第53話「海への出立」
夜明け前――。
ブルーヘイブン港には、白い霧が立ち込めていた。
潮の香りと、かすかな緊張感が混じる空気の中、リュシアたちは港に集まっていた。
「いよいよだな」
ガルドが低くつぶやく。
リュシアは新調された旅装束を整えた。
胸には王国の紋章入りの腕章が光る。
港には一隻の船が待っていた。
「シーファルコン号だ」
キャプテン・マリオンが腕を組み、待っていた。
中型の帆船――だが、その作りは頑丈で、どの船よりも精悍な印象を与える。
「積み荷は完了。乗るなら今だ」
リュシアたちは互いに頷き合い、タラップを登った。
***
船上では、慌ただしく船員たちが動いていた。
ロープを締め、帆を上げ、出航の準備に余念がない。
「出航!」
マリオンの声とともに、シーファルコン号はゆっくりと港を離れた。
リュシアは甲板に立ち、徐々に遠ざかるブルーヘイブンの町を見つめた。
――さようなら。きっとまた、帰ってくる。
水平線へ向かう船は、朝日に照らされて黄金色に輝いていた。
***
航海初日。
リュシアたちは船上での生活に慣れようと努力した。
潮風にさらされる甲板、絶え間ない波のうねり――。
「思ったより、揺れるね……」
エルナが顔を青ざめさせ、船べりに寄りかかる。
「酔い止め薬、持ってるか?」
ガルドが差し出す小瓶を、エルナは感謝して受け取った。
一方、ザックは望遠鏡を手に、海上を熱心に観察していた。
「信じられない……生きた海流、発光する魚、未知の海洋現象……!」
学者魂に火がついたようだ。
リュシアも、初めての海に目を輝かせていた。
「これが、世界の広さ……」
陸では到底見られない壮大な景色に、胸が震えた。
***
船室は狭く、揺れは容赦なかった。
食事は乾パンと塩漬け肉、水は貴重品。
だがリュシアたちは、不平を言わなかった。
「これも旅の一部だな」
ガルドが笑い、エルナも少しずつ元気を取り戻していった。
マリオン船長は、夜の食事時に古い海の伝説を語った。
「海の底には、かつて世界を創った精霊が眠っているとも言われている」
「そして嵐は、その精霊の吐息だと……」
波の音を背に聞きながら、静かに物語を聞く夜だった。
***
航海二日目――。
夕暮れ、海は赤く染まり、空と海が溶け合うようだった。
リュシアは、甲板の端に立っていた。
「こんな景色、陸では見られない」
呟くと、横に立ったエルナが微笑んだ。
「水の精霊たちも喜んでる。きっと、歓迎してるんだわ」
その夜、海面は青白い光を放つ小さな生き物たちで満たされた。
まるで、星空が海に落ちたかのような光景だった。
「綺麗……」
リュシアたちは、しばし言葉を忘れ、見入った。
***
だが――。
翌朝、海は一変していた。
黒い雲が広がり、波はうねりを増していた。
「嵐だ!」
マリオンの叫びに、全員が持ち場へ走った。
帆を下ろし、ロープを締め、荷を固定する。
「船を安定させろ! 波を横から受けるな!」
マリオンが怒号を飛ばす中、リュシアたちも必死で動いた。
エルナは風の精霊を呼び出し、船のバランスを保とうと試みた。
ガルドは濡れた甲板で踏ん張りながら、ロープ作業を手伝った。
ザックは魔法通信で海図を確認し、危険な暗礁を避ける航路を指示した。
リュシアは――。
操舵輪の後ろで、マリオンの指示を伝える伝令役を務めた。
***
嵐は激しさを増し、シーファルコン号は必死に抗った。
波が船体を叩き、風が帆を引きちぎらんばかりに吹き付ける。
それでも――。
誰一人、諦める者はいなかった。
この海を越えた先に、水の祠がある。
リュシアたちは、その使命を胸に、ただ前を向いていた。




