣の訓練。
何度も転び、何度も剣を落とし、それでも立ち上がり続けた結果だった。
ふと、街角に一軒の酒場が目に入った。
——『銀の月』。
木製の看板に、三日月をあしらった素朴なデザイン。
扉の隙間から、賑やかな笑い声と酒の匂いが漂ってくる。
リュシアは少し躊躇した。
だが、疲れ切った体が、暖かな光に吸い寄せられるように、無意識に足を踏み出していた。
ギィィィ。
扉を押し開けると、酒場の喧騒が一気に耳を打った。
たき火のようなオレンジ色の照明。
木製のテーブルと椅子が無造作に並び、剣士や傭兵たちが酒をあおり、騒いでいる。
その中に、魔導士らしい者の姿はほとんどなかった。
(……ここは、剣士や冒険者の世界か)
リュシアは、静かに隅の空席へと歩き、腰を下ろした。
「いらっしゃい」
人の良さそうな初老の店主が、笑顔で声をかけてくる。
「……ミルクを」
メニューを見て、最も安い飲み物を選んだ。
(酒なんて飲んでいる余裕、ないし……)
間もなく運ばれてきたミルクを、一口すする。
温かさが、冷え切った心と体にじんわりと染みわたった。
リュシアは、カウンターに肘をつきながら、ぼんやりと周囲を眺めた。
賑やかな笑い声。
武勇伝を誇らしげに語る男たち。
喧嘩を始める者、仲間を止める者。
そこには、生きるために剣を振るう者たちの、剥き出しの生命力があった。
(私は……あの中に入れるのかな)
ふと、そんな弱気な考えが頭をよぎる。
魔法を失った自分。
剣も素人同然の自分。
誰も自分を認めない世界。
居場所のない、孤独な世界。
リュシアは、ミルクを飲み干し、カップをテーブルに置いた。
そのとき——
「おい、おい、見ろよ」
酔っ払った声が近づいてきた。
三人組の若い冒険者たちが、ニヤニヤと笑いながらリュシアのテーブルにやってきた。
「こんな所に、子猫ちゃんが迷い込んでるぜ」
「しかも、あのリュシア・フェルディナンド様じゃねぇか?」
リュシアは眉一つ動かさなかった。
「もう、七賢者じゃねぇって噂、ほんとだったんだな」
「魔法、もう使えねぇんだろ?」
舌足らずな笑い声が、耳障りだった。
周囲の客たちも、興味本位でこちらを見始める。
リュシアは立ち上がった。
「……黙れ」
低く、静かな声だった。
だが、酔った冒険者たちはそれを面白がるだけだった。
「おっとぉ? 怒った怒った!」
「剣もまともに振れないくせに、威張るなよ、七賢者様〜!」
耳をつんざく嘲笑。
リュシアは、剣を抜いた。
粗末な練習用の剣。
ふらつく身体を無理やり支えながら、震える手で構えた。
「かかってこいよ、小娘!」
「おうおう、泣きべそかくなよ?」
冒険者たちが剣を抜き、にじり寄ってくる。
場の空気が、ざわりと揺れた。
誰も止めない。
誰も助けない。
ここは、弱者が蹂躙される場所だった。
リュシアは、剣を握り締めた。
(負けない……絶対に、負けない)
たとえ、剣が重くても。
たとえ、今は無様でも。
——私は、ここで終わらない。
剣を構え、踏み込もうとした、その瞬間——
「やめろ」
低く、重たい声が響いた。
酒場全体が、一瞬で静まり返った。
リュシアも、冒険者たちも、思わず声のほうを振り返る。
隅の席に座っていた、一人の男が立ち上がった。
短く刈った黒髪。
厚い胸板。
傷跡の走る太い腕。
目は鋭く、声は重く。
ただ立っているだけで、場の空気を支配していた。
「……ガルドだ」
誰かが小さく呟いた。
「元近衛騎士団長、ガルド・バーンハート……!」
冒険者たちの顔が、一気に青ざめる。
「す、すみません!」
「冗談だったんすよ、冗談!」
慌てて謝りながら、三人は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
リュシアは、呆然とその光景を見つめていた。
男は、ゆっくりとリュシアの方へ歩み寄る。
そして、テーブルに肘をつきながら、低い声で言った。
「ここは、子供が一人で来る場所じゃない」
リュシアは、ぎゅっと拳を握った。
「……子供じゃない」
男は、ふっと苦笑した。
「そうか。じゃあ、名前を聞かせろ」
リュシアは、迷いなく答えた。
「リュシア・フェルディナンド」
男の眉が、わずかに動く。
「噂は本当だったか」
「……何が言いたい」
リュシアが睨みつけると、男は肩をすくめた。
「別に。……ただ、お前みたいな奴が、ここで潰れるのは惜しいと思っただけだ」
そして、手を差し出した。
「ガルド・バーンハート。……助けがいるなら、力を貸してやる」
リュシアは、しばらくその手を見つめた。
誰かに助けを求めるのは、屈辱だった。
それでも、今の自分に、できることは限られている。
(……負けたままで、終わりたくない)
覚悟を決め、リュシアはその手を握った。
「……よろしく」
握手は、硬く、温かかった。
こうして、リュシアとガルド。
二人の旅が始まった。
——それは、世界を救うための、最初の小さな一歩だった。




