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ドリームステージ

 夜の帳が下り、闇が空間を支配する刻、雅は出現する。雅がマサに変わるとき、劇的な変化があるが、雅に変わるときはいとも簡単に変わる。

 街を歩いていて、すうと変化する時がある。すれ違った人間の瞬きの間に変化し、人を戸惑わせることもしばしばあるのだ。まるで闇夜に月があらわれるように、雅は出現する。

 

今、雅は、新宿の中央公園にある高台の真ん中に据えられた椅子に座っている。

 

 東京都新宿駅、一日の平均乗降人数が三百三十五万人、これはギネス認定された世界一の数字だ。一日で大都市の人口に匹敵する人間がこの巨大駅に蠢く。

 その新宿駅の西口を出ると、天に向かって聳え立つ巨大ビル群がずらり見えてくる。そのビル群の下に伸びる中央通りを都庁の二つの塔に向かって歩くと、やがて大きな公園に行き当たる。新宿中央公園だ。


 その公園と都庁を繋ぐ橋がある。虹の橋という、誰が名付けたかは分からないが、なかなか洒落たネーミングの橋を公園に向かって渡ると、やがて丘が見えてくる。これを富士見台という。その昔は、富士が見えたのだろうが、今は富士ならぬ都庁の威容が迫っている。


 雅はその富士見台の中心部にある六角堂という建物に座っているのだ。そうして雅は月光が澄み渡る、夜の帳の中で、じっと月を見ていたが、やがてすっくと立った。

 

 雅はそうして、富士見台を降りて虹の橋を渡り、中央通りを真っ直ぐ新宿西口に向かい、駅に入ると、地下通路に降りて東口へと歩く。新宿駅の東口には巨大歓楽街、歌舞伎町が広がり、日本人ばかりではなく、韓国人、中国人、中南米の人々が、そこで生を営んでいる。歌舞伎町の通りにはキャバクラやホストクラブが並びたち、道では韓国語、中国語、日本語が飛び交う。


 雅はその歌舞伎町に向かって歩いて行く。そして区役所通りを真っ直ぐ職安通りを目指し歩いて行く。その先にはある神社があった。一説に平将門の幼名から付けたとされる、日本で唯一、鬼の名を持つ鬼王神社だ。祀られる神もまた鬼王権現という。しかしこの神は熊野の十二神にも、その名が無く由緒があいまいな、不可思議な神なのだ。ビルの谷間に、それも猥雑を極める歌舞伎町に建つ小さな祠は、何やら、神社の周りが、まるで異世界の周縁空間を感じさせる。さらに鳥居の左手には一体の鬼が捧げ持つ手水鉢と、鬼の空間に張り付いた、何か奇妙に静かな、そして歪んだ異世界。

 

 雅はその神社の脇に立つ、第二Yビルに入って行った。エレベーターホールに立ち、エレベータを待つ。しばらくすると空のエレベーターが降りてきた。中に入ると雅は地下二階のボタンを押した。ブーンと機械音がして、エレベータは地下に下がってゆく。

 そしてエレベータが開き、灰色の壁と、黒の床が突き当たった奥に茶色のドアがあった。周りには店は無い。つまり、この地下には、その店だけが存在していた。そのドアには銀色でドリームステージのプレートが架っている。

そのドアを雅は開けた。


「おはようございます」と夜だが雅はそう声を挙げた。

「おはよう」と返事したのは軽くウエーブのかかった長髪でグリーンのシャツとを黒のパンツをはいた女性と言いたいが、実はこの人は女ではない。肩まで届く髪と白い肌で胸のふくらみも有る。だが性別上、男である。いわゆるトランスジェンダーだ。これが橘夏生だ。夏生はこのドリームステージのママである。雅はこの店で働いていたのだ。

 

  すると雅の前を男が通り過ぎた。

「おはよう、シン」

「おはようございます」とシンはボソッと答えた。ドリームステージで働いているのは夏生と雅と、この厨房のシンだ。このシンという男性、これが美少年というほどの美しい男性だったのだ。年齢は二〇歳を超えているらしいが、何処から見ても美少年に見える。夏だと言うのにその肌は抜けるように白く、やや長髪の豊かな髪は黒く輝き、美しい。その目は碧眼に輝いている。まったくシンは性を超えていると雅は思う。ただし、あまり愛嬌が無く寡黙だった。シンは半年ほど前にここに来た。雅の方が一年前だから雅が先輩とは言えるだろう。シンはそれまで厨房に居た男性と入れ替わるように入った。実は前に居た男性は田舎の父が亡くなり、急に店をやめる時だったのだ。それが図ったようにすぐシンがやって来た。

 

 ドリームステージはこの三人で回しているごく小さな酒場なのだ。白のカウンターのみの十五人くらい入れば満杯になる。店の壁はモスグリーンで、名も無き画家の風景画が数点架かっている。カウンター席のみだから風営法には引っかからない。だから午前四時まで営業している。これが雅には助かっているのだ。


「おはよう雅」とカウンターの隅で声が掛かった。

「先生、来ていたんですか」と答えた雅に笑顔で頷いて、ぐいと水割りを飲んだのは、高原景子だった。

「この、のんべえ、もう二時間も飲んでいるのよ。なのにこのケロッとした顔は」と夏生があきれたように言う。

 

 高原景子の悪癖は、おそろしく酒に強いことだ。一夜でボトル一本はイケる。限界まで飲んだことは無いと常々豪語しているのだ。

 

 また夏生と景子は同じく京都で高校の同級生だ。もちろん高校時は異性だった。景子によれば、夏生は紺袴も凛々しい剣道男子だったらしい。それが何故に、ニューハーフにというと、どうやら剣道特待生として入った大学で、その道に目覚めたらしい。

 夏生いわく、

「私、男だらけの世界で、知っちゃったのよ、私は男ではないということを」と言うわけらしい。

 そして、夏生と景子は東京で会った。夏生はトランスジェンダーとして景子の前に立った。景子は複雑な思いで夏生を見たらしい。どうやら景子は高校時、夏生に淡い恋心を抱いていたようだ。だが、夏生は、見るも輝かしい美女になっていた。

雅が東京に行きたいと相談した時、景子が夏生を紹介してくれたのだ。雅にとって、これは都合が良かった。もちろん時間帯だ。夜に現われて、朝陽とともに消える存在を受け止めてくれる所など夜の世界以外には無い。

 

 夏生は言った。

「私は高原景子を信じている。だから、あんたも信用する」

 これはなかなか言えないことだ。夏生の器量が大きいことを示している。それと二人の信頼関係も。


「ところで何さ、話したいことって、そろそろ話して」と夏生が聞いた。

「うん、実は今、私こういう者なの」と景子がすっと出した手帳に桜田紋の徽章が燦然と輝いていた。

「げ!」と夏生が驚くと、

「悪い、悪い、これ偽物、ネットで買ったのよね。まったく何でもアリねネットは」と景子が謝った。夏生がため息を吐いた。

「あんた、趣味悪いよ」

「ごめん、ただ警察の仕事をしているのも事実」

 これには雅も驚いた。

「へー」

「科学警察研究所で、心理学の班なの。まあ警察に大学が頼まれたのよ」

「ふーん、大学の先生がそんなこともやるの?」

「まあ、教授に押し付けられたのよ。私嫌われているからね」

 夏生は苦笑いをした。

「まあ、御前がバックにいるから、あんた嫉まれているのよ」

 夏生も当然美那月優馬は知っている。雅が優馬の孫であり、景子のバックに優馬がいるのも承知だ、まあだから、自分を信用している面があるのだろうと雅は思う。


「それで聞きたい事って」

 夏生の問いに景子は頷いた。

「ここ最近、少年グループが新宿で、女性を襲っている事件が頻発しているって知っている?」

「うん、なんとなくね。そんな噂は聞いたことがあるけど、警察が動いているの?」

「この夏の被害届が、三十件以上、実際は、その倍はあるはず」

「何、それじゃ、ほぼ毎日じゃない。目撃者は居るの?」

「多分十代のガキの集団と、ダークスーツの少年が目撃されている」

 すると、黙って聞いていた雅が口を開いた。

「それに、ついては話があります」

 夏生の眉がハの字にひそめられた。

「あんた。まさか」

「はい」と雅は言うと、くだんの少年たちと謎の美少年の話をした。すると、

「あんた馬鹿!」と夏生が瞳をぎらつかせ、雅を見据える。その迫力は女ではない。

「そんなことが、あったのなら、何故、すぐに言わないの。あんたは私が景子から預かった。預かったからは、私には景子に対して責任があるの。東京であんたに何かあったら、景子の信頼を裏切ることになる。この際、あんたが美那月の何かは関係ない。いい! あんたは当分、早出で良い。人が居る間に街を出なさい」

 

 まあ、これは当然の怒りだろう、雅に夏生の気持ちが痛いほど感ぜられた。すると景子が言った。

「まあ、夏生も落ち着いて、雅も気を付けて」

 雅はしおらしく、

「はい」と言った。

「ところで、その美少年は、あなたたちのことを知っている、つまりあなたの存在のことを」

 雅はきっぱりと言った。

「はい」

 うーんと景子は唸った。

「それは、いったいどういうことかしら」

「分かりません」

 私とマサを知る者が居る。それは何を指す?


 すると鋭い声が発せられた。

「そいつに近づくな」

 三人が、一斉に振り向くと、再び、その声の主、シンが言った。

「景子さん、ママ、雅、そいつには近づくな」

 冷たい炎が、その瞳に光っていた。夏生はじっとそれを見ている。二人の間に、目に見えない光がぶつかりあったような緊張が走る。それはまるで異形の者同士の対峙のようにも見えた。とは言っても、雅自身が異形なのだが。

「シン、あんたは何を知っているの」

 シンは夏生の問いには答えず。景子を流し目で視た。

「景子さん、キリストは何故、ユダに、お前のなすことをせよと言ったのでしょう」

 え、と景子は戸惑った顔になった。シンは何を言っているのだろうと雅は思う。キリスト、ユダ。

「それは…ユダが自分を裏切ることを知っていたから」

 シンはふっと赤い唇を震わせた。

「それは、多分違うな」

「どこが」

「キリストは、ユダに賭けたんですよ。人類の運命を」

「人類の運命って何?」

「つまり人類の運命はキリストの運命。キリストはどっちでもよかったんですよ。いずれ自分は死ぬ。キリストも人ですから。ただし」

「ただし」

「ユダが裏切ったのは、最悪の想定内」

「ということは、ユダの行動は間違っていたと」

「さあ、あとは考えてください」

「どういうこと?」

「それが、この世界の負ったもの」

 不思議な問答だ。これは何を意味する。

 

 その時、夏生が動いた。店の隅にあった。棒状のようなものを掴むと、同時に光がきらりと一閃。と、だがシンの体が少しずれた。

「ママ、また冗談を」

 ぱちんと音がして、その抜き身は鞘に収まった。

「あんた、何も言う気は無いのね」と夏生が言うと、

「はい」と静かにシンは答えた。

「そう、じゃ、営業を始めようか、客も来ているようだし」

 すると、くすくす笑う声がした。


「なーんか、すごいもの見たな」とややハスキーな、そして、男ではない声がした。

「開いているかい」

 

 雅が振り向くと、背は百八十五、体重は七十五K、その足はしなやかに長く、黒短パンにスパッツ越しにも贅肉が全くないことが分かる。上半身はやや逆三角だが、筋肉の付き方が理想的なのだろう。男のようにごつい岩のような筋肉とは正反対。多分、言い古された言い方をすれば、鞭のような肉体が入り口に立っていた。

 

髪をポニーテールにして、輝く瞳を持った、その褐色の顔は、一目でハーフと分かる整った顔立ちで、にこやかに笑っていた。

「マックス」と夏生は声を掛けた。

「開いているかい」とマックス・佐奈は再び言った。

「もちろん、ところで今日は表の方?」と夏生が聞くと、

「ええ、代々木体育館で」とマックスが答える。

「スコアは」

「3対1」

「おや、ワンセット取られたの?」

「ええ、寝坊して、最初のセットに出られなくてね」

「バレーボールは団体競技なのに、やっぱあんたは個人競技向けね。監督怒ったでしょう」

 マックスは頭を掻いて、「まあね」と肩をすくめた。

「まあ、座って、水割りね」

 マックスは座って、景子の方を向いた

「先生、こんばんは」

 

 景子は、曖昧にええと頷いた。雅はこのマックスという女性は表向きバレーボール選手だと聞いている。百八十五センチも、日本人としては高いが、バレーボールの世界では女性でも百九十センチ以上がごろごろいる。だが、マックスはそれだけではないのだが。

「なんか、立て込んでいる感じだけど、良いの」

「良いわよ」と夏生は歌舞伎町のクラブのママになっていた。

「まあ、あたしは、他人のことには興味ないけど、特に今はムカついているから」

 このマックスの言葉に雅は、少し驚いた。ムカついた、マックスが、この、完全にマイペースで自己中心の女性が、感情を露わにしている。

「珍しいわね、マックスが怒るなんて」と上手に夏生があやす。

 マックスは、それをきっかけに話し始めた。これはかなり溜まっていたなと雅は思った。

「どうもこうも無い。エレンの奴、また逃げたんだ。これで三回目だ。こっちに金が無いのを逆手に取って、むかつくったら無い。だいたい、あいつ、本当に強いのかどうか分からなくなってきた。あたしが怖いのか。それほど弱いのなら、もう良いけど」

 夏生がオウム返しに言う。

「良いけど」

「正直、全米女子格闘技の頂点のエレン・カータに勝ちたい」


 悔しそうに唇を噛んだマックスは、本当に悔しそうだ。これはつまりマックスは、本業は女子格闘技者だということ、それも、地下の格闘技界の、女子のチャンピオンだということだ。日本に地下格闘技が存在するのは、一般的には知られていない。ごく一部の人間だけが知る世界だ。すると夏生が聞く。

「エレン・カータ―は表でも有名だしね。なんせ元大統領の孫だもんね。それで、エレンは具体的には何を言ってきたの」

「私とやる前に、指名選手と戦えって言ってきたんだ。スポンサーにも手を回している」

 

 地下格闘技は、主に、この国の大企業の好事家が金を出しているという。マックスはある企業がスポンサーだが、表向き、その企業のバレーボールの選手と言う肩書を、いわば押し付けられている。バレーボールの世界ではマックスの並外れた体格は目立たないということだ。ようするに、ローマの剣闘士みたいなものだ。世の中には本当に酔狂な人が居る。だが、一方、そんなものを一度は見てみたいと雅は秘かに思っている。マサは絶対に興味を持っている。他の人格はお互いに影響しあう。だが表には出ない格闘技がどんなものか、恐くもある。何故なら、表に出ないという事は、その戦いが過酷で熾烈なものには違いないからだ。マックスの見た目からは想像もできないことではあるが。ひそかに、地下のこの場が格闘技最強だと言われているらしい。時には男女関係なく戦うこともあるとマックスは笑って言ったことがある。

「で、その指名選手は何者? 男、女」と景子が聞くと、

「女、空手の選手みたい」とマックスが答える。

「名前は」

「オリバー ジョンソン、黒人らしいけど」

 

 その時、背後で軽い調子の声が掛かった。

「でも、気をつけな」

「三郎!」と景子が眼を見張った。

「あんた、三郎。お前、金を返せ」とマックスが声を張る。

「まあまあ、マックス、人生、良い時も、悪い時もある、これ時の運」と時任三郎が平然として言うと、景子が眉をひそめながら問い詰める。

「三郎、あんた、お金って何よ」

 三郎がへらへら笑いながら答える。

「さあ、何でしたっけ」

 マックスが、こいつと睨みながら、言った。

「お前が、絶対くるって言ったから、一万円出したんだぞ」

「三郎、あんたマックスに何を売ったの」と景子が問うと、

「馬券、4―9、必ず来ると思ったのにな」と平然と答える三郎。

 夏生がギラリ光る眼で三郎を見た。

「あんた、ノミ屋やっているの。組関係は入店拒否よ」

 いやいやと手を振る三郎。

「やだなー個人営業だよ」

「だったら、ここいらは山王組なんかが、黙ってないよ」

 三郎は涼しい顔をして言った。

「あいつらに捕まるほど、ドジじゃないよ、俺」

「ふーん」

「ところでさ、ミス・マックス。そのオリバーって奴には気をつけた方が良い」

 フンとマックスは鼻で笑った。

「なんで」

「つまり、エレンはマックス・佐奈が怖い。だから、考えるのは何?」

 三郎の問いにマックスは苦笑いをした。

「なるほど、私を潰したい、か」

「そのとおり、といことは、オリバーはエレンの、いわば刺客。決して弱くない、それに」

「それに」

「それにマックスの情報は、多分、かなり多いはず、それに対してオリバーの情報は」

 マックスは頷いた。

「ほとんど無い」

「でしょ、だから気を付けた方が良い」

「それってさ、あたしのこと心配しているわけ」

「まあね…だけど女で、ミス・マックスに勝つ奴が居るとは思わないけどね」

「ありがとうって、ごまかされないぞ。金返せ」

「それとこれとは別」

 

 漫才である。この二人、案外気が合っていると雅は思う。三郎は景子のまたいとこになるという。

子供のころは、家が近く、遊んだらしい。だが、三郎は元自衛官らしい。何でも結構すごい部隊にいたというが、決して、その風体からは見えないが、時々何か、虚無的な顔を見せることを雅は気が付いていた。雅はそのことを「何故か」と景子に聞いたことがあるが、景子は「多分」と言って答えた。

「自衛隊は、いわば生死の境を訓練する場所。でも自衛隊は多分、本当の戦闘に付く可能性は高くない。なのに人を殺す訓練する。たいがいの人は、そんなに深くは考えないかもしれないけど、精鋭の人ほど、そこにニヒリズムを感じるのかもしれない。彼らは真の意味で殺人術を身に着けている。なのに、この日本と言う国は、彼らに正当な地位を与えていないのかもしれない。憲法上では自衛隊は違憲よ。だが権力者は闘えと言う。これは、日本の権力者が自衛隊の意味をころころと都合の良いものにしてきたということね。国民もまた、災害時には感謝するけど、その境遇を想像することは無い。自衛隊では海外派遣以降、自殺者が結構いることを大半の国民は知らされていない。この国は自衛隊に対して、不誠実よ。こんな組織に居たら、屈折した気持ちになる人間がいても不思議じゃない」


 雅は、その全部は理解できないが、三郎の飄々とした顔の裏に、確かに別の顔を隠しているのは感じる。が、やっぱり、目の前で、へらへらした顔を見ていると、なんでもうやむやになってくる。人間の本性は簡単には分からないという事か。だが、これで例のリョウという少年の話は、消えてしまった。だが、シンは何を知っているのか。

 

 再び厨房に引っ込んだシンを見る。じっと見る。

 すると、突然声が聞こえた。

「君が鍵なのは、間違いないだろう」

 何! これ、どこから、誰が話しているの。

「今は、まだ観察中だ。奴が何を考えているか分からない」

 雅は頭の中で聞いた。

「あなた、誰?」

 答えが返ってきた。

「説明しても、まだ、君には分からない」

「あなたは何を知っているの?」

「だから、今の君には分からない。言えるのは」

「言えるのは」

「宇宙創造の理由とは何かを考えろ」

 何と! スケールが一気に、唐突に大きく、そして恐ろしく抽象的な問題になった。 

「どういう意味?」

「君とマサは、たぶん世界の成り立ちに関わっているかもしれない。しかし今言えるのは、僕も君を完全に理解できたわけでは無い。だがシンの存在は君にとって邪悪かもしれない、それだけだ」

「何を言っているのか、さっぱり分からない」

 フッと笑う声がした

「そのうち、分かる、かもしれない。僕としては最悪の事態は避けたいが」

「最悪って何?」

「最悪さ」

 声はそこで途切れた。

 雅は、黙って焼きそばを調理するシンを見ていた。


 今は午前三時。ドリームステージの灯は消えていた。いつもよりは一時間速い。

「やっぱ、不景気ね」と夏生が愚痴る。

 景子は残っていた。シンは帰ったが、雅は残っていた。夜明けにはまだ早い。夏生は、カウンターに座って、ワインを飲んでいた。

 景子が夏生に聞く。

「シンは、やっぱり何か知っているんでしょうねえ」

 夏生が頷く。

「まあね、私のカンにびんびん響く」

「だからって、あんな真似、らしくないじゃない」と景子は壁に立てかけた仕込み刀を見る。

 夏生は苦笑いをする。

「シンの肝が、どのくらい据わっているかを試したかったのよ、切る気は無かったわよ」

 切る気は無いと言ったが、あれは紙一重だったと雅は思う。景子はあきれた顔になった。

「あんたねえ、普通の人だったら腰抜かしているよ、だいたい銃刀法違反よ」

 夏生は、少し眉をひそめた。

「確かに、普通のひとなら、そうね。でもシンは平然と避けた。多分、私が手加減をしているのも分かったはず」

 景子は聞いた。

「あたし、シンのことは、あまり知らないんだけど、いつからだっけ、ここに来たのは」

「半年前、あれは、タイミングがいいというか。ちょっと不思議だった」

「不思議?」

「うん、ちょうど、前の人が田舎に帰ることになって、困ったなと思っていた時期だった。するとどんぴしゃに、シンが、そこのドアを開けて入ってきた。やることにそつはないし、無口だし、裏方としては完璧ね」

「それで、履歴は」

「知らない」

 景子はえっという顔になった。

「履歴書が無い」

「そう」と夏生が答える。

「あんた、それおかしくない」

夏生は困った顔になった。景子は言い募る。

「出身も、就業歴も知らないの」

「そう」

 景子はハーとため息を吐いた。

「それで良いの」

「なんとなく、そうなったのよ。自分でもよく分かんないけど」

 雅も、それを知らない。だが夏生が知らないとは思っていなかったが、シンは私に似ていると思った。

「あたしと同じようなものですね」

 景子と夏生は同時に声を挙げた。

「そうだねえ」


 景子は雅に聞いた。

「その美少年は、リョウとかいうやつは、美少年という以外、なんか情報は無いの」

 雅は、ゆっくり思い出しながら、言った。

「直接、会ったのはマサです。マサの腕力に、少しも動じてなかった。今にも喧嘩がおこるって感じ。でもリョウが気を外した。それで何も起こらなかった」

「マサ君の迫力に動じて無かった。それは相当の胆力ね」

 夏生が聞いた。

「マサって、そんなに強いの」

「マックスに聞いたことがある。自然石を素手で叩き割ったり、額で壁に釘を打ち付けることって、どう思うって。そしたら、そんなことが出来るのは、少なくともストライカーとしては達人の領域だって」

 夏生はほうと言う顔をした。

「へえ、あの自己中が褒めるのは、確かに珍しいわね。でもその人間にまったく動じない美少年か」

 雅はハッとした。

「それって、さっきのママとシンみたいですね」

 皆、しばらく黙った。そして景子が雅に聞いた。

「まさか、シンがその美少年?」

 雅は首を横に振った。

「いいえ、別人です」

 夏生が、ふうと肩を落として言った。

「まあ、今んとこは、何も起きてない。何かは、人生に何かは起こる。起きた時に考えるしかないことっていっぱいあるわよね」

 景子が頷いた。

「まあ、それはそうだけど、鬼が出るか蛇がでるか」

 ほんとうに、鬼か蛇がでたらと雅は、さっき感じた声の「最悪」というワードを思い出していた。


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