カウンセラー
国立東京大学の構内は夏休みの夜のため学生がちらほら見かけるのみで、閑散としていた。美那月雅は前面に立つ時計台を見上げた。堂々と聳える時計台も、学生のいない構内に心なしか寂しげに見える。都心と言え大学構内は緑も多く、熱帯夜といってもアスファルトジャングルの新宿よりわずかに過ごしやすいと思った。雅はまっすぐ心理学研究室の準教授高原景子研究室に向かっている
構内で、二.三人の学生にすれ違った。皆男の学生で、雅を見るとおっという顔なる。まあ仕方が無いか、ジーンズとピンクのTシャツと普通の女性の恰好でも学生に見えない。東大にも女性も少なからず居ると聞くが、やはり水商売の自分に異世界だ。
雅は、キャンパスの中ほどに立つ、文学部研究棟に入っていた。ただし雅はここに来るのは初めてではない。もう一年くらい一か月に一度通っている。だから勝手は知っている。雅は二階にある研究室に入っていった。そこに高原景子が雅を待っていた。
景子は文学部心理学研究室の準教授。茶髪のョートカットが良く似合う、170CMというモデル並みの高身長の恰好の良い女性だ。大学の研究者の白衣も景子が着ると、これがとてもカッコ良い。
その研究室はとても清潔で、基本白色が基調になっている、ずらり本が並ぶ本棚は外装が薄い茶、内装は白だ。テーブルも白で傷ひとつない。カーテンも薄緑で、緩い夜風に軽く揺れている。
雅と景子は椅子に座って相対して話していた。
「では、あなたは、現状のままで良いと言うの? 解離性同一性障害のまま」と景子が言うと、雅はうんと頷いた。
「マサと私は確かに異常です。でもそれはマサと私のせいじゃない。私は私。今の状況が良いなら、無理をして同じにしなければいいんです」
一般に心理学者としては分裂した人格は統一しなければならない。そして一つの人格に引っ張られてはいけない。それが解離性同一性障害の人間に対する研究者の正しいありかただとされる。だが景子はちょっと違う考えを持っているかもしれないと雅は思っていた。だから話した。
「先生、私は本当に解離性同一性障害なんでしょうか?と雅は聞いた。
「どういうこと?」と景子は形の良い眉をひそめた。
「まずマサは男。私は女」
「交代人格が違う性別であることは稀ではない。研究報告では、約3割にそうしたケースがあると言われている」
「でも、その交代が異常です。ちょっと私も本を読みましたが、私たちのような、なんかマンガみたいな交代はあり得ない」
景子はじっと雅を見つめた。
「確かに、あなたがたは特殊よね。それが最大の謎であることは確か」
「また、私には解離を引き起こすトラウマがない」
「確かに、あなたがたに解離につながるトラウマ、例えば酷い虐待や事件の経験があるわけではない」
「先生が接する解離性の人と私は違うはずです。私の父母は死にましたが、私は順調に育ちました。障害になるようなトラウマの経験はありません」
「確かに、でも、一方こうも言える。あなたがたの現象を解離性同一性障害としてしか今は言えない。そう解釈するしか無いのね、今の医学では」
私の存在か、確かに特殊だ。私はわたしであり、わたしではない。言葉遊びや哲学では無い。文字通り私は二つの存在なのだ。すなわち雅とマサ、雅は女、マサは男、また雅は夜の人格でマサは昼の人格なのだ。まるでジキルとハイドだ。景子が私を解離性同一性障害という理由がそれなのだ。だが、虐待などの酷いトラウマや経験が自分にはない、解離はそういう過酷な条件で起きるといわれるが、私にはそれが無い。しかしでは私のそれは一体何と名づけるのか答えは無い。景子は専門家だ。しかし迷っているのもわかる。
「人格の統一を図る。それが普通ね。でもあなたがたの存在は既成概念をはるかにこえたもの。それを解明するのが、私の仕事なのかもしれない。考えましょう」
景子はそう言って雅の目を見た。真っ直ぐな眼だ。景子は学者バカではない。若いし、多分、女だから、准教授(ちょっと前には助教授と言った)の地位も妬みの標的になるだろう。私のような者に関わっていること自体、変人だ。私に関わって何かにつながるのかいまいち分からない。悪い言い方をすると、私の祖父目当てと捉えられるだろう。まあ学者さんは変わった人が多いと言うが、景子が周囲から浮いているのは雅にもなんとなく分かる。女、若い、ただそれだけではない、景子は時に、人を容れない孤独な顔になる、なんとなくそう思う。
「マサ君はどう思っているのかしらね?」
この問いに雅は苦笑した。
「はっきりとしません。マサは不精者だから、あんまり難しく考えない。どうでも良いのかも」
基本的に雅とマサの場合、お互いのことを完全に分かっているわけでは無い。解離性における人格のありかたは様々だ。お互いを良く知っている部分もあれば、未知の部分もある。
「確かに、マサ君は今日が良ければいいって性格だからね。でもマサ君がそういう性格だということには意味がある」
「意味?」
「そう交代人格には必ず意味がある。他人にとっては意味のないことも意味があるの」
マサの性格か、確かに、改めて考えるべきかもしれない。自分自身を見つめるようにマサのことを。それが私に不利であっても逃げられない。だが、やはりマサは私ではない。
「まあ、ゆっくり考えましょう。あせってもしょうがない」
「はい、少し唐突だったんですね、この話」
景子は苦笑いをした。
「そうね、複雑なことが多いわね、あなたがたの場合」
「すいません」と雅が言うと、
「まあ、あやまるようなことではないわよ」
雅は結局、景子に荷物を背負わせたのかと思った。やはり私は疫病神なのかな。
しばらく二人は語らった。が、話の進展は無かった。雅はもう店に行く時間だと思った
「それじゃ、そろそろ失礼します」と雅は立ち上がった。
雅がドアを開けようとした時、景子が思い出したように言った。
「そうだ、夏生に言っておいて、今週の土曜日に店に行くから」
雅はうんと頷くとドアノブに手をかけた。そして研究室を出た。