序章
新宿ドリームステージーの新章ー聖戦ーです
日本の地図を見ると、日本、韓国、北朝鮮、中国に囲まれている海がある。いちおう日本では、この海を日本海と呼んでいるのだが、この日本海には二つの半島がある。ひとつは朝鮮半島、そしてもう一つが能登半島という、朝鮮半島よりはかなり小さい半島。なので朝鮮半島のように国家にはならず、日本の一部である、一見するとゴジラが口を開けた姿に似ているが、そのゴジラの口の中に小さな島がある。その名を能登島という、面白くもなんともない名の島だといったら、多分住民に石を投げられるかもしれない。
太平洋は夏の青が光り輝く。日本海は冬の冷たい風が銀色に光る。日本海側は、夏熱く、冬は厳寒のため、何か、人間の哀しさが、より深く感ぜられる地である。日本有数の豪雪地帯に生まれた田中角栄は「三国峠を吹っ飛ばせ、そうしたら、こんなに、日本海側には雪は降らない」と言ったそうである。本当に三国峠を吹っ飛ばすほどの破壊力が、日本の気候をどう変えるか興味はあるが、まずできないだろう。
今は十一月の夕闇、季節を顕す霙まじりの雨が横殴りに振っている浜辺に車いすに乗った少女が一人、激しくうねる荒波をきっと見据えたまま、ショートカットのやや浅黒い顔で爛爛と瞳を光らせていた。そして怪異なことに、少女の身体も車いすも全く濡れていなかった。横殴りに吹き付けてくる雨が少女の辺りを避けているかのような不思議な現象であった。
そして雨が上がり、遠く水平線がわずかに光ったとき、少女の車いすがゆっくりと前方に動いた。電動式の車いすのようで、動きは手で回転するよりはましだが、砂浜において動きが鈍くなるはずが、まったく動きが鈍くはならずに、スーと前に出る。そして最大の驚異が起こる。
わずかに潮がスーと引いた、その次にザーと波が二つに割れ、少女の足元に道らしきものが見えてくる。水の流れは次第に速くなってゆき、やがて少女の目の前に道らしきものが出現しつつある。能登島は七尾湾という湾内の島だから、陸地には近いが、こんな道ありえない、ありえないが、非常識の光景が少女の眼前で広がっている。
少女と言えば、まるで、それが、当たり前のように、現前の道を静かに進む。
やがて、水の壁が左右に出現し、その左右の壁の間を白い一本道が現れた。まるで旧約聖書のモーセが出現させたと言われる水の壁が現れたのだ。そして不思議なことに、先ほどまで夕であった空が澄み渡る夜空に変わり、星々が輝き、煌々とした満月が中天に現れて白い道を照らしている。その間、音は無し、これはひどく神々しい風景であった。
唇をキッと結び、両眼を炯々と輝かせ少女は道をまっすぐ行く。その顔にはただひとつの感情しか無いようだ。すなわち怒り。はたして少女は何を憎むのか、誰を恨むか、その怒りのエネルギーは可視化された炎ともいうべきで、少女の身体が、その劫火で輝きわたっていた。その怒りを証明するかのように彼女の口から洩れるのは「許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない」すなわち怨嗟の声である。果たして彼女は誰を許さないのかは分からないが。
白い道はどうやら、湾内の陸地近くに止まっている、黒い大型クルーザーに続いているようだった。
クルーザーの船内には黒人のたくましい男ともう一人、ダークスーツで白いシルクシャツの、グレーの髪、紅の唇に微笑みを湛えて、少女を見ている、一人の男性―美少年と言っても良いがー船内に居た。
「トキトウ・ヒトミ」と黒人が呟くと、美少年は軽く頷いた。そしてデッキに出ると、美少年は、近づきつつある、車いすの少女を迎えるように、右手をかざした。すると、少女の車いすがふわっと浮き上がり、ゆっくりクルーザーのデッキに乗った。
そして、海にできた白い道は静かに消えて行った。
「では、行こうか」とリョウは静かに言った。
時任瞳は、文字通り切れ長の眼を輝かせて頷いた。
大型クルーザーは静かにその場から離れ、湾外に向かって走り始めた。天に満月がきらびやかな瞳のようにその様子を照らしていた。
冬の気配を感じる風の音が聞こえるような気がする、そう美奈月優馬は思った。窓から見る風景はは十一月の終わり、つまり冬の始まりである。と同時にその年も後一か月もない。窓に紺の長着と灰色の羽織の老人が映っている。人生は矢の如し。だが自然は人間のこの儚げな感傷など嘲笑うように悠久の時を刻んでいる。
「渡月橋は、今人は渡っているだろうか」と優馬はつぶやいた。
外はやや強い冷風が吹いているようだ。ならば人の往来は少なかろう、読んで字のごとく渡月橋の満月にいたる空間は冷たく静かに冴えわたっているだろう。
和洋折衷の蘇芳色の壁につつまれた屋敷は、優馬の書斎の洋風の暖炉がちろちろと音をたてて、緋色の薪が部屋を照らしている。その部屋の明かりは暖炉の灯だけだった。
優馬はベージュのチェアの背もたれに身体を預け、目を瞑っている、が、眠ってはいなかった。ここのところ眠ってもすぐ目覚める。ふふ、儂も年老いたな。この枯れた老人をフィクサーよ、裏の総理とも言われはするが、そんなものは虚構に過ぎない。世の中の事象が誰か個人あるいは組織によって左右されるというのは、つまり陰謀論に過ぎない。世の中が、そんなに簡単なものだったら、儂ももっと楽だったのにな。人にとって他者とはつまり、面倒で、うまくいかない者なのだ。人間の他者とは、そうそう都合よくはできていない。何をするにも自分以外の人間の思惑、行動を考えてやらねば人は絶対動かない。断言する。人は一億を積まれても、そうそう簡単に動く動物ではない。平和は人の数だけあり、正義は人の数だけある。
優馬は立って、窓際に行って、外に流れる桂川を眺めた。この悠久の時を変わらず流れる川の何たる驚異。静かな川の流れの、波を見て、せせらぎに耳を傾けるとき、人間の何たる小ささを感じぜざるを得ない。
人間は他者にとって動かない、それは真実だ、だが、例外がある。暴力とセックスだ。一国の覇権を握るには暴力装置の独占とセックス管理が要諦になるのだ。要するに軍隊と売春産業の公営化である。売春は民間産業と思っている人に言うが、日本の売春産業は昭和三十一年の売春防止法以来、公権力のコントロール下にある。風営法が変わるたびに売春組織が変わる。つまり一例が店舗型からデリヘルである。
極端に言えば、この二つと、国家幻想のもと戸籍を創れば国家は成立する。まあ一番は宗教を利用することだな。
何を夢みたいなことをと思われるかもしれないが、日本の中で長らく国家間国家を実現し続けた組織がある。何か、ヤクザである。
簡単に言ってヤクザには国家が必要な要件を満たしている。暴力、セックス、そして国家幻想による疑似家族―疑似戸籍まで作っている。これが日本の権力者が近頃、ヤクザを絶滅しようと躍起なっている理由である。では今までは何故許していたかというと、政治家がヤクザの暴力性を必要としていたからだ。だがそういった蜜月はとうに過ぎている。それほど今の日本は権力が肥大しているからだ。どいつもこいつもファシズムの子供だ。
もう一つの疑似国家は宗教団体である。これは厄介である。戦前の日本は天皇制という宗教国家だったから、GHQが日本の宗教をずたずたにした。今国家に歯向かう宗教組織は無い。
ヨーロッパには共産党があるが、ソ連が崩壊してからは問題にならない。日本の共産党は良くも悪くも、もはや共産主義ではない。
だから、日本がファシズムを突っ走るなら、リアルな共同体をぶつけるほかない。国家特区の形成だ、今の日本が絶対ではないことを見せてやる必要がある。
優馬は苦笑した。いかに今の日本が腐っているからと言って、国家幻想を思うなど儂も、今の日本に絶望しすぎて、他愛のない夢を見る。
その時声がした。
「それほど他愛無くはないですよ」
何! と振り向くと、暖炉の傍に、人が立っていた。黒いスーツ、白のワイシャツに髪はグレー、まさに美貌に輝く美少年。どこから入ってきたか分からない、ふん、まるで幽霊だな。だがもう九十歳も超えればたいていのことには驚かない
「ふん、お前。リョウとか言ったな」
「おや、覚えていてくれて光栄です、美奈月優馬さん」
「何のようだ?」
「美奈月さん、怒っているようですね」
ほう、と優馬はリョウを見直した。
「お前さんテレパシーでも使うのか」
リョウは笑って首を横に振る。
「テレパシーなどつかわなくとも分かります。あなたが今の日本に絶望していることは」
「うん、まあ否定はせんがな」
「言うまでも無いが、あなたには時間が無い。残念なことに、理想も夢も権力もなくなる。死は人間にとっては絶望だ」
「ほう、ずいぶん客観的だな。まるで自分は死から逃れているようだな」
ぞくっとするほど凄い笑みを浮かべてリョウは言った・
「僕は、この世界の可能性の幅だけ存在し得る者」
「それは永久ということか」
「そうではない、僕はあくまで人間意識にだけ存在する」
「つまり人間が存在する限りお前は存在できるということか?」
「僕にも限界がある」
「どんな限界だ?」
「この世界は無数に存在する確率の世界の中のただ一つの世界だ」
「パラレルワールドか、もっとも難しいことは分からんが」
「その解釈で良いと思う。ではこの世界が崩壊すると言ったら?」
「どういうことかな」
「この世界はパラレルワールドで最も劣悪な世界だ。実際いつ滅んでもおかしくは無いだろう。これは同意するのではないか、あなたも」
「そうだな」
「では、あなたはどうする残りの時間を」
「……」
「新しい国を創るのではなかったのか?」
「それは…」
「否定しないのは、まんざらでもなさそうだ。ならば言う、それは実現可能性がある。ただし」
「ただし?」
「僕が力を貸せば実現可能性が高いということ」
「小僧、すごい自信だな」
「自信ではない事実だ。美奈月優馬、時間はあまり残されてはいない。あなたにとっての未来の一瞬一瞬が極めて貴重なものになる。それを亡国の老人として生きるなら、それもいいだろう。だが、そうでないなら」
「そうでないなら」
「一人の少女をあなたのもとに行かせる」
「少女とは」
「ふふ、雅が普通ならざるものと同じに、その娘もまた異形の者」
「……」
「いい返事を期待している」
そしてリョウの気配は途絶えた。
優馬が再び窓を見ると、そこにやや瘦せた、白髪の丸眼鏡の老人が映っていた。
優馬はつぶやいた「亡国の老人か」




