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村正とトランスジェンダー

 時は経ち、春になった或る日、景子は雅の東京での生活についてある提案を持って、優馬を訪ねた。


 優馬は少し戸惑った顔をしていた。景子が電話で話したことに当惑したようだった。

「新宿歌舞伎町のドリームステージですか、水商売ですな」と優馬は心なしか、やや小さい声で呟いた。

 景子は頷いて言った。

「そうです。多分、雅さんの特殊な事情から考えますと、夜の世界しかありません。

つまり夜にだけ出現するから夜明けまでいるところがあればいいのです。それに、電話でお話したように、ドリームステージの店主は、御前もご存知の橘鉄心さんの息子で、私の同級生の橘夏生と言います」

「まあ、橘さんは、よう知っておりますが」

 優馬は考え込んだが、結局は景子の提案を受け入れた。しかし、

「問題はマサくんをどうするかですが」と景子が眉をひそめて言うと、優馬はうんと頷きながら答えた。

「それについては、私に当てがあります」

 

 景子はほっとした。これで雅を受け入れられる。優馬は景子に尋ねた。

「それで、そのドリームステージはどんな店ですか?」

「はい、夏生と従業員が一人の小さなバーですが、これがちょっと夏生は特殊なんです」

 優馬は目を瞬いた。

「特殊とは?」

 少し声を落として景子は答えた。

「御前はトランスジェンダーというのをご存知ですか」

 優馬は戸惑ったように目を瞬いた。

「トランスジェンダー、なんや聞いたことはあるが、確かその人が感じる自分の性と身体が不一致の人たちだったと思いますが」

 まあ、理解はしているようだ。だが、ここは難しいことは避けよう。

「まあ、確かに夏生は男性なんですが、こころは女性なんです。特に夏生は見かけはかなりの美女です」

「美女?」

「はい、長い黒髪の、そのモデルのような美女です」

「ほー、やはり、そんな人いるもんですな」

 

 景子は「はい」と答えた。複雑な事ことを除けば簡単に言えばそうなる。だが実際、景子が、本当に夏生を理解したかと言うと、それは多分、否だ。同窓会で、初めて見た夏生―もとは夏雄と言ったが、夏生と名を変えたことを聞いた、そのことに驚きと同時に困惑を覚えた。景子もまた、性的マイノリティに対する、今の社会が示す嫌悪感に、いくらかは影響されているからだ。人は属する社会のマジョリティの意志が示す行動や言葉に自然と慣らされている。いわばバイアスをかけられているのだ。つまり頭ではわかっていても、心底から理解してはいないということだ。景子は、はっきり、そのことを自覚しつつ、それを克服しなければならないと思う。

 だが、その時、夏生は景子に歩み寄ってきた。

「景子は心理学者なのよね」と笑みを浮かべながら聞いてきた。

「まだ、卵だけど」と景子が答えると、夏生は意外なことを言ってきた。

「頼みがあるのだけれど」

「頼み?」

「そう、私たちみたいのって、こうやって、表では当然、女なんですって顔しているけど、中身は複雑なのよね。ほんとうは、自分は男じゃないのか、親や世間が言うように、男として生きるのが正しいのかも、なんて悩みがあるのよね。私の店に来る人の中にも、そういう人居るのよね。まあ、私も相談に乗るけれど、私、専門家じゃないし、私自身、迷っているところもあるし、店に人を増やしたいとは思っているんだけど、どんな子が、私の店に相応しいのかも迷っている。そんな時、誰かに相談できないかなって、思っていたわけ」

「私は解離性が専門だから」

「解離性?」

「いわゆる多重人格。だから、性的マイノリティの先生を紹介する?」

 夏生は首を横に振った。

「私は私を知っている人が良い。性的マイノリティの専門家って、だいたい私たちを実験動物みたいに見るから、嫌なのね」

 確かに、研究者は観察が仕事だからやむおえない面があるが、人間を相手にする場合は、より繊細な注意が必要なのだ。やむなく景子は自分の出来る範囲ならばということで、夏生の相談者となったのだ。それ以来の付き合いだ、夏生とは。


「まあ橘さんの息子さんなら、言うことはありませんが」

 優馬は少し寂しそうだなと、初めて景子は感じた。やはりただひとりの孫が自分の手から離れる。多分それはいずれ避けようがないことだ。独身の身の景子は、それの本当の寂しさは分からないことだが、想像はできる。

 これで当面の問題は解決した。金銭面の問題は雅には無い。

「これでなんとかなりそうです」と景子が言うと、

「あなたに苦労をかけますが、お頼みいたします」と優馬は頭を下げた。

「せいいっぱいの努力をいたします」と景子も頭を下げた。

 すると「フー」と優馬はため息をひとつ吐くと、襖越しに隣の部屋に向かって声を掛けた。

「橘さん、もう良いでしょう」


 襖がすーと開き、一人の人物が中に入ってきた。少し小柄ながら背筋がすっと伸び、灰色の作務衣を着ている。その頑丈そうな身体が優馬の前で腰を低くして座り、優馬に一礼し、景子にも顔を向け一礼した。

「初めてであります、夏生の父、橘鉄心です」


 景子はちょっと怯んだ。かなり圧を感じる。初めて会った、橘夏生のお父さん、これが橘鉄心か。夏生の話だと確か京都府警の剣道指南と言っていた。まさに武士の風格だ。だが、結局、優馬は夏生の父を呼んでいた。ということは、夏生に雅をまかせる腹は出来ていたということであろう。もしかしたら、この優馬と言う爺さん、私よりも夏生のことを知っているかも。だとしたら、夏生が特殊であることは、とっくに知っていたはず、とことん喰えない老人だ。


「高原景子です」と小さく景子が挨拶すると、優馬がにこにこしながら言った。

「鉄心さん、まあ固くならんと」

 鉄心の顏はやや黒く、短く切った髪に白い物が混じり、眼光はあくまでも鋭い。彼が美那月家の千年には及ばないが。四百年続く橘一刀流の当主である。

「このたびは、御前のお孫さんが私どもの息子の元にいくなど考えもしませんでした。まことに恐れいります」と鉄心がまた頭を下げる。

 ははと優馬は笑い、頷いた。

「まあ、これも何かの縁。若い人たちに任せましょう。もちろん鉄心さんの息子さんがトランスなんとかは承知しましたが」

 鉄心はまた頭を下げた。

「私は、実は、恥ずかしながら、トランンスジェンダーという存在を理解しているわけではないのです。あれは、高校までは間違いなく、私を上回る剣士だったのですから」

「古流剣術にその人あり、今武蔵と言われる、あんたがそう言いますか」

「はい」

「少し夏生さんのことを教えていただけますか。もしかしたら高原さんが知らない橘夏生さんのことを」

 私が知らない夏生とは? 景子は知りたいと思った。結局、景子は高校の同級生で剣道男子の夏雄、そして今の夏生しか知らない。

 

 鉄心は顔をあげて言った。

「我が息子は、いわば異能」

 優馬は訝し気な顔になった。

「異能、天才ではない?」

 鉄心は少し顔を固くした。

「天才であれば、良かったのですが。夏生の剣は人でないものを切る剣です。あれが三歳の時、戯れに刀を握り、石灯籠を切ったところを私ははっきり見ました。そして、息子が十二歳の時、我、息子の剣に及ばずと知ったのです。我が息子は、橘一刀流始祖の橘道雪の再来です。雷を切ったと言われる伝説の剣が息子の剣に宿ったのです」

 景子はこれはかなり驚いた。優馬も目を瞬かせている。

 

 夏生はそんなに凄いのか、今度会う時どんな顔をしたらいいだろう。鉄心はさらに続けた。

「御前、橘家には、もうひとつ尋常ならざるものがあります。これを橘家はずっと代々秘して来たのです」

「尋常でないもの?」

「村正です」

 村正って確か日本刀のはず? 何故それが尋常ではないのか? 景子は初めて明かされる橘家の話に惑うばかりだ。 

「それは、かなりの秘密では無いですか」

 鉄心は頷いた。

「はい、村正が妖刀と言われる由縁は、村正は徳川家に代々祟りをもたらすものとされたからです」

 景子が小さく聞いた。

「あのう、村正って刀ですよね」

 鉄心は頷いて言った。

「村正は室町時代から江戸初期にかけて存在した伊勢の桑名の刀工集団を指します。伝説によれば、村正は徳川家の凶事に度々関わったとされます。すなわち、家康の祖父松平清康が殺されたときの刀が村正、家康の父の広忠が刺客に襲われた時の刀が村正、嫡男信康が切腹の折、介錯に使われた刀も村正、家康の妻の築山御前が殺された時も村正であった。また、かの反乱者由井民部乃介正雪が持っていたのも村正と言われます」

今度は優馬が聞いた。

「かように代々祟られた徳川家は村正を嫌ったが、橘家は秘かに村正を蔵したということですかな」

 鉄心は黙って頷いた。

「だが、いつから村正は橘家で蔵したのか?」と問う優馬に、

「話は慶長二十年、大阪夏の陣に遡ります」と鉄心は答えた。

 ほーと優馬は目を見張った。

「豊臣の最後ですな」

「はい、大阪城陥落の一日前と聞きます。天王寺前に布陣した橘の陣に秘かに訪れた者あり」

「訪問者ですか」

 鉄心は大きく頷いた。

「訪問者、すなわち真田大助」

「何と、真田幸村の息子」

 まるで大河ドラマみたいと思った。おそろしく時代がかっていると景子は心の中で唸った。

 鉄心は少し間を置いて言った。

「これは……あくまで橘家に伝わっている話なのです。真偽は分かりません」

「ふーん、やっぱり真田は橘にとって敵の武将でしょうからな」

「はい、大助が何を話したのか、もはや今となっては分かりません。直後は伝わっていたのでしょうが、長い年月とともに忘れられたものでしょう、しかし」

「しかし」

 鉄心はきらり目を光らせた。

「大助が、橘家に残せしものがあります」

 優馬はほうと目を瞬いた。目を瞬くのは優馬の癖らしい。が話のスケールが大きすぎて景子はついていけないものを感じたが、さすが古都、京都の街にふさわしいとは思う。

「まさか、それが」

 鉄心は大きく頷いた。

「それが、村正です」

 優馬は考え込んだ。鉄心は続ける。

「何故、真田が村正を橘に残したものか、確かな理由は分かりません。故に、ここからは私の推測なのですが」

「ほう、あなたの推測ですか」

 鉄心は、改めて、優馬をまっすぐ見返した。私は完全に置いてけぼりだ。

「御前、剣術とは何だと思われますか」

 優馬は目を瞬いた。これは困惑するだろう。

「それを、あなたが私に聞きますか?」

 鉄心は苦笑いをした。まったく優馬に聞く話では無いだろう。だが、まさに貴族と武士の問答だと景子は思う。庶民の私には言葉を挟む余地はない。

「失礼しました。御前、剣術は殺人術、人をいかに合理的に殺傷するかの方法論です」

 優馬は坊主頭を撫でた。

「それは何とも、身も蓋も無いというか」

 まったく同意だ。剣の道と書いて剣道ではないのか。だが、それをあっさり殺人の方法だと言い切る優馬は、確かにリアルなところはあるなと景子は感じた。

「だが、それは戦いの世にあっての話、大阪城が落ちれば戦国時代は終わります。多分真田幸村という武将は戦乱の時代の最後に出てきた武将でしょう。おそらく最後の武将として、何かを残したかった。それが村正というわけでしょう」

「だが、何故、橘家が選ばれたのか」

 鉄心は口元をゆがめた。景子はそれを皮肉な苦笑いをしたという所だと思えた。まさに鉄心は言った。

「多分、皮肉でしょう」

 訝し気に優馬が聞く。

「皮肉?」

「はい、剣をとっては、橘一刀流は無双、他のものの追随は許さず。柳生新陰流など片腹痛し。だが、大阪が落ちれば世は変わる。剣術よりは算術、経世術の世の中になりましょう。真田幸村はこのことを理解していた。だから、徳川に着いてはいるが、時代遅れの剣術屋に徳川を祟る村正を託した。これは変わりゆく時代に皮肉を込めた幸村の反骨の一念でしょう。まあ歪んではいますが」

 確かに、歪んではいる。が、滅びゆく武将の気持ちは、もしかしたらそんなものなのかもしれない。やっぱりリアルだな。もしかしたら鉄心は本物のリアリストかもしれないと景子は思った。

「それで橘は代々村正を秘密裏に保存したのですか」と優馬が聞くと、鉄心は頷いた。

「それを知って、あえて村正を蔵した橘家も歪んではいますが」

 うーんと優馬は唸った。だがそれ自体は、言っては悪いが今時たいした話では無い。まあ外国人向けの奇談くらいのものではないかと景子は秘かに思った。


「それで、橘さんは何を憂慮しているのかな」

 鉄心はきらり目を光らせた。

「かなり前から、村正を見る度に妖気が増すのを感じるのです」

「妖気?」

「はい、まるで怨念のような妖気が漂っているのです」

「妖気?」

「御前、今の世をどう思われていますか?」

 優馬は初めて苦笑いをした。

「これは、また唐突やな」

「戦中、戦後を生き抜き、日本の首領、フィクサーとも呼ばれる御前の目から見て、今の世界はどう思われる」

 

 優馬は黙り、目をつむった。しばしの沈黙のときが流れた。そして優馬はゆっくりと目を開き語り始めた。

「今の世界ですか。私はもう数年の命でしょう、思い返せば、太平洋戦争が終わった後に日本はどんな道を辿ったのですかな。戦後の混乱期、安保騒動で揺れた六十年代、オイルショックを抜け、成長とバブルの八〇年代、天皇のご崩御と平成時代の幕開け、そしてバブルが弾け、混迷の二十一世紀に入った。そして、停滞と混迷の現代。世界中に暴力が溢れています。おそらく第二次世界大戦より多くの人命がテロと戦争によって失われているでしょうな。それは解決の糸口すら見いだせず、人々は連帯よりは孤立を選び、自分のテリトリーを必死に守ろうとしている。協調の道は遥か遠い。はて、私は何をしてきたんですかな」

 

 優馬は言葉を切って、ふと景子を見た。景子はちょっと緊張した。優馬の歩んだ道、私なんかにはまだまだ想像もつかない道を歩んだのだろうと景子は思った。

「多分、これから日本はますます混乱するでしょうな。今の若者、壮年にいたるまで活気に溢れた時代というものを知らない。これは不幸なことです。その責任はこのおいぼれを含めて、高齢者にある。が、誰も責任ある行動はとらん、憂国の士はもはやいない。考えて見れば、三島由紀夫はこのことを予知していたのかもしれませんな。私も彼のように散ればよかった。だが私は生き長らえた。せめて、何か最後に国のために何ができるか考えております」


 鉄心は大きく頷くと言った。

「まさにその混乱、混迷の、この時代によって村正の妖気が高まっているのです」

 優馬は目を見張った。

「村正が時代と呼応していると」

「はい、それを、はっきり感じました。そしてその妖気が、息子の異能を取り込もうとしていることを感じたのです」

 優馬は黙ってうーんと唸った

「恐るべきは、夏生の異能が村正を取った時、いったい、どのような化け物が生まれるか、私はそれを恐れるのです。私は、息子が五歳の時、初めて村正を手に取った時、まるで世界が逆転するような眩暈を感じました。それ以来、二度と村正を夏生に近づけることを許さないのです。私は我が子を捨てても、村正を夏生に近づけてはならないのです。私が息子を遠ざけたのは、あれがトランス・ジェンダーとやらになったからでは無い。それは表向きの理由なのです」

 

 景子は何とも言えない気持になった。鉄心が夏生にそんな思いがあったとは、想像もしなかったことだ、だが話がまるでオカルトだなと景子は思った。だが、雅もまたオカルトだ。その不可思議な存在同士を私はくっつけてしまった。心の中で景子はオーマイゴッド、と叫んだ。

「橘はんも難しいですな、やはりその面妖な村正を捨てることはできませんかな」

 鉄心は頷いた。

「橘家四百年の伝統を私が捨てることはできません」

「だから、息子を捨てた」

「はい」

「あなたもいろいろありますな」と優馬はしみじみ言った。

「恐れ入ります」

「だが」と優馬は言った。

「だが、子はいずれ旅立つ」と言って優馬はすっくと立って、静かに庭に面した襖を開けた。

 庭のひときわ大きな桜の樹に、いましも吹き出しそうな桃色の萌芽が見えた。新しい春がすぐそこにあるのだ。

 優馬は立ったまま呟くように言った。

「若い人を信じましょう。そして力の限り助けてやりましょう」

 優馬はそう言うと景子を見た。すると鉄心は黙って景子に頭を下げた。

 これは重いものを担ったものだ。景子は未来に思いをはせて身を引き締めた。


 景子はその時の緊張を忘れたことはない。景子は再び鏡を見ると、フーとため息を吐いた。

だが雅とマサ、彼らは実に稀有な存在だ。驚くべきことに雅は超能力者だった。雅は人の思念を読むことが出来る。また景子の前で、空中に浮いて見せた。サリンというとんでもない物をばらまいた教団の尊師はわずかに三十センチ浮いただけだったが、雅は自由に部屋を浮いたまま移動し、手を使わずにフライパンで目玉焼きを作った。マサはと言えば、彼は最強の格闘家というしかなかった。素手で自然石を叩き割り、分厚い電話帳をいとも簡単に引き裂いた。

 こんな存在と景子はつきあわなければならなかったのだ。 


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