価値と存在
存在とはどのようにして証明されるのか。
現代にいたるまで哲学者はいくつもその証明を考えてきたわけだが、それが完全に否定できないわけではないはずだ。
物は存在の中心とする立場、逆に意識が中心とする立場、あるいは神など。
どれほど存在に対して議論したところで全てが幻惑だと否定されてしまう気がする。
存在の定義のしようがないのだ。
なぜならば存在を疑っているのに、その思考の基準、判断基準がその存在を疑っている世界そのものなのだから。
哲学に詳しい方ならこれに対する回答を知っているのかもしれない。
そして僕があまり詳しいわけでないこともわかるだろう、自論でしかないとも。
ただこういう思考の前に我々がどうして存在について悩み、証明しようとするのか。
科学の成熟した現代では、観測によって存在を定義できる。これはもちろん、この世が存在するという前提である。
しかしながらそれでも人間は存在について悩むのだ。ここに意味があるのか、そう悩むのだ。
そしてこれは人の生の意義を決める話でもある。
意味のない人生とは、存在していなくともいい人生であるからだ。
逆に言えば、存在してなくてもいいと思えば、それは意味のない人生だろうか。
仮にどのような状況ならば自身は存在していていいと思える。逆に自身の存在を認知できる。
鏡を見た時だろうか、数字を見た時だろうか、感情を抱いた時だろうか。
観察者は観察者自身をどう証明するのだ。
仮に誰にも観測されていない観測者は、自身が存在していると言えるのか。
例えば毎日出会う人間は存在していると言い切れるかもしれない、毎日聞いている曲は存在しているのかもしれない。ただある時から聞かなくなり、それすらも忘れたのなら存在していると言えるのか。
大体何が言いたいか、わかるだろう。
数字なき作家は存在していると言えるだろうか。
どれほど自身の好きな文を描こうと誰にも見てもらえないのならば、その作品は存在していないのと同じだろう。
記憶に残らない、忘れてしまったのなら、それは存在していなかったのと同じだろう。
そして自身が存在していないと認めるものが、何を見たところでそれは存在していないとなってしまうだろう。
でももしも、誰かが存在しているとわかるのなら、何かの存在を信じることができるのならば、自身の存在も信じられるはずだ。
その原初はどこにある。絶対にこれは存在していると言えるものはなんなのだ。
もしもそんなものがあって、観測することができるのなら、僕は存在できるはずだろう。
理屈ではなく、感情が存在を示してほしいのだ。
理屈だけならば戸籍と身分証だけになってしまう。それでも満足できないから悩むのだ。
そしてこんな文を読む君もそうだろう、何かの存在を求め、自分を確認したいのだ。
それはある種の鏡ともいえる。
存在したいと願う何かがあるというのに、証明する手段はどこにもない。
だからその答えを古き人々は神と置いた。そうするしかなかった。