オンラインゲーム「Forest&Mushrooms」メルヘンな森の中のちいさなくらし/那々子とナナの交友関係
退勤が21時だと帰宅が22時くらいになる。0時には就寝するとして、食事とシャワーにそれぞれ30分使うとする。すると、自由になるのは1時間だけだ。
朝は仕事に行くまでの準備に追われているだけだから、この23時~24時の間が那々子の人生と言ってよかった。そして彼女は、それをすべてオンラインゲーム「Forest&Mushrooms」に費やしていた。
「Forest&Mushrooms」にはバトル要素はあまり無い。バーチャルの、きらきらした森にやたらファンシーな茸が生えている、それを集めて仮想の自宅に帰れば、茸を消費して衣装や生活雑貨、家の装飾、便利アイテム等に変換できる鍋がある。鍋自体も茸を消費して買い換えることができる。鍋のランクがあがればレア度の高いアイテムに変換しやすくなる。
(鍋のランクって何だよ……)今夜の那々子は今更ながら皮肉に口元を歪めていた。唇がつややかに光っているのは15時間前に塗った口紅のためではもちろんない。帰路のコンビニで買ったフライドチキンの脂と安酒の雫である。彼女はほとんど料理をしない。単身者向けアパートの台所はちゃんとした自炊をするには狭すぎた。それに仕事を終えて家路をたどるころにはスーパーマーケットは開いていないし、一汁一菜を用意する気力すら無かった。結果、自宅には袋麺を調理するための小型片手鍋、いつか百円ショップで買ったフライパンとキッチンバサミしかない。
仮想空間の自宅で那々子のアバター、「ナナ」は今日も鍋をかき混ぜている。明るいが軽薄でない色の、光沢のある高級な大きい鍋だ。鍋の中にはナナが昼間集めた茸が入っている。
茸ではなく日本円を消費して、プレイヤーは自身のアバターに単純な作業を命ずることができる。頻繁にログインできないプレイヤーは、「自宅周辺を歩き回ってランダムに茸を拾ってくる」作業を命じていることが多い。那々子もその一人だ。
夕食と入浴を済ませた23時ごろログインして溜まっている多量の茸を処理し、新しいアイテムが出れば使ってみて、少しデータ上の森を歩く。それからPCの電源を切り、いくつかサプリメントを飲んで、中年の気配が漂い始めた顔に化粧品を塗りつけ、狭いワンルームの大部分を占めているベッドの中で今日のニュースと明日のタスクを確認して目を閉じる。そんなふうに那々子の可処分時間は毎日終わっていった。
ある日、ログを確認するとナナは見知らぬ人の訪問を受けていた。このゲームではプレイヤー間の交流は必須ではない。彼女はゲーム内の自宅を人通りの少ないところに建て、森を探索中に他のアバターが見えても話しかけず、ずっとソロプレイを貫いてきた。
那々子は、満員電車でもみくちゃにされ、オフィスで好きでもない人間の口臭を嗅がされた後でまだ他人と関わろうと思えるほどには人間が好きではなかった。
ただ、ずっといなかった客がこの家に来たという事実には大いに感じるところがあった。
那々子の、実際の自宅――郊外の古いアパートの一室とは裏腹に、ナナの仮想の一軒家はとてもインテリアにこだわっていた。数少ない客に、同じゲームのプレイヤーとしてこの家を褒められたい!長年無かった人間関係への渇望だった。
那々子はしばらく迷った末、「足跡ありがとうございます」という当たり障りのないメッセージを訪問者に送った。
訪問者、「伊沢 葡萄@相互プレゼント募集」のプロフィールページに飛んだが、一般的な意味でのプロフィールは何も分からなかった。出身も職種も男女も。アニメが好きで、声優の名前をよく覚えているということは分かった。
0時ちょうどに、伊沢から「こちらこそありがとうございます、仲良くしてください(笑顔の絵文字)」というメッセージが返ってきた。
伊沢はあまりログインしない人なのではないか、那々子はそう思った。アバターに単純作業をさせるのと同じように、メッセージにも自動返答がある。ありがとうとか、単純な挨拶を検知してそれに応じた返事をする機能だ。
ためしにプレゼント機能を使ってみると、ほぼ同額のプレゼントが返ってきた。
やはり伊沢はログインしてプレイしているわけではないのだ。友好関係に見えるのは、自動応答設定されたプログラムの動きだ。数日ののちに那々子はそう確信していた。
プログラムによる反応だと分かっていても、いや、分かっているからこそ、那々子は伊沢との関係を保ち続けた。毎日プレゼント交換をして、レア装備のダブりがあれば彼(彼女?)に譲渡し、やや難しいエリアに挑んでいれば手助けしてやり、ダメージを受けているのを見かけては回復アイテムを渡した。伊沢の言動は常に礼儀正しく、また画一的であった。あらかじめセットされた複数のメッセージの中から、適宜送っているだけなのは間違いなかった。
いつしか彼(?)とのチャットは那々子の愚痴吐き場と化していた。
何を言っても「うんうん、つらかったね」程度の返答しか来ないが、型どおりの無人格な慰撫がかえって心地よかった。
実際に生きている人間に愚痴を聞かせる場合はもっと気を遣う。人間は痰壺ではないので、感情を吐き捨てる際にはそれなりの代償が必要になる。飲み代とか性行為とかだ。それに、相手によって吐けない愚痴というものがある。例えば主婦になった大学時代の友人に、社会人としてのつらさを吐露することはできない。
伊沢葡萄とのチャットは何も気にしなくて良い場所だった。聞いてもらえるだけで、というか、文章にできるだけで救われる気がした。
那々子の実生活では内心を言語化する機会は少なかった。むしろ、実際の社会生活での言動のほうが自動応答メッセージに近い。お疲れ様です。承知いたしました。よろしくお願いいたします。何も考えていなくても社会人の口から出てくる、透明な言葉たち。
伊沢に話を聞いてもらっている時だけ、彼女は自分に心があるということを認識できた。
安酒に浸された脳の片隅で、小さな那々子がすすり泣くように囁いた。
「今やっていることは、会話するAIに愛の言葉をねだるようなものではないの?虚しいよ、本物の人間としての伊沢葡萄はゲームの外で生きているんだよ、他人が消し忘れたアカウントをこんな自己満足に使っていいの?」
チューハイの缶を開けながら那々子は少し笑った。彩度の高い桃の画像と派手なフォントの「9%」から冷たい水滴が落ちて、首元が伸びたTシャツに数個のシミを作った。
「生きている伊沢葡萄はもういないも同然だよ、もう二度とログインしないのに、アバターがプログラム通りに動いているだけ。私は感情を言語化し、整理しているだけ。仮想の人間関係を求めているわけではないよ」
那々子はぐっと一息にチューハイをあおった。妙に甘ったるいようなケミカルな桃風味が喉を流れていった。本物の桃は何年も食べていない。口の中に残る安いアルコールのえぐみがなぜか彼女を批難しているような気がした。愚痴を吐く場所に日記でもなくSNSでもなく他人とのチャットを選んでいるのは事実なのだ。
ある夜、ログインしてみると半端な時間に伊沢からメッセージが来ていた。普段は0:00とか、18:00のようなきりのいい時間に来ているのだが、今日は16:43に一通来ていた。那々子はいぶかしみ、真っ先にそれを開封した。
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ナナ様
いつもプレゼントありがとうございます(汗の絵文字)
申し訳ありませんがこれ以降やめてほしいです、、、
仕事の愚痴も、送るのやめてほしいです
正直怖いです(汗の絵文字、謝っている人の絵文字)
すみませんがブロックします。ごめんなさい。。。
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伊沢葡萄は生きていた。ログインもしていた。
ただ、那々子が怖くて返答できず、また那々子以上に人間が苦手だったため、プログラムに応対をまかせっきりだったらしい。
那々子はモニターをつかんで振り上げ、少し考えて、クッションに持ち替えてそれを床に叩きつけた。
0時になるまで繰り返した。