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景子とマサ

 景子が住んでいるのは、西武池袋線江古田駅から歩いて20分の、マンションとは言えないが洒落た霞色の壁のアパートだった。二階建ての一階中央の間取り2DKだ。

 玄関のチャイムが鳴って、ドアを開けると「こんちわ」と明るく挨拶したのはマサだった。

 

 景子はこの子変わらないなと思う。雅もそうだが、年齢と言う概念から何かずれてる。ただ、マサが見かけだけの好青年ではないことは分かっている。このニコニコしたお人よしにしか見えない筋肉人間が、深慮遠謀の持ち主であることは承知のことだ。だが今は頼りになるボディガードだ。

「景子さん、打ち合わせ良いですか?」

「うん、それで私はどうすればいい」

「こことT大の地図を確認しました。電車の中はまず大丈夫でしょう。ただ駅の構内は気をつけて、そしてまずここから江古田に続く道。公園がありましたね」

 景子は頷いた。「うん」

「そこを通っていますか」

「うん、近道だから」

「では、今日から遠回りでも公園は避けてください」

「分かった」

「そして夜、最難関の大学を出て帰る道の護衛に話し合った結果四人が護衛につきます」

「え、四人? 三人じゃなかったの」と聞いた景子は、つい先日行った真武会新宿道場を思い出した。

 

 女は男だらけの集団に割と簡単に入れる。女王バチの理屈だ。その雌が綺麗なら、男は必ず寄ってきて、自分をアピールする。と言うわけで、女王様の護衛にほぼ全員が手を挙げた。だが、支部長の西条が怒鳴った。

「お前ら! 素人のお嬢さんを守るということが、どんなことか分かっているのか! 相手は凶器を持っているかもしれない。複数人かもしれない。人を守って、なおかつ自分も守る覚悟と能力が必要だ。どうだ! お前らにそれがあるか!」

 皆固まった。まあそうなるわな。他人にそこまで要求する権利は誰にも無い。

すると、ごつい岩のような頭をして鋭い目つきの人物が、

「支部長」と言った。

「岩尾か、何だ」

「押忍! 今、支部長の言われた覚悟が、すなわち武道かと自分は思います」

 西条はにやりとした。

「岩尾の言ったことに賛同できるやつはいるか!」

 一同が叫んだ。

「押忍!」

 ハハ、とんでもないことになったわね、シンの奴が余計なことを言ったからだわ。だが拳銃を使う羽目にはなりたくない、とすれば、止む負えないかと景子は思った。

そして三人が選ばれたはずだった。

「何故、人数が増えたの」

「岩尾が提案したんですよ、景子さんの直の護衛一人、周りを固めるのには三方が良いだろう。大人数でもいいが、それは敵の情報が判明してからだ。その時は、大人数で一気に捕まえる。道場生には警察官もいる」

「なるほど」

 まあ、大変、心配いただいて恐縮だが、少し大げさじゃないか。

 

 そして、初めて景子はマサと連れ立って出勤と言うわけだ。景子は東大の助教授だから、基本一般のサラリーマンと違って、満員電車通勤とはならない。まあ、だから狙われやすいともいえるのだが。あまり知られていないのは、東大助教授というのは準公務員である。だが一般公務員と違って、労働時間で給料をもらっているわけではない。だから、一日、どんなに仕事をしても残業代も手当も出ない。夏生は珍しく朝方だから、まだ暗い四時には起きる。そしてジョキングをしている。そして満員電車になる前に電車に乗る。

「ふーん、ジョギングはしばらく止めた方が良い」

「朝なら大丈夫では?」

「景子さん、犯人の気持ちになってください。必ず一度は通るという道を選びませんか?」

「なるほど分かった」

 そして、初めてのデート、ではない護衛付きの歩みを始めた。

 

 東京大学に入ったとき、「うーん」と唸ったマサは「これは……」とつぶやいた。

「何か?」と景子が聞く。

 マサは大学構内を見回しながら、

「大学と言うのは、こんなに、すんなり入れるんですね」

 そう呟いたマサに、景子は頷いた。

「まあ、そうね、学生証をいちいち出したりしないわよね」

「これだけの人数が平気な顔をして入り込んでいるのは、そうは無い場所ですね」

「うん、まあ」

 言われてみればまったくその通りだ。だが寡聞にしてT大学構内連続殺人事件というのは聞いたことが無い。そして、夜は極端に人数が減る。が、この広い敷地は変わらない。

「私がストーカーなら、まず此処を襲撃場所にしますね」

「そうね」

「幸いなのは、ここは大人数の展開が可能だってこと」

 おやまあ、大包囲網作戦か、まあスマホもあることだし、可能ちゃあ可能だけど、そんなことがあったらマスコミが喰いつくだろうなあ。

「大丈夫ですよ、真武会六百万の組織を舐めないでください、マスコミならねじ伏せます」

 おやまあ、マサもテレパシー使うのか、と思ったが、マサについては、よくわからないところが多いので黙った。

「それより、相手についてはまったく予想ができないんですか?」

 その問いが一番きつい。

「うーん、言いたくないけど、もしかしたら学生かもしれない。大学の教師って言うのは、そりゃ狭い世界にいるから、やっぱり大学関係者かなって」

「なるほど」

 

 それからマサは大学内を歩いていいかと聞いてきたので、「大丈夫、運動部の先生にしか見えないし、警備員も何も言わないと思うわよ」と答えると、

「そうですか、それはそれでまずいとは思いますが、まあ都合がいい」

 マサはもうその時はにこにこした実直そうな青年から、まるで刑事の様に、とは言っても本物の刑事は会ったことが無いが、とにかくそういうモードになっていた。

 静かに歩くマサの背中を見て、ハッと思った。足音がしない。それはどういう意味か分からないが、マサの知らぜざる面を見たように景子は思った。

「マサ君」

マサは振り向いた。

「何ですか?」

「時間があったら、帰る前に研究室に来てほしい」

 マサはほうという顔になったが、

「分かりました。三十分くらいで伺います」


 景子の研究室は、1DKの広さ、左右の壁に薄茶の書庫にざっと五千冊の書物が並び、少し小さめの白い長机にパイプ椅子が五つ、そして景子のデイスクがちんまりと置いてあった。

 マサは正面の窓を背にして座った。

「いやあ、大学の先生の部屋なんて入ったこともないから、ハハ緊張するな」

 景子は分厚い書物に目を落とし言った。

「主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」

 マサは難しい顔になった。

「ハ! 何ですか」


 景子はゆっくりマサの顔を見た。

「私の前で、お馬鹿で筋肉マンです、なんてのは、もう必要ないのよ。あなたとはもうかれこれ長いもんね」

 マサはゆっくり腕組をした。

「ハハ! 創世記ですね」

「神はアダムを作った。そしてアダムのあばら骨でイブを作った。これってアダムとイブは同一のものとはならないかしら」

「それは異論は無いですが、だから?」

「だから、神話と言うのは歴史と言うのと同じ、作成した時期と権力者の意向が色濃く反映される」

 マサはぼりぼり頭を掻いた。

「難しいですな」

「要は神話なんて権力者がどういう考えだったかが問題よ」

「なるほど」

「そして、人類史において、強固な考えがある」

「何ですか」

「男尊女卑、つまりセクハラよ」

 マサは目をパチパチさせた。

「そりゃまあ」

「旧約に限らない。人類史は男尊女卑よ、でもアダムとイブがひっくり返ることも、隠されたかもしれない」

 

 マサは目を瞠った。

「こいつは思い切って、大胆ですな」

「考えてみて、創造の根本は生産よ、生産の源は人間の再生産。これをできるのは女だけ」

 マサはうーんと唸った。景子は続けた。

「真の創成期は神はまずイブをつくり神と交わった。そして、アダムを生んだ。そうして生産が許される神の教えに背いてアダムが生産の方法―神の特権を知ってしまった。これが原罪」

「それが僕と、どう関係が?」

「イブは雅、アダムはあなた。問題はマサ君、あなたにある」

「俺? 雅ではない」

「雅は神の子、原罪を犯したのはあなた」

 マサはぼりぼり頭を掻いた。

「まあ、こりゃ、どうも」

「本来的に種を付けるのは男、つまり男か神」

「なるほどね、で、だから私たちの存在が明らかになった、のですか?」


 景子はハ! と息を吐いた。

「分からない、さっぱりね」

「ただ旧約に目を付けたんですね」

「そう男と女が同一というところから」

「アンドロギュノスがいるのでは?」

「それは両性具有者、あなたがたのように見事に男と女に分かれていない」

「なるほど」

「聞いてちょうだい、私は初めあなた方は多重人格者と思っていた。が、いわゆる精神学的な多重人格ではない。あなたがたを分析するには行動学というよりはユング的なアプローチが必要ではないかと思ったわけ、ユングは夢やグノーシス研究で知られている。そこから宗教というものが浮かび上がる」

「ふーん、だから旧約ですか」

「アダムとイブなんて、ほんとうに分かりやすいじゃない」

「でも、それでは、昼と夜に分かれる理由は分かりませんが」

 景子は額に皺をよせ唸った。

「うーん、そうなのよね、昼と夜って何を指しているのか、マサ君意見は無い?」

「分からない、さっぱりね」

「ハハ、なるほど」

 このマサが一体何を知って、何を知らないのかを判明したいと思ったが、まあ簡単にはいかないらしい。

「まあ、私も研究を続けるわ。それが仕事だしね、今日は引き留めてごめんなさい」

 マサは立った。

「それじゃ、夜は、ごつい男が来ますので、よろしく」

 そして音もなく、扉の向こうに消えた。


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