始まりの日
雅が部屋から出ると「フー」と景子はため息を吐いた。
机の上にある鏡を手に取ると、それを覗いた。茶髪のショートカット、三十二歳になる女が映っている。少し疲れているかと思った。景子はその年で、東大の准教授なのだ。いろいろ苦労はある。大学の研究室は教授を頂点とする階級社会だ。そして男社会でもある。女が上がるには本来男性の二倍、三倍の努力が必要だ。景子がこの年で准教授になれたのは理由がある。簡単に云えばある男が景子のバックについているからだ。ある男とは、美那月優馬という人物だ。そして、それは私の周りに居る人々に知られている。結果、景子は畏怖と嫉妬に囲まれて生きていると言う訳だ。
振り返れば、ことは一年半前の冬に景子が雅の祖父である美那月優馬と会った時から始まったのだ。
景子は京都の嵯峨野に生を受けた。嵯峨野は古い町だ。京都そのものが古いのではあるが、嵯峨野は嵐山を背景にそれこそ平安の時代にも遡る寺院や建物が立ち由緒正しい街である。高校時代まで景子はそこで過ごした。そして、景子は最初、東京の東京大学の薬学部に進み、ある事情によって、心理学に変更して、二年間のアメリカ留学を経た後、東京大学大学院の助教になって三年目の冬だった。大学の冬休みに合わせ景子は故郷に帰っていた。
そして年も押し迫った、十二月三十日に景子は突如、嵯峨野、いや京都でも有数の名家である美那月家に招待されたのだ。美那月家の、その家系は千年以上にも遡るという。ただの薬屋の高原家とは縁もゆかりもない。ただ貴族であろうが庶民であろうが、人は風邪をひく。すると薬が必要だ。たまたま近所にあったから、高原の家は代々美那月家をお得意様とする薬局である。そんな美那月家から景子が招待されたのだ。
母の恭子はこれは縁談かと、はしゃいでいる。女一人東京に住む景子にやきもきしているのだ。景子はと言えばそんなはずがあるまいと思っていた。美那月は雲上人である。景子が目にとまる筈が無いのである。
父の武は少し緊張していた。
「御前が、おまえ何の用かな?」
景子にはまったく心当たりがない。
「さあ、何かしらね」
とにかく丁重に、かつ速く帰って来いと父は言った。
そして豪邸の美那月家まで二百メートル、景子は歩いた。
その家は門構えも立派な家屋だ。堂々とした赤胴色に鈍く光る門から玄関まで、ざっと五十メートルはある。道の両側は四季の緑樹が並び、春には赤や黄の花々が咲き誇るのだろう。その館は蘇芳色の壁の館だ。かなり大きいポーチの玄関には銀色の両扉の重厚なドアが閉まっていた。
呼び鈴を押すと、ドアが開かれ、畳にしていったい何畳あるか分からない広間があった。
広間を過ぎ、景子は一室に通された。景子を案内したのは白髪のいかにも執事という感じの倉本仁という老人だった。
その部屋は日本間だった、洋館風の建物に和室があった。こういう風の家には入ったことはない。洋風と和風が混在している家に景子は歴史の空気を感じた。床の間に掛け軸が掛かっている。多分風水画だろうが、さぞや高価なものであろう。
傍らには青い火鉢の火がちろちろ燃えている。暖は火鉢のみで多少寒いが、それより景子は思ったよりも森閑とした家に緊張していた。窓越しに、庭の寒椿が咲き誇っているのが見える。それに目を移した景子は今しも夕闇が迫っているのをじっと見ていた。
咲き誇る赤の風景が暗闇に変わってゆく。そして最後の光が消えた時だった。突然、長い髪の少女が出現した。としか言いようが無い。それほど、それは唐突だったのだ。
少女は冬というのに白いワンピースだけで立っていた。長い自然な髪に瞳が輝いている。美少女だと思った。少女は夕闇とともに庭に現われた、としか見えない。闇と共に少女は現れた。この僅かの時間の推移に景子は戸惑った。いったいこの少女は誰?
その時、襖が開かれた。
「おお、よう来てくれました、高原はん」
坊主頭で丸渕眼鏡の、紺の長着と灰色の羽織を纏った人物が立っていた。
座布団を外して景子が一礼した。ちらっと庭を見たが、少女はもはや居なかった。
「今日はお招きありがとうございます」
「まあ、固くならずに行きましょう。私が美那月優馬です」
「高原景子です。今日はお招きありがとうございます」
優馬はニコニコしている。
「やあ、べっぴんさんやのう、よかった、よかった」
このざっくばらんな口調を聞けば、ただのじいさんだが、このじいさんはただ者ではない。千年の美那月家の当主にして、話によれば総理大臣が就任後必ず、挨拶に来ると言われる政財界の首領。この人の一言で、政界、財界、果ては裏社会にも影響が出るというフィクサー、美那月優馬。年は九〇歳を超えると聞くが、まるで壮年のような覇気と飄々とした風情を醸し出していた。景子は心理学者だが、まだ駆け出しだ。この老人の心理なぞはかすりもしなかった。
「さっそくやが」と優馬は丸眼鏡の奥の眼をキラリと光らせた。
景子は緊張した。さっそく本題か?
「あんた、大学ではあんじょうやっていますか?」
景子は眉をひそめた。まあ景子が大学に勤めているのはご近所だから当然知ってはいるだろうが、日本のドンが気にかけることか。
「やりにくうは無いですか、嫌なこと、セクハラやパワハラは無いですか」
無いと言えば嘘になるだろうが、世間の女子も少なからずあることだから、気にはしないが。
「思いが通じないことはありませんか、例えば、上司が理解してくれないこととかは」
うーん、この人何を知っているのか。穏やかだが決して笑っていない丸渕眼鏡越しの目に少し景子は気圧された。
「まあ、多少は、いろいろとありますが……」
「まあ、あんな経験をしたあなたは、ようやっとると思います」
あんな経験? この老人、私の何を知っている?
だが、優馬は訝しげな景子の心を見通すように、笑っている・そして、優馬は懐から紙の束を出した。
「解離性同一性障害における実存的変容現象の考察」
え! 景子は驚いた。それは私の論文の題名だ。どうして優馬がそれを。
「あっははは、少し驚かせたようやなあ」と優馬は笑った。
「はあ」
「あんた、この論文のおかげで上のもんから睨まれてますな」
景子は今度は本当に驚いた。図星だからだ。解離性同一性障害における実存的変容現象の考察とは簡単に言えばいわゆる多重人格における人格の変化について論じたものだ。これで確かに研究室の上司に睨まれた。「君はマンガ家かSF作家になった方が良い」とまで言われたのだ。まあ難しく言えば上司からアカデミズムではないと断言されたのだ。これは学者としては痛い。
景子はその時のことを思い出して唇を噛んだ。
「まあ学者の世界はえらい封建的ですからな。苦労も多いでしょう」
「ええ、まあ、でもそれが世の中ですから」と景子は少し強がった。
優馬がぐっと身を乗り出した。え、何!
「あんたはん、まだこの論文に書いたことは正しいとお考えですかな?」
優馬の眼が真っ直ぐ景子を射抜いた。景子はひるんだが、いやここで引くのは嫌だと思った。この老人が何を考えているのかは分からないが、自分の論文のことであれば私は責任を持つ。
「はい、それは正しいです。しかし」
優馬はきらりと目を光らせて景子を見た。
「しかし」
「考察は端緒についただけです。もっと研究が必要です」
優馬は景子を黙って見ている。やはりドンだ。ひと睨みで政界の重鎮を黙らせると言うその視線は、ただの娘にすぎない自分をビビらせるには充分だ。だが私は言った以上、責任は持つ、あたしだってけっこう頑固なのだ。
睨みあいはしばらく続いた。だが、突如、優馬が膝を打ち、破顔した。
「よろしい、あんたはんは本物や。そして若い、いやあ羨ましいことや、だが」
「だが?」
「あんた、物騒なもん持ってはるなあ」
ギクッとした。この老人、あれを知っている。景子は黙った。
「まあ、ええわ、まあ護身用なら眼をつむりましょう。だが、人に絶対知られないように」
体の力が抜けた。手のひらに汗をかいている。こんなに緊張したことは今までに無いことだった。さすが美那月優馬、おそるべし。
「では教えてくれんかな。この論文は読んでは見たけれど、学術用語というやつはどうも苦手や、ここは分かりやすく説明してはもらえんかな」
何故、私の論文に興味を持ったかは分からないが。その目は真剣だ。難しいことは簡単に分かりやすくは出来ないが、ここまで自分を呼び寄せた理由が、私の論文のことであれば、私は答える。
「私がこの論文を書くきっかけは、聖痕現象です。私は韓国でこの現象を見たのです。アメリカやヨーロッパでは無くアジアで見たのです。聖痕とはキリストが磔になったとき付いた傷です。科学では説明できない力でキリスト教信者にその聖痕と同じ傷が現れる現象です。これらはスティングマータと呼ばれます。私は信じられなかったのですが、やはり認めなければならない事実でした。確かにまっさらな手にナイフによってでもない、釘でもない、まさに傷が現れたのです。彼は、そのキリスト信者はまぎれもなく手品師ではなかった。事象があって説明が後から付く」
優馬は坊主頭をボリボリ掻いた。
「なんや難しいな」
「すいません。つまり何らかの出来事があって、それに見合う説明がされる、その論理で実験が行われる、これが科学です」
「なるほど」
「私の課題は聖痕の現象に見合う論理です。そこで多重人格が浮かびあがる」
「うーん、それは飛躍がすぎるとは言えませんか」
ほうと景子は思った。やっぱり、このじいさん、頭はさえている。
「科学に必要な物とは何だと思いますか?」
優馬は目を瞬いて苦笑いをした。
「私に聞くんですか?」
ちょっと言い過ぎたか、ドンに失礼だったか。
「すいません、それは想像力です。ニュートンもアインシュタインも想像力が豊かだったんです。りんごが地に落ちる現象からニュートンは想像の翼を広げた。そうでなければ科学は存在しない」
優馬はほうと言う顏をした。
「それはええわ、私なんかカンと思い込みで生きてきたさかいに」
景子はこの人分かっていると思った。優馬は本質を突いているのだ。科学とは結局想像力だ。論理は後からくる。これに反対する人は、万物の事象を全て知っていなければならない。それは不可能だ。神ならば可能だが、人は神ではない。だから人は想像力という櫂で世界の大洋を漕ぎ出さなければならないのだ。
「人格の解離は耐えがたいような苦痛から生じます。それは不幸なことであり、虐待など許されない。それはまちがいなく無くさねばならない。けれどそれは、ある意味人間の想像力の可能性が見えるのです。まちがいなく人格の解離は人間の想像力の解明なしには理解できない。医学的な、あるいは生物学的な要素は排除できませんが、まさか遺伝的要素などを言いたてたら、それはとんでもない偏見を産みます。同性愛もそうですが、解離は特別なことではない」
優馬はここでうーんと唸った。
「あんたはそう言うが、聞きかたによっては、解離はやむをえない。それは想像力が原因だからというふうに聞こえなくもない」
景子はぐっと詰まったが、続けた。
「その危険はあります。それほど想像力はやっかいなものです。多分これを捉えるために、カント、フロイト、ユング、サルトルは格闘しました。私はそれほどのものを扱っている自覚はあります」
優馬はうんと頷いた。
「まあ、話を続けてください」
「事象が聖痕有りとするなら、論理は想像力がそれをさせるのだということになります。そしてこの前提に眺めるとき人格が分裂する事象は想像力の極限です。そのバリエーションの何と多様なことか、男は女になる。モノにもなりうる。自動車や、電車になるのです。これは驚異です。あらためて患者さんを見るとき、正直に驚くほかありません」
「なるほど、それは大変な経験ですな」
「そうです。私は学者バカになるつもりはありません。私は実際に解離性同一性障害を持つ患者さんに接して、この論文を書いたつもりです」
優馬はにやにやした。
「あんたはん、嫌われる理由がひとつ分かりましたな。気の強いおなごは男には煙ったい」
景子は苦笑した。まあやっぱりそうなるな。
「それで核心は?」
「人間は想像力によって、まったく別の人間になりうる」
「別の?」
「はい、別の人格です。人間はそうなる。思い切って言うと、だからそれをそのまま受け入れるべきだと思います。想像力は具体的に生じるのです。つまりユキオはユキコになるのです。事実を受け入れればそうなる」
「ユキオはユキコに戻れない?」
「真の意味ではそうです。いったんユキオになった事実は決して消せない」
優馬はかなり戸惑った顔になった。
「だが、それでは、多重人格を放っておけということになりますな」
景子はいやと頭を振った。
「認めることと放置するとは違います」
確かにそれは言葉では違いはあきらかだ。だが問題はそう認めてどうするかなのだ。だから問題提起としての論は良いが、その行く先が放置であってはいけない。
景子は言った。
「人格の統一は正しい方法論が必要です。今までの方法が全部間違っていると言いませんが。新しい方法論が必要です。そしてそのためには劇的に社会の仕組みを変えなければならない。このことが抜けている。今の社会は解離を進行させるばかりです。それだけ環境が悪すぎる。パラダイムシフトが必要なんです」
優馬はうーんと唸った。やはりこれは難しいか。
「結局はそこに行き着くんですな」
「はい患者さんの多くは苦しんでいます。様々な症状に悩んでいる。初めに人格の統合があるのではない。まずはあるがままに受け入れること、性同一性障害ではそうなっています」
すると優馬がぼそりと言った。試すような口ぶりだ。
「同性愛者が世間に受け入れられていると?」
景子は言葉に迷った。確かに同性愛者を現代社会が受け入れているとは言いがたい。彼らもまた苦しんでいる。だが、だからこそ根は同じなのだ。無理やりフツーにさせることがいかに残酷なことなのか、分かっていないのだ。異質なものを排除し自分が正当だと思い込み、自分こそ正当だと言う 不寛容と自己責任論が今の日本を覆っている。
「結局、ぶつかるのは、その点じゃな。統合を第一に考え、個人努力に重きを置く現
状をあなたは批判していることになる」
図星だ。私はそれで白い目で見られている。
「ただ、あなたも、理屈としては弱い。なんもかんも社会のせいにするのか、ということになる。多重人格とういのは一見して個人の範疇と見えますが」
景子は頷いた。確かにそれはある。
「はい。そこに問題がある。多重人格はあくまでも個人と社会の問題です。さらに言えば、この両者は本来的に対立する概念ではない。しかし、まずは個人と社会を切り離して個人の責任としていることに最大の問題がある。どんな社会が多様な人間を受け入れることができるかを考える必要があるのであって、まずは自己責任論というのは詐称であり欺瞞です。人間の責任というのは常に社会的責任なのです。そして、まずは私たち研究者が変わらなければならない」
優馬は目を閉じた。何か考えているのか。自分の思いが正確に言えたどうか分からない。思いが通じたのかも分からない。ただ今の自分はたったこれだけなのだ。
ゆっくり優馬の目が開かれた。
「確か毛沢東が言ったことやと記憶していますが」
モウタクトウ、名前は知っている。確かかつて中国の共産党のトップだった人間。
「確か毛沢東は若者に言ったと聞きます。君たちは若い、名も無い、金も無い。私はもうこの三つを無くした。言い得て妙ですな。私も名も金もある、そして年寄りや。いやあ羨ましい、あなたが」
はあ、そう言われてもピンとこないのだが。まあ若いうちに大金や名誉を獲得するのはだいたい難しい。
「あんたに会ってもらいたい人間が居る」
会ってもらいたい人、誰だろう。これ以上迫力ある人が居るのか? おそるおそる聞いた。
「どなたですか?」
「私の孫や」
「お孫さん」
「女ですがな」
なら多分少女だろう。景子はふと先ほど見た少女を思い出した。
「雅と書いてみやびや。父親と母親を交通事故で無くした。私の血を受け継ぐのは、実はこの子しかおらんのや」
ふーん、美那月の後継者か、だが何故、私が?
「美那月は千年続く家や、その中で変わったもんも仰山居る。安倍清明の向こうをはった陰陽師や天草四郎の伴天連魔術を得て、徳川将軍をビビらせたもん。こいつらは今でいう手品師ですな。また坂本龍馬と組んで世界の海を渡ろうとしたもん。ああこの人は本当にアメリカに行って、金鉱を見つけたそうや」
景子はただただ驚くばかりだ。
「なーに私も負けてないで。戦前に十代で親父と満州で一緒に儲けた金で戦後の混乱の中、家を守ったんや。金だけでは無い。腹巻にピストル二丁ぶち込んで、日本刀ふりかざして、進駐軍やヤクザと渡り合ったんや」
「はー」
「ハハ、私も若かったさかいにな」
なんとまあ凄い話を飄々と語るもんだ。さすがドンと言うべきか。景子は口を開けたまま聞いていた。
「だが雅は美那月の千年の歴史の中でも超弩級や、こんな存在は考えられん」
はーピストルでは無く核爆弾でもぶちこむのだろうか。景子はおそるおそる聞いた。
「お孫さんと私とどういう関係が?」
優馬はにやり笑った。
「会えば分かります。だが今日では無い。元旦の夜明け前にもう一度来てほしい。その時、何故私があなたを呼んだのか分かります。多分理解できるのは、あんたしかおらん。来て損は無い」
その後は私が考えている間、優馬は黙っていた。返事はどうだということか、ここでNOを言うのはたやすい。が、この人が、日本のドンが私の考えに興味を持っている。私の頭に打算と言う文字が浮かぶ。それを無視できるか。私の仕事は道半ば、これが何か突破口になるかもしれない。人生は一期一会だ。よし。
「分かりました。まだよくわかりませんが、仰せのとおりにいたします」
言った。ドンの前で。
優馬は破顔した。よしと頷くと言った。
「おおきに、あんじょう頼みます」
年が明けた。テレビでは新年を祝う番組が続いている。
午前三時過ぎ、景子は家を出た。雪は止んでいたが、風が顔に痛いほど冷たい。眠気は吹き飛び、美那月家へと向かう。
通されたのは前回と同じ部屋。火鉢の他に床暖房も入っているのか、意外と暖かい。しばらく待たされた景子は正座を崩し、孫とは誰なのか、自分の研究とどう関係するのか考えを巡らせるうち、眠気に襲われ、いつしか眠りに落ちた。
夢の中、桜舞う林に自分が眠っている。手を繋いだ少年と少女が近づいてくる。
「この人、死んでる?」
「眠ってるだけだよ」
そう言う少年の顔が妙に印象に残る。
突然、桜が景子の体に降り注ぎ埋め尽くす。少女が助けようとするが、少年は冷たく言う。
「この人は死にたがってる。悪い人だから死ななきゃいけないんだ」
その時、声がした。「景子はん」。目の前に優馬がいた。
目覚めた景子の前に、優馬と黒髪の美少女がいた。「雅です」と少女が頭を下げる。夢で見た少女と同じだと、景子は直感する。
優馬は語り始めた。雅は彼の一人息子の娘で、幼くして両親を亡くし、五歳から自らが育てたという。ところが中学の頃から不可解な失踪が繰り返され、家には見知らぬ少年が現れるようになった。問い詰めても雅は何も語らない。そして、大晦日の夜、ついに彼女は窓辺に立ち、朝日を浴びた瞬間、優馬は“それ”を見たのだと言う。
「景子はん、あんたにも見てもらおう」
そう言って窓を開けた瞬間、部屋がまばゆい光で満ちた。雅の姿はその光の向こうに溶け、消えてゆく。続いて現れたのは、白い彫刻のような裸の青年。優馬の叱責で急いで着替えに行ったその青年は、雅の“もう一つの人格”だった。
その名はマサ。雅は昼と夜、二つの人格を持っていたのだ。
「ジキルとハイドや。あんじょう頼むで、景子はん。あんたしかおらん」
景子は確信する。この出来事は偶然ではない。夢で見た少年の笑顔と、今目の前の青年の笑顔が重なる。この少女はただの研究対象ではない。恐れと好奇心のはざまで、景子はこの依頼を引き受ける決意を固めた。