マックス
夏が過ぎ秋が近づく、九月半ば、雅は景子、夏生とともにある場所に居た。その場所は、新宿歌舞伎町のある建物の地底部にあった。そしてその建物とは、すなわち、新宿、風林会館。
昭和四二年建設された風林会館は新宿歌舞伎町のメルクマールだ。靖国通りを曲がり区役所通りに入ると真直ぐを職安通りに向かう道の途中に立ち並ぶ雑多な風俗ビル群にあってひときわ目立つ風林会館。その周りは、夜ともなると日本人、中国人、韓国人、白人、黒人と、まるで人種の坩堝の場と化す。その建物には、ホストクラブ、キャバクラ、ゴルフクラブと様々な業種のテナントが入り、言ってみれば風俗の城塞のようだ。
戦後から昭和四十年代の日本は格闘技第一次ブームともいうことが出来る。力道山の空手チョップで歓声を上げ、力道山と木村政彦が対決したのは昭和二九年である。この両者の対決は巷間で言われるように、アクシデントで終わったが、これ以来、四十年代にかけて、複数のプロレス団体が、テレビのゴールデンタイムに登場し、いわゆる異種格闘技戦が行われた。またボクシングの世界戦やキックボクシング、すなわちムエタイがテレビに登場した。また漫画に空手が登場したのもこの頃だ。そんな時代を反映するたように、今で言うなら、あるプロジェクトが動いた。
すなわち、地上最強はいったい誰かを決める。表の興行でこれをやることは、いろいろな思惑や支障が出て、不可能であった。今でこそ総合格闘技が当たり前になったが、実はそれさえも、真の強者は誰かと言うと曖昧になる。だが、風林会館が建設することが決まった時、篤志家が資金を出して、その地下に建立された格闘技場があった。そしてその格闘技場の勝者こそ、真に強いと言えるのではないかと、囁かれている。と雅はマックスから聞かされた。そして時代は女の地上最強は誰かと言う話になっているという。まったく格闘家は人生の意味が単純で良いと思う。それは強いということに尽きる。
厳重な招待状確認と本人確認のチェックの果てに、秘密の通路にあったエレベーターを降りた先には、約千人くらいの群衆が蠢く格闘技場があった。すなわち、True Storongest Place、略してTSP。
三人はマックスから招待状をもらった。どうやらマサが興味を持っているのだ。だが夜に行われるこの試合をマサは見られない。だから雅は来たのだが、マサが何故興味を持ったのか分からない。夏生は武道家だから、当然としても、どうやら景子も興味津々だ。研究者と言うのは、どんな現象にも関心を向けるものらしい。
観客席と試合場を分けるのは、一メートルほどの高さの赤いフェンスだ。それがぐるりと円形に闘技場を囲んでいる。そして闘技場は赤土、学校のグラウンドのように見えた。その周囲の長さは直径が五〇メートルというところとかなり広い。
群衆は興奮していた。が、これは表の格闘技やコンサートと変わらない。人間は群れると興奮する生き物だ。だが、この場に、レフェリーは居ない。そうここは、勝負を決する審判が居ないのだ。つまり勝負を決めるのは、対戦者のみ。おのれの負けをおのれ自身が決する闘いということだ。これも表ではありえない。
そして場内が暗くなった。とたんにオオオオ! と群衆が唸りを上げる。そして、試合場のみ明かりが当たる。そして、闘技場の真ん中、楕円系の穴が徐々に見え始めた。試合場の、その場所が下に沈み込んでいくのだ。そして、いったん群衆が黙った時、再び穴は上昇し始めた。その場所に、二人の人間を乗せて。
群衆は再び、歓声を上げる。すると、野太い男の声が場内に響いた。
「ladys and gentlmen today・match、マックス佐奈versusオリバージョンソン」
レフリー無しのガチンコ勝負が始まる。いや、もう始まっているのかもしれない。
台の上に乗って、上がってくる二人は、もう互いに相対して睨みつけ、戦闘の構えを取っている。マックスはレスリングスタイルだ。マックスは基本、いわゆる総合格闘技だから、掴まれる道着は着ない。オリバーは空手着を着ている。
雅はオリバーを見て、まるで機械のようだと思った。そこに見えるのは、血が通っていない冷たい金属のような肉体。マシーン、それも人を破壊するための機械。一方マックスはしなやかな筋肉を張りつめ、熱気にあふれている。身体からは沸騰した蒸気のような熱い風が吹いてくるようだ。唇に笑いをたたえ、眼は獲物を探す獣のように光っていた。
すると、太い声がした「両者前へ」
両者はゆっくりと歩き、闘技場の真ん中に立った。凄い眼で睨みつけるマックス、オリバーは無機質な目でマックスを見ている。まさに対照的な両者の姿だった
「PERMIT ALL OTHER THAN A WEAPON」(武器以外全て許す)と太い声が響いた
「しゃっ!」とマックスが右回し蹴りを放った。と、ほぼ同時もオリバーも右回し蹴りを放った。両者は胴に蹴りをくらい、大きく一歩後ろに退いた。マックスはオリバーの空手の器量を試しているのかもしれない。
ゆっくりと時計周りにまわる両者、すると「しゃ!」気合いを発しマックスが右パンチを繰り出した。負けずにオリバーも一歩踏み出して右拳を飛ばした。ガツンと鈍い音がして、両者の顔が歪む。両者が互いの拳で相手の顔面を打ち抜いたのだ。相討ちだ。
マックスは一歩引いて、ぺっと血のにじんだ唾を吐いた。
マックスは右手を高く挙げ、左手を腰のあたりに構えた。天地上下の構えだ。あくまでマックスは打撃で行くらしい。オリバーは手をおろし真っ直ぐ立った。そのままゆっくりと一歩踏み出した。マックスが一歩退いた。
「マックス、何で退くの?」と景子が云うと、
「オリバーに隙がないからよ」と夏生が唇を噛みしめた。
「隙が無い?」
「ええ、あれ自然体よ、見事な」
オリバーは冷たい顔のまま、前へでる。
マックスが退く。マックスが何か追い詰められているようだ。
少しずつマックスの身体が退いて、フェンスの壁に突き当たった。マックスは瞬時にフェンスに乗り、ジャンプした。そして膝蹴りをオリバーの胴体めがけ叩き込んだ、と思われた瞬間、オリバーも空を飛んだ。そして「ちいいいいいい」と叫んで二段蹴りを放った。
蹴りがマックスの胴体にめり込み、その身体がフェンスの向こうに転がり落ちた。オリバーもフェンスを乗り超えて、仰向けになったマックスの顔を踏み抜きにきた。顔面に届いたと思われた瞬間、マックスは間一髪それを避けた。そしてオリバーの右足を左手で抱え込んだ。バランスを失って仰向けになるオリバーのアキレス腱をマックスは抱え込み締め上げた。「ぐううう!」と唸るオリバー、マックスが渾身の力で締め上げる。だが一瞬、マックスの身体が固まった。オリバーが砂の塊をマックスの顔にぶつけたからだ。思わず手を引いたマックスにオリバーの右拳が襲った。だがマックスも砂を握ってオリバーにぶつけた。オリバーの動きが止まった。マックスはフェンスを乗り越えた。続いて、オリバーがフェンスを乗り越えてくる。
「おうりゃあああああ!」と右拳を握ってマックスが突進する。オリバーがアップライトで迎え撃つ。マックスは右拳を振りかぶった。瞬時にオリバーがカウンターを放つ、両者が交差した瞬間、マックスがオリバーの右手首を握り逆手に取った。そのまま両腕でオリバーの右腕を抱き込み、体重をオリバーの身体に預ける。オリバーは腹這いになり右腕が真っ直ぐ逆手になってマックスに抱え込まれている。脇固めが極まったのだ。
マックスの顔は折ってやると言わんばかりの形相だ。だが信じられないことにオリバーは極められた右腕を無理やり曲げ、左腕一本で腹這いなった身体を持ち上げようとしている。
「おおおおおおおおお!」オリバーは叫ぶと、一気に身体に力を籠めマックスを吹っ飛ばした。
雅は何と云う化け物だと思った。脇固めは極まっていたのだ。あんな風に相手の身体を吹っ飛ばすとは、ありえない。
マックスは地を転がり、ようやく立った。だがその顔は信じられないと云う顏だ。だが、オリバーも立ったが、すぐには攻撃しては来なかった。右腕をぶらんとしている。
これは! と雅は思った。オリバーは右腕を痛めたのか、ならばチャンスだ。しかしマックスはかかって行かない。フェイクかと思っているのか。雅はオリバーの顔を凝視したが、何の感情も見いだせない。
マックスは、身を低くして、タックルを狙う体制を取った。打撃勝負を避けるのかと雅は思った。正解かなと思った。あれだけのパワーを見せつけられると、力勝負ではなく、あくまでも柔の勝負で行く方が良い。できれば右腕をもう一度攻撃できればと雅は思った。
すると、雅の頭の中でマサの声がした。
「いいや、あくまで打撃で行くべきだ、最後に関節を使うべきだ」
え、と雅は思った。あのパワーを打撃で、というのは違うのではないか。だが、マサの声は言った。
「オリバーは空手じゃない」
本当に! 雅は戸惑った。
すると景子が言った。
「あのオリバーって、本当に女?」
夏生が答える。
「あたしと同じかも、実は男だったりして」
「そうよね」
「何にしても、パワー勝負にはいかない方が良い」
夏生の言うことが正しいと思うが、マサは違うらしい。
オリバーは相変わらず右手をだらりと下げて左腕を拳にして頬の近くに当てている。
砂を蹴って、マックスがタックルをかけた。それも左足を狙って飛んだ。右腕を負傷していると読んだ攻撃だ。「しゃ!」と気合を入れると右足にとりついた。と思われた瞬間、オリバーの右拳がうなりをあげて、マックスの顎に叩き付けられた。アッパーカットだ。やはりフェイクだったか、しかしマックスは両手でオリバーの右手首を掴んでいた。狙いはこれだったか。やはりパンチの威力は衰えていたのか、オリバーのアッパーカットはマックスを打ち抜くことができなかった。マックスは瞬時に両足を跳ね上げた。両足を右腕に絡ませ仰向けに倒そうとする。腕ひしぎ十字固めた。だがオリバーは両足を踏ん張り、倒れようとしない。やはりすごい身体のパワーだ。オリバーの左腕がマックスの胴を叩いた。思わずマックスは手を離したが、踏ん張ったオリバーの右足をすばやく左手で取った。バランスを失ってよろけるオリバー、一気にマックスは起き上がって、オリバーの身体をひっくり返し馬乗りになった。
マウントを取った。と雅は思った。だが、マウントを取ったマックスが右拳を降りおろそうとした瞬間、マックスの顔面に真っ直ぐオリバーの人差指と薬指が飛んだ。マックスは思わずのけぞって後方回転して逃げた。どうやら右目のあたりから血が出ている。眼光への攻撃がマックスに襲ったのだ。目が潰されたかと雅は思ったが、どうやらそれはまぬかれたようだが、右目じりをマックスは抑えている。オリバーが突進する。マックスは血が目に入っているようで動きが鈍い。瞬時にオリバーは、右足を跳ね上げた。中段の回し蹴りだ。マックスの胴体に蹴りが叩きつけられた。マックスは大きく、跳ね飛ばされた。
「正解よ」と夏生が呟く。
「え、何で」と景子が聞いた。
「マックスは自分で飛んだ」
確かに、マックスは飛びすぎたような気がする。つまり、マックスは自ら飛ぶことによって、打撃の衝撃を緩和した。その証拠に、オリバーも追撃はしない。じっとマックスの様子を見ている。つまり、大きく飛んでマックスに向かったら、瞬時に反撃が来ると判断したのかもしれない
すごい闘いだと雅は思った。
オリバーはアップライトに構え直した。マックスは天地上下の構えだ。オリバーの右拳がうなりを上げてマックスの顔に飛んでゆく。次の瞬間、マックスが前のめりなった。どこかに打撃が当たったのか、だがマックスの身体は宙で前方回転し、ぐるりと回転した右足がオリバーの肩にぶち当たった。胴回し回転蹴りだ、奇襲に近い技だが。オリバーの右肩にヒットし、オリバーの身体が揺れた。倒れたマックスはすばやく起き上がり、オリバーの腰に抱き付いた。オリバーの右足に左足を外掛けで倒そうとする。だがオリバーは踏ん張り、倒れまいとする。そして右肘をマックスの背中に落とした。だが、一撃ではマックスは腰を離さなかった。しかし二撃目がマックスの背中に落とされた瞬間、マックスは外掛けを外し、前方につんのめった。
するとオリバーはマックスの背中越しに両手を胴に回すと、一気にマックスの身体を抱え上げた。マックスの身体は仰向けになってオリバーの肩に乗った。凄いパワーだ。その格好のままオリバーはマックスの身体を砂場に落とした。プロレスで言う、パワーボムだ。オリバーは初めて、投げ技を見せた。その技は確かに練達の技のように見えた。オリバーは空手着を着て、自分をストライカーに見せかけた? その時、雅の頭の中で声がした。「そうだ、オリバーはプロレスラーだ。だからパワーボムを使った」マサの声か、オリバーは実はプロレスラー。多分、マックスはこれに気が付かなかった。それほど、オリバーの空手は様になっていた。
パワーボムは固い床ならこれで終わりだろう。だが砂場が幸いした。マックスは落ちた瞬間、オリバーの左手首を掴んで、思い切りその左手を伸ばした。そしてオリバーの左肩越しに右足をその首に回した。左足も首に回し右足と絡ませる。マックスは三角締めを極めたのだ。とっさの判断はさすがだ、マックス。
必死の形相で締め上げるマックス、「ううううううう!」と唸って耐えるオリバー、まさに鬼の形相だ。が、その時、オリバーはすごいことをやってのけた。
「かあああ!」と大きく口を開き、交差するマックスの右足に向かって噛みついたのだ。マックスの太ももから血が流れている。オリバーは多分義歯だ。それも鋼鉄製の。これは、たまらない。
その時、雅の頭で声がした。
―あいつ、俺の三角で学習しやがった―
マサの声だ。雅は何となく事態が分かったような気がする。多分マサはオリバーと闘ったことがあるというところか。それで、オリバーは学習した。
この攻撃にはマックスも、たまらず、オリバーの体を離し、右足を抱え込んで苦悶した。
オリバーがマックスにゆっくり近づいた。オリバーの唇が歪んだ。多分笑っているのだろう。そして、マックスの顔面に右回し蹴りが叩きこまれる。
その時、雅は見た。マックスの眼が恐怖に慄いていることに。雅は、それが怯えと分かった。マックスはオリバーに恐怖したのだ。次の瞬間、マックスは地に伏していた。
その体はピクリともしない。オリバーの完全勝利だ。
景子がため息を吐いた。
「負けちゃったね」
夏生が頷く。
「ええ、完敗ね。にしても、この闘技場は半端じゃない。マックスが心配ね」
「そうね、怪我だらけだろうから」
「怪我より心のダメージが大きいかも」
夏生の言葉に景子は不思議そうに聞いた。
「何故、そう思うの?」
「なんとなく」
景子は、まだ納得はしていない顔で言った。
「武道家の心理は、私には謎ね」
「心理学の先生のくせに」と夏生が返すと、
「まだ、駆け出しよ。人間の心理は、とても深いものよ」と答えた景子に、夏生は黙って、微笑んだ。
この景子の言葉は何かやたらに現実感のある言葉に聞こえた。
その時、雅の座る席の真正面の席に、一人の人間が立った。人々の喧騒をよそに、そいつは音もなく立った。そしてそいつはまっすぐ雅を見た。
ダークスーツにシルクのシャツ、リョウ! なんでお前が居る!
だがリョウは微笑みを湛え、すっと人込みに紛れて消えた。