迷える子羊に
雅がその画面を見たのは、新宿駅東口を出て、紀伊国屋に行くために新宿通りを歩いている途中だった。真向かいの新宿アルタを横目に見た時だった。時は午後七時、新宿が騒がしくなり始める刻だ。
その瞬間、人々が固まった。その空間と時間に動いているのは、雅だけだった。
何が起きているのか、分かないまま、雅はアルタの画面が光り輝いているのを見た。
そして、光の中に人影が浮かんだ。その人物が、光の中から現れ出るのを見た時、雅は思わず、息を飲んだ。そして呟いた。
「リョウ」
次の瞬間、リョウの声が放たれた。「迷える子羊に告ぐ」と。
大型の光り輝くスクリーンに、黒のダークスーツ、シルクのホワイトシャツのリョウは続けて行った。
「君たちは皆、彷徨う者だ。まずは愛する人を失い、その死が自殺であった故に、故人と一番近しい故に痛切に自己責任を感じている者よ、君は偽善者だ。人は所詮一人、孤独に耐えて生きるのは当然、自殺は、唯一、人が持つ生の自由意志だ。人は死ぬ権利を本来的に持っている。これは他人に干渉されない自己権利なのだ。それを理解することなく嘆くのは、悲劇ではない喜劇の範疇だ。僕の言う事に反論するなら、それを証明しろ。今また、君の気持の悪い友が悲劇の中に突き進んでいる、これを止められるものなら止めてみせろ」
これは! いったい誰の事か分からない。ただ誰かに向かって言っているのだと思う。
「また、己に絶対の力を持つという根拠なき自信を持っていたものよ、自らの弱さに打ちのめされた者よ。お前は本当に強いのか、ただ少しばかりの器用さと運の良さで、お前は勝ってきたのではないか。その証拠に、強き者にひれ伏したとき、お前は完全に自分を見失ったではないか。お前はオリバーに負けた。この事実は消しようがない。お前は弱虫だ。臆病者だ。そうでないと言うなら、それを証明してみるが良い」
オリバーに負けた! それはマックスの事ではないか。
「自らが自らではなく、他者になりうる者よ、僕が、お前に教えてやる。お前がお前の正体を教えてやる」
これは私の事だ。改めて何が言いたい、リョウ。
「僕は意志の弱い人間を捉えた。彼もまた自分の弱さに打ちのめされている人間だ。君も見たはずだ。そいつを。また君は見たはずだ。鬼人のごとき人魚が愚かな人間たちを殺すさまを、僕はそこに居る。来たれ、僕の所へ」
これは、意志の弱い人間、人魚ということは時任三郎?
「来れば、君自身の正体を教えてやる。君の持って生まれた所以を教えてやる。
次の満月の夜。零時に皆、来るが良い、さあ、あなたは、成すべきこと成しなさい。そうすれば僕のいる場所は分かるだろう」
リョウはそう言うと、再び光の中に消えた。
雅は呆然としていたが、一瞬にして世界は元の新宿通りに変わった。老若男女が笑いながら、むっつり黙りながら、街を歩いてゆく、平凡な日常を取り戻した。
その日の夜、ドリームステージに三人の女が集っていた。雅、景子、そしてマックスだ、マックスは相変わらず酒をかなり飲んでいたが、へべれけではなかった。
「雅、あんたはアルタのスクリーンに、あれを見たのね」と景子が聞いてきた。かなり難しい顔をして形の良い眉をひそめている。雅はうんと頷いて答えた。
「はい」とそして、
「先生は」と聞いた。
「私は研究室のテレビでよ」と景子が答えた。
「研究室で先生のほかに、あれを視た人は?」
「いない」
私と同じだと雅は思った。
「マックス、あんたは?」と景子が聞いた。
マックスは黙って、オンザロックを飲んでいる。
景子がきらり目を光らせた。
「あんた、いったい何時まで、そうやっていじけているわけ?」
マックスは景子を見ずに言った。
「別に、いじけているわけじゃないよ」
「なら、しゃんとしなさい! もう、駄々をこねている場合じゃない」
「……」マックスは黙った。
「マックス、見たわよね、あれ、あんたのことでしょ。認めなさい! どこで見た?」
雅は景子が、今まで見たことのない怖い顔になっていると思った。
「うちのテレビだよ」
「あれは、あんたの事よね。オリバーに負けたあんたのことよね」
「ああ、でも他の事は分からない」
景子は雅に振り向いた。
「あんたのことも言っていたよね」
雅は頷いた。
「はい、ならば、リョウは先生のことも指していたのですか」
「ええ、そう」
「それは一番初めにリョウが口にしたことですか」
「そうね」
「詳しく話してくれませんか」
雅の指摘に景子は答えた。
「私の答えは三つ、私に何があったか、私は何をしたか、私は今何を知っているか。
一つ目は、学生時代に、恋人に死なれた。彼は自殺だった。多分二人は知らないと思うけど。ドクターシアンのクリニック事件という結構世間を騒がした事件があった」
その時、声がした。
「十二年前の事件だ」
いつのまにかシンがカウンターの中に立っていた。
「天下のT大の大スキャンダルだ。T大の若き薬剤研究者が、研究室にあったシアン化カリウム、通称青酸カリを私的に流用した。そして、その流用した青酸カリが自殺志願者に渡った」
雅は問うた。
「自殺志願者に何故、そんなものを?」
景子がシンを手で制していった。
「そのあとは、私が話す。ドクターシアンこと草薙健二は、自らの自己破壊衝動を抑えるために青酸カリをもち歩いていた。これさえあれば、いつでも死ねる。ならばいつ死んでもいい、だから今死ななない、この永遠の執行猶予を得た彼は、自分と同じく自殺願望を有する他者も、このロジックに従うだろうと思った。だから青酸カリを彼らに配った。
だが、残念ながら他者は自己ではないから他者なの。だから彼の思惑を超えた人間が出た。その十六歳の少女は、まさに草薙健二が渡した青酸カリで死んだ。彼のロジックは意味を失った。そして草薙健二も自殺した。これが何があったかの説明。
二番目に私は何をしたか、私は恋人の死を受けて、何もかも放棄した。薬学部も辞めた、大学も辞めた。だが、ある一冊の歌集が私を救ってくれた。そして心理学を学ぶために大学に帰った。これが十二年前の私がしたこと。
そして三番目の私が知っている事とは、リョウが教えてくれた、草薙健二は何故自殺したのか。彼の自殺の本当のことは何なのか、リョウが見せてくれた、彼の自殺にいたる道を見て、私は得心した。彼は、十六歳の少女の自殺を最終的に肯定した。そして少女の死に報いるに自分の死を持って報いた。彼は言った、人間には死ぬ権利を正当に有すると、人間は自殺の権利があると彼は言った。そして、いま、私の知る者が青酸カリと同質のものを持っている。青酸カリは人を殺すものであり自己も殺すもの、それと同じものを持って破滅に向かって突き進もうとしている」
景子は、一気喋って疲れたのか、ここでいったん止まって、皆を見回した。雅は破滅に進む人間とは誰か分かった、そして口にした。
「破滅に進む者、それはママ」
うんと頷いた景子は言った。
「私は、夏生のお父さんに聞いたことがある。夏生の剣の才能は自分より上だと、夏生のお父さんは言っていた。しかし、その才能は通常の観念では捉えられないもの、異能だと言っていた。そして一番恐ろしいのが、橘の家に伝わる日本刀、村正だと。それなら、村正を捨てればと思うけど、四百年間伝わった刀を捨てるのもできないわけね。だから夏生を家から遠ざけたと言っていた。それが今、夏生はそれを取った。だから、夏生は破滅に向かっているのかも知れない。ただ私が分からないのは何故夏生が、今村正を取ったか」
雅はシンに顔を向けるとシンは頷いた。雅は一歩前に出た。
「それについては私が話します。ママは負けたんです。ママの影に、そして多分リョウに」
雅は鬼王神社であったことを全て話した。景子は腕組をしてじっと聞いていた。そして顔がますます引き締まってきて、怖いを過ぎて、鬼女の面ごとき顔に変わっていった。こうなったら女は怖い。その怖い顔で景子は得心したように言った
「これで繋がった。つまり、その黒の夏生に勝つために夏生は村正を取ったわけね」
雅は頷いた。
「はい、そう思います。ただ、あの黒の夏生はママの影、ダークな面がそのまま人間の形をとっていたようなものだと思います」
「そして黒の夏生を創ったのはリョウということ」
「はい。でももう一つ私が知っていることがあります」
「それは何」
「佐奈さんのことです」
雅の言葉にマックスが、グラスを置いて、雅を見た。
「私のこと?」
「ええ」
「何の事?」
「実は、あの日、佐奈さんがオリバーと闘った、あの闘技場でリョウを見たんです」
「待って、リョウと言うのは誰、私知らないんだけど」
「私もはっきりしないんですけど、佐奈さんも見たはずの画面に現れた美少年がリョウです。そして簡単に言えば、佐奈さんの知らない、私の秘密を知っている謎の人物」
「ふーん、まあ私は他人の秘密には関心が無いけど、そのリョウが私が負けた試合を見ていた。そして景子先生にも関わりがあるということね」
景子が「結局」と呟いた。
「結局、リョウはマックスにも関わっていた。そういうことね、でどうする。マックス」
「私は難しいことは分からない。でも、自分が今どういう状態かも分かる。残念ながらリョウとかいうやつの言うとおりね。確かに私には乗り越えなければならない壁がある。それが何であるかは分かっているつもり」
景子はうんと頷いた。
「私は夏生を止めることが私の役割だと思う。でももう一人いるわよね、意志の弱い人間が、人魚がどうとか言っていたわね」
雅がそれに答えた。
「それは時任三郎さんのことと思います」
「何故?」と景子に雅は花園神社のテント、そして熊野神社での出来事を全て話した。
「なるほどね、それを知っていたリョウ。ここで三郎もリョウと繋がった。もっとも三郎は居場所が分からないけどね」
雅は当惑していた。リョウの言っていることが私も指していることは明らかだ。だが、私が何であるか、私にも分からないことを、どうしてリョウは分かっているというのか、そして何より、それを知ることが恐い。すると黙っていたシンが口を開いた。
「人間は、矛盾と問題に満ちている。生きることにおいては避けられないことだ。
だが、全ての矛盾や問題は、自分とは何かということに収斂される。人間には三つの自己がある。自分が認識する自己、他人が見る自己、そして本当の自分だ。自分探しと言うのは結局一生つきまとう問題なのだ。
ではリョウとは何か、実はリョウは僕と深く関わっているはずだ。だから、僕とあなた方も深く関わっているんだ」
 




