黒の夏生
雅は、いつものように、ドリームステージで、水割りを作っていた。三郎は、あの日以来、姿を見せてはいない。夏生は所用で留守をしていて、店にはシンと二人きりである。
客はマックス一人だった。マックスは、あの試合以来、酒浸りだった。どうやら毎夜、はしごして、最後にドリームステージに来るようだ。だが、その様子は、マイペースで自信たっぷりの彼女とは、まるで別人だ。夏生は、あんまり話しかけない方が良いと言った。
「あの、負けは相当ダメージが大きい。特にメンタルに」と言った。
雅には、よく分からないが、どうやらマサは理解しているようだ。おおざっぱに分かる。すなわち、マサが言いたいこととは、
格闘家やスポーツ選手、まとめてアスリートと言おう。彼らは必ず、かつて持っていた力を失う。一般人も若かったころの力は年を重ねれば徐々に当然なくなる。だが、アスリートは力の限界というものを一般人より痛烈に感じるに違いない。つまり、百六十Kの速球を投げるピッチャー。百メートルを誰よりも速く走れるランナー、何度も世界のベルトの防衛を重ねるボクサー。などなどは、それは常人には感じることのできない最高の気分を得ることだろう。だが彼らは、いずれ、その力を失う。そんなのは十年と持たない。人間の年齢の壁が聳え立つ。そして彼らは引退する。その時に多分、彼らは常人よりも遥かに、人間の限界というものを実感するに違いない。
だが、まだその道を全うできるアスリートは幸福だ。全てのアスリートで、もっとも不幸な事態は、自分が全盛期に、完膚なき敗北を喫することだ。自分の力を信じ、なおかつ他者も認める力を持ちながら、完全に敗北した時、その挫折は体力よりは精神を破壊する。つまり心を折られるということだ。ここから復活するのは、そうたやすいことではない。そういう運命で、幾多のアスリートが、敗北していったことか。いつのまにか忘れ去られた人々が過去に幾人いたことだろう。
マックスは負けた。格闘家として充分な素質と努力で、強い力を持ち、今が絶頂期であるはずが、ガチンコで、マジで負けた。オリバー・ジョンソンに完膚なきまでに負けた。大怪我をした様子はないから、肉体的に再び闘うことは可能であろう。しかし、闘おうとすれば、否が応でも、オリバーに負けた自分を思い出すことになる。
マサの考えはそういうことらしい。
また夏生は。あの試合の後、立つことができず、複数の人間に抱えられて出て行くマックスを見ながら言った。
「マックスはオリバーを越えなければ、二度と誰とも、闘えないかもしれない。そういう闘いをした。もっと、どこかを修正すれば勝てたという試合じゃない。でも、この地下格闘技場は、敗者にひどく冷たそうだね」
つまり、マックスは夏生の見立てでは、オリバーと再戦はできないということか。とすればマックスはどうなるか。
景子も難しい顔になっていた。
「自信満々の人間が一度、挫折すると、案外弱いのは自明の理、それにしても夏生の眼ではマックスは、そんなにショックを受けたと見るの? そんなに完敗なの」
夏生は黙って頷いた。
マックスはただ酒である。金を払う間もなく、へべれけで眠ってしまうからだ。夏生が「後で、まとめて払わせる」と言った。また夏生は「店に来たら外に出さないで。最後はあたしが見張っているから」とも言った。確かに、この酔っ払いが暴れでもしたら、歌舞伎町交番が即出動だろう。だが、ここに来るまでに暴れたたら、どうしようもないが、今のところ、そういう様子はない。だから雅はマックスから目を離さなかったが、それ以上にシンがずいぶんと熱心にマックスの様子を見て、さりげなく、他の客から離している。それが雅には引っかかっていた。なんだろう、シンはマックスが好き? まさか。
その時、店の電話が鳴った。
「雅」と夏生の声がした。
「急いで、私の仕込み刀を持って、神社の前まで来て」
夏生の言葉に雅は戸惑った。仕込み刀をどうするつもりだろう。まさか人を斬る気じゃ。
「ママ、どういうこと」
「持ってくれば、分かる。だから速く」
訳の分からない話だが、とにかく、言われたとおりにするか、だが仕込み刀で何をするのか、まさかヤクザなどを斬るつもりか、そうしたら、全力で止めると雅は思い、とりあえず言った。
「分かった、とりあえず行きます」
「急いで」と夏生が言うのを聞いて受話器を置いた。
「ちょっと出てくる」とシンに声を掛けると、シンは黙って頷き、何も聞いてこなかった。もう少しリアクションがあっても良さそうな場面ではあるが、シンの眼は何ものにも動じない、ゆるぎない瞳をしていた。シンが動ずるとすれば、どんな事態だろうと、関係ないことを思いつつ、仕込み刀を携えて、雅は店を出たのだ。
神社というのは、ドリームステージに隣接する鬼王神社のことであろう。とすれば、
1階にエレベーターが着けば、ほんの僅かの距離である。
雅がビルを出るとすぐに神社の前に夏生が、白い長袖シャツと黒いパンツ姿で待っていた。
「ママ」と声を掛けると、
「しっ!」と夏生が唇にひとさし指を立てながら、神社の鳥居の暗闇をうかがう。
雅も、境内の暗闇の中を目を凝らしてみる。すると三、四人の人間が蠢いている。耳をそばだてると、かすかに「ヒー」というような声が聞こえる。
「あれは、何ですか」と雅が声をひそめて聞くと、
「レイプよ」
「え!」
「うん、間違いない、男が四人くらい女を囲んでいる。景子が言っていたように、どうやらこの街は物騒なことになっているようね」
「じゃ、警察に」
雅が、そう言うと、夏生は首を横に振った。
「今、警察を呼んでも時間がかかるし、大騒ぎになって、女の子が傷つく。あいつらはまだ目的を果たしてない。やるなら今のうち」
「じゃ、私も」と雅が言うと、夏生は再び首を横に振った。
「あんたは、ここに居て、誰も境内に入れないで」
「じゃ、ママが一人で?」
夏生は不敵な笑みを浮かべた。
「あたしが片を付ける。刀を頂戴」
夏生は仕込み刀を握ると、すーとすり足で、音もなく境内の中に入って行った。
そして、ほんの何十秒か後に「ぐえっ」とか「うえ!」と声が聞こえ、次に慌ててズボンを片手で、ずり上げながら、よろよろと男たちが雅の眼前を通り過ぎた。雅はそれを確認すると境内に入った。
すると夏生が、刃を鞘に納めるところだった。傍らに上体だけを起こし、ぶるぶると震えている女が見えた。多分、水商売だろう、赤い派手な、短いスカートがめくりあげられている。
「あんた、もう大丈夫だよ」と夏生が声を掛けると、女は慌てて、スカートを直し、
震えながら夏生を見あげる。
「いいから、こんなところ、早いとこ出て行きな」
夏生の言葉に、無言で頭を下げると、女は小走りに、鳥居の外に出て行った。
「ママ、どうやったんですか」と雅が聞くと、
「あいつらの肩か、鎖骨を砕いてやった。峰打ちにね」と笑いながら夏生が答える。
それなら、死に関わる怪我ではない。だが明らかに人間の運動能力を奪う。それを瞬時にやってのけたとは、すごい腕だなと雅は感心した。が、その時、どこかで聞いたような音がした。
「パチパチ」
それは乾いた拍手の音だった。そして、暗い空間から夏生と雅の前に、謎の美少年、リョウが忽然と現れた。
「あなた」と雅は目を瞠って、呟いた。どこからリョウが出てきたのか、さっぱり分からなかった。マサが会った時と同じだ。
「あんた誰?」と夏生がきれいな眉をひそめて問うと、
「それは雅さんが、よーく知っていますよ」とリョウが静かに答えるが、雅はえっと思った。リョウは私に会ってないはず。会ったのはマサだ。私はリョウの見えるはずのない空間、それは亜空間ともいうべき場所にいたのだ。
「リョウ」と雅がぼそっと呟くと、
「あんたがリョウ、あんた、いきなり現れて何! ストーカーか」と、夏生は畏れることなく、言い放つ。これは、やはり夏生が武道家ということだ。いかなる場面にも動じない、悪く言えば鈍感とも言えるが。武道家は、技には繊細だが、ものの考え方がシンプルという事だ。
「今日は雅さんは関係ない。ぼくは夏生さんに興味があるんだ」とリョウは微笑みながら夏生を、その切れ長の瞳で見据えた。
「あたし?」
「そうです。だから雅さんは引っ込んでいてください」
雅は何! と思った。こいつ私を馬鹿にするのか。雅は身構えた。が、リョウは左手を上げて雅を制止した。
「僕に念動力は通用しない。君の力は僕には無力だ」
雅は思わず、リョウに向かって、一歩踏み出した。が、夏生が雅の前に出て、それを制した。
「こいつは私に用があるらしいから、あんたは引っ込んでいて、あんた初めから私が目的のようね、強姦まがいで私を吊った」
「夏生さん、物分かりが良いですね、さすがだ」
「あなたは何者?」
「ぼくが何者かは、いずれ分かる。しかし」
「しかし?」
夏生の問いに、リョウはふと笑みから真顔になった。すると、世界が暗転した。神社も繁華街も消えた。そして数秒後、ポッと赤い炎が一つ点った。それは、確かに赤い宝珠と灰色の笠、台の灯籠の炎が揺れていた。それが一つ、二つ、三つと、次々に点ってゆく。そして灯篭の明かりの中に、まさに都会の片隅の、新宿の全体から見れば猫の額くらいの小さな場所に過ぎなかった鬼王神社が。突如、大きな、例えれば花園神社よりもやや大きな空間へと転移した。鳥居も大きい、境内も広い。拝殿もまた。
「現実の鬼王神社だと、ちょっと狭い。なので、闘いに相応しい空間を用意しました」
リョウは再び冷笑を湛えると言った。
「闘いって何?」と夏生が怪訝な顔をして問いを発した。そして仕込み刀の束を握りしめている。もはや戦闘態勢だ。だが、リョウも凛として声を放った。
「あなたと闘うやつはこいつだ!」
すると、現実よりも大きく姿を変えた拝殿の扉がバン! と大きく開き、その中から凄いスピードで、夏生にせまる影があった。そいつはまっすぐ夏生に向かってゆく。
夏生は後ろ足で後退しながら、刀身を抜いた。
「ちいいいいいいいいいいいい!」と夏生は咆哮を上げると、白刃を振り回した。キイーン! と金属音がすると同時に、夏生は大きく、後ろに刀を構えたまま、飛んだ。
夏生は肩を、やや震わせ夏生は刀を正眼に構えた。その瞳の中に燃え滾る炎があった。そしてその目の先にいる者、雅はそのすべてを見て、驚愕ぜざるを得なかった。何故なら、夏生が相対しているのは夏生自身だったからだ。だが、そいつは黒い顔の黒の小袖に同じく黒い陣羽織をはおり、また黒い袴をはいた、まさしく黒の夏生。そいつも同じく正眼。
夏生も戸惑っているには違いないが、毛ほどの迷いは、その顔に無かった。
夏生は正眼のまま、じりじりと少しずつ、黒の夏生との距離を縮めつつある。黒い夏生の顔と言えば、確かに夏生のものだが、ひどく冷めた、そして何か非現実的な相貌をしていて、現実離れした幽霊の様だ。こいつ、本当に人間かと雅は思った。非現実的な空間と非現実的な存在。だが刀を交えたのは、まさに見たとおりだった。この空間は嫌がおうでも、中央公園の十二社熊野神社を思い出す。この鬼王神社も異界に転じた。いったい私の周りで不思議なことが起こるのは何故だろう。自分が不思議な存在だから、この現象がおこるのか、私は何?
すると、両者に動きがあった。夏生の剣がすっと僅かに後方に引かれた。前に出していた右足を後方に引いたからだ。が、次の瞬間、左足をどんと地を蹴って、夏生の身体が、一直線に刃とともに黒の夏生に飛んで行く。それは凄まじいまでの速さの突きだった。夏生はこんなに凄いのかと雅は目を瞠った。が、一瞬間でもっと驚いた。一閃の突きに、黒の夏生は動いた。そして驚いたことに、黒の夏生もまた、凄い速さの突きを繰り出したのだ。
「ガツンッ」と鈍い音がした。そして二人の相対した刃が一直線になっている。つまり夏生の怒涛の突きに、黒の夏生も突きで迎え撃った。結果、なんとお互いの僅かな幅の切っ先がぶつかり合って、一直線になったのだ。こんな非常識なこと、あるのか。
夏生は素早く、後方に飛んで正眼に構え直し、唸った。
「化け物ね」
だが次に夏生は唇を舐めて、凄い笑みを浮かべた。
「面白い、化け物相手は、私の得意。私は幽霊を斬ったこともある」
この場面で、このセリフ。夏生も十分化け物だ。
夏生はゆっくり上段に刀を構えた。
真剣同士の闘いは、一合か二合で決せられる場合が多い。日本刀は達人が使えば、一振りで竹を切り飛ばすことが出来る武器である。突きも一突きで人間の肉体を貫く。
だから、勝負は一瞬先を呼んだもの勝ちである。そして勝ちは生、負けは死である。
だが、これは黒の夏生が刀でどうこうできたらの話だ。だが、夏生は自信満々の顔だ。
やはり言う通り、化け物相手は得意なのか。
すーと夏生が、上段のまま、すり足で前に出た。その瞬間、黒の夏生も上段に構えた。黒の夏生の刀は上段だが、その刃はまっすぐ一直線に中空に向かって突き立っている。夏生の刀は後ろに傾いて、真正面からは見づらいだろう。だが、これだと黒の夏生の刀のほうが振り下ろしやすい。一瞬、二人の動きが止まったが、夏生がすーと音もなく、一気に前に出た。
前に出た夏生、迎え撃つ黒の夏生。
すると、夏生が刀を振りかぶった姿勢のまま、くるり前方回転した。風車のように刀が黒の夏生に襲い掛かる。
だが、黒の夏生は垂直に立った刀を振り下ろすことなく、それを真横に構え、風車の刀を迎え撃った。
「キーン」と金属音がして、二つの刀が交錯した。夏生の刀は真直ぐ、黒の夏生の刀は横向きに交わった。すると夏生は素早くしゃがみこみ、交わった両の刀の交錯部分を支点にして、刀の柄をくるりと前方にせり出し、黒の夏生の顔にその束をぶつけようとした。黒の夏生の刀は横向きだから、これは、いわば束のアッパーカットのような攻撃だ。夏生はこれを狙っていたのだ。柄が黒の夏生を捉えようとした瞬間、その体が真後ろに湾曲した。柄は間一髪、その顎を捉えることはできなかった。仰向けに曲がった体が、再びせりあがってくる。白刃とともに。その白刃は上段に構えられていた。これも信じられない体さばきだ。だが、わずかにスピードが足らなかった。夏生が持った刀が、それを受け取るためには十分な時間だ。キーンと金属音が高鳴って、今度は夏生の刀が真横になった。だが、一瞬の後、夏生は膝を曲げて下方に沈んだ。そして、膝のばねを使って、思いっきり地を蹴って黒の夏生の刀を跳ね返したのである。黒の夏生の刀の束が、今度は夏生に向かってくるのを回避したのだ。
再び、対峙する両者。
夏生は刀を立てた。そして右手で右耳の近くまで刀の鍔を上げて行った。左腕はや
や斜め上に伸ばされ、左足を前に出した。野球の打者の構えに似ている。八相の構えである。八相の構えは、戦場において、周りが敵だらけの時に、有効な構えである。
戦場において、上段や中段は後方の敵に対し防御ががら空きだからである。だが、今は対峙するのは、真正面の相手のみ。だから夏生の構えは理には適っていない。
これらの知識は、見ている雅の知識ではない。マサの知識だ。何故とは分からぬが、まるで雅の頭の中に実況中継のようにマサの知識が入ってくる。
夏生は八相、黒の夏生と言えば、上段からすっと刀を中段に下し、さらに水平に回転させ、刃を背中に隠した。左足が前に出ており、正面から見たら、右脇腹のあたりに刀の束の頭が見えるだけである。これを脇構えという。これは刀の存在を隠すが、今の場合、何を持っているのかわかっているから刃を隠しても意味が無い。脇構えは得物が何か、長さがどれくらいか分からない場合に有効だからだ。攻撃にしても、遠心力を利用して、水平に振ってくるに違いない。しかし、そんな単純な話か。今までの動きを見て、簡単に読める展開ではない。さて、どうなるか。
ここで初めて、黒の夏生が先に動いた。脇構えのままスースーと前に出る。夏生は一歩下がって、距離を取ろうとする。前に出る黒の夏生、下がる夏生、が、下がる夏生がドンと灯篭にぶつかった。揺れる炎、次の瞬間、ゆらり揺れる光を背にして、夏生は後ろ足を飛ばして灯篭の台の上に乗った。そして大きく空に舞った。夏生は宙空から、黒の夏生に八相の刀を野球の素振りのように、叩きつけた。するとガツン!と鈍い音がした。そして刀が宙を舞った。
何が起こったか、雅は目に焼き付けた。すなわち、振り下ろされた夏生の刀が、黒の夏生の刀の束に跳ね飛ばされたのだ。何故、そんなことが起こったのか、雅の眼には黒の夏生の束がぐうと長く伸びたように見えたのだ。それが夏生の刀を跳ね飛ばしたのだ。一瞬では何が起こったか分からなかったが、黒の夏生を見て分かった。黒の夏生の両手は刀の束ではなく、刀身を握っていた。つまり、束から刀身に手を滑らせて、束の部分を前に出したのだ。つまり間合いを詰めた、それが、夏生の刀を跳ね飛ばした。黒の夏生の手から血がしたたり落ちている。
黒の夏生はそのまま刀を上段に構える。握り返したら夏生が素早く刀を拾うだろう。だから黒の夏生は刃を握ったままということか。夏生は素手のまま、中腰になり右手をやや前に出して構える。これは夏生が不利か。
黒の夏生が、ぐっと前に出る。夏生が素手の今、勝機と見たか。滴る血流で真っ赤な手で刃を振りかぶった。
危機一髪の状態で、夏生は平然と構える。迫りくる黒の夏生の刀が血に塗れて赤く光った。ぎらり一閃の刀が、夏生に向かって、振り下ろされた。
夏生の頭を真っ二つと思われた瞬間、夏生の両の手が真剣を挟んだ。その刃は夏生の頭上で止まった。真剣白刃取りだ。本当にこんなことを、やってのける人間が居るのかと雅は驚愕したが、次の一手は何か、
黒の夏生は刀身を握ったままの血塗られた手で刀を全力で握っている。このままでは、その手が真剣の刃でちぎれるかもしれない。夏生もまた、手の握力が弱まれば、たちまちに頭を斬り裂かれるだろう。
赤い灯籠が、ぼうと、ゆらゆら揺れる空間の中で、生死を分ける闘いも終点を迎えていた。果たして、どちらの力が勝るか、どちらの力が屈するのか。
その時、黒の夏生が一歩前に出た。そして、膝を折って身を低くすると「えい!」と気合を発した。そして夏生の手と刃が交錯する点を支点にして刀をくるり回転させた。つまり刀の束を下から夏生の顔をめがけて、アッパーカットのようにぶつけてきたのだ。これは先ほど、夏生がやろうとした手だ。束はぐるり下から迫ってゆく。ハッと夏生が刀を離した、が、僅かに遅れた。ガツンと鈍い音がして、刀の束は夏生の顎に激突した。夏生は、一瞬目を瞠ったが、顎を捉えた打突で後方にのけぞり、身体が地に伏してゆく。まさにボクシングのKOシーンのように意識が失って行くようだ、夏生は仰向けになって、地に落ちていった。
空間は、しんと静まり返っている。
雅は黒の夏生を凝視した。これ以上何かをするなら、私が相手だ。雅は身構えた。
「あなたは、引いていてくださいと言ったはずです」
いったい、闘いの最中、どこに居たのか、さっぱり見えなかったリョウが、すっくと立っていた。
何! と睨みつける雅にリョウは手を上げて、紅い唇に笑みを湛えて言った。
「勝負はついた。夏生さんの負けだと伝えてください」と踵を返して、リョウは鳥居から出ようとした。が、ふと立ち止まった。そして背中を向けたまま、こう言った。
「黒の夏生に勝ちたければ」と言葉を切った。雅は思わずオウム返しに問うた。
「勝ちたければ?」
リョウは静かに答えた。
「村正を取ることです」
村正? 何のことだ。
「そう夏生さんに伝えてください」
そう言うと、リョウは鳥居の向こう側に消えた。
すると、世界が一転した。
リョウも、黒の夏生も、広い神社境内も消えた。そして雅と倒れた夏生が居るのは、
新宿の地にひっそりと立つ、小さな神社、鬼王神社だった。
「ママ、大丈夫」と雅はドリームステージの厨房に据え付けられた長椅子に横たわる夏生に声を掛けた。鬼王神社に倒れたままの夏生をシンと一緒に店に運んだのである。
夏生はまだ眠ったままである。まああれだけの激闘だ。無理はないか。
傍らで、シンが立って夏生の顔を見ながら言った。
「何が、あった?」
雅が全てを話すと、シンはじっと聞いていた。その顔の表情は、まったく変わらないが、なにやら考えているようでもあった。何を考えている?
「シン」と雅が声を掛けると、
「何」とシンが顔を上げた。
「あなた、この前言ったよね」
「何を」とシンは静かに聞く。
「あなたはリョウを知っている、と言った」
「ああ」
雅はシンの眼を、その碧眼の眼をじっと見つめた。
「あなたは何を知っているの。リョウとは何者?」
その時、シンの碧眼が、すっと引っ込み、目が普通の黒色に変わった。すると何か、シンが少し人間らしい存在に見えてきた。
「リョウが何者か、全部分かっているわけでは無い。だが、あいつは確かに、僕とかかわりあう者だ。しかし、多分鍵は君だ」
「あたし」
「ああ」
「何のこと、さっぱり分からない」
するとシンはフッと笑った。何、リョウに似ている。
「まあいい。その内分かるさ。ところで」
「ところで?」
「君は、この世界をどう思う?」
唐突な質問だ。シンはさらに言った。
「この世界にあって、特異な存在である君にとって、この世界は、どう見える?」
私だって、生きている人間だ、と言いたいところだが、客観的にはとんでもない存在であることは間違いない。だが世界とは?
「唐突ね」
「聞いてみたかったんだ、前から。ある意味、それがとても重要なんだ」
雅は、少し考えてみた。
「私にとって、まずは、お爺ちゃんね」
「美那月優馬」
「そう、お爺ちゃんは、日本のドンとかいわれていてさ、お爺ちゃん自身も、儂は国士だなんて言っているわけ。そういう人から見ると、今の日本を、とても心配しているわけ。小さい頃から、そう言われてきたから」
「ドンは国士か、面白い。確かに肉親の思想は、未熟な若者にとっては、大きいだろう」
お前も若者だろうと心の中で突っ込んだが、口にしない。シンは、そういう普通の若者とは、確かに異なる。
「お爺ちゃんに言わせれば、自称、日本主義は共産主義よりもたちが悪い。日本がどういう文化を持っている国かを理解していない。だからサッカーごときで、他国に勝ったからと言って、日本が誇らしいなどと簡単に口にする。それが単に生まれた国がたまたま日本であること以上の意味を持ちはしないことに気が付かない、大馬鹿だ。自分が生まれた国がなんであるかは、ほんの出発点に過ぎない。そこにどんな歴史と文化があるのか、悪しき意味でも良い意味でも歴史と文化を理解すること。そこから日本文化とは何か、それを守る武士とは何か、己に真剣に問うたことがないから、様式を形だけを真似て悦に入る猿ばかりがはびこっている」
シンは笑った。
「手厳しいですね。それに口が悪い」
「私が、言ったんじゃない。お爺ちゃんよ」
シンは真顔になった。
「だが、真に自らを知る者が少なくなり。表層の知恵ともいうべきものがはびこっているのは確かだ。自らを知る者は他を良く知る者だ。偏狭なナショナリズムは仮面にすぎない」
「仮面?」
「そうだ、剥き出しになったエゴイズム。僕はそれを欲望と言おう。仮面の下は人間の欲望だ。この世界は、それが剥き出しでは、さすがに体裁が悪いほどに、進化したが、所詮、人間の欲望をコントロールできるまでには至っていない」
先ほどから、気になるワード、「この世界」。何かシンの、その言葉は冷たい、何か突き放したような言い方だ。さらにシンは続ける。
「資本主義とは身分制あるいは世襲制というくびきから解き放たれた人間が何を実行したかを示す歴史だ。そして、この世界は弱肉強食になった。強者とは、もっとも己の欲望に忠実な者どもだ。だが、それが破滅の一里塚と知らないでいる。そして欲望とは感情の範疇にすぎない。真の理性とは相いれないものだ」
「それは何となく分かる。でも私の周りには、あまりそういう強欲な人はいない。お爺ちゃんも、どっちかていうと、ドンのくせに、財産と言えば、あの家と土地だけ、いろいろ稼いだらしいけど、いろんなところに寄付したり、これっていう政治家につぎ込んだりして、自分の財産は少ないのよね。またママも旧家にしては財産は少ないらしい。大学も特待生で出ているし、ドリームステージも儲かっているとは言い難い。景子先生も所詮公務員だし、やっている研究も地味。マックスも、完全に格闘技馬鹿だし、三郎さんもフリーター見たいもん」
シンはうんと頷くと言った。
「君の周り、マサも含めて、皆そういう人間という事に意味がある」
「意味? どんな」
「はっきりは言えないが、共通項がある」
「何の共通項」
「皆、深刻な矛盾を抱えている」
「そんなの誰だって、そうじゃない?」
いやとシンは首を横に振った。
「彼らは、この世界にあって、いわゆるアーキタイプだと思う」
また出た、この世界、どういう意味なのか。雅はそう思ったが、口にはしなかった。
何故か、ためらわれた。多分、私はどこかで何かに気付いている。とんでもないことに。だから、躊躇する。だから聞いた。
「アーキタイプって何?」
「元型と言う意味だ。だが、僕が考えるのは、ユング等が唱えた元型とは少し違う」
ユングもあまり知らないし、それとは違うと言われても、困るが、
「難しいわね」
するとシンは、初めて苦笑いをした。おや人間らしい反応だ。
「すまない。ユングは忘れてくれ。僕が思うに君の周りに居る人間たちの問題を、突き詰めてゆくと、人間というか人類というものの本質が分かるのかもしれない」
「大げさね」
「君の周りには、この国の最大権力者の一人が居る、が、おかしなことに君の周りには美那月優馬以外は権力に最も遠い人たちだ。権力に遠いこと、これは重要だ」
「何故?」
「権力とは必要悪だ。本来無くても良いものだ。君の祖父は一番これを理解しているはずだ。だから人間の希望は権力から最も遠い人々にある。だが」
「だが?」
「その希望の人々が矛盾を抱えている。これは何かの示唆だと思う。抽象的ですまんが、ここまで僕が見てきて言えることは、これだけなんだ」
「人間の希望って、何?」
「突き詰めて言えば、それが愛なのか、怒りなのか」
そう言うと、シンは黙ってしまった。
すると夏生が「うーん」と唸って起き上がった
「ママ、大丈夫?」
「うーん、何があったんだけ」
「覚えてないんですか」
「うん、気持ち悪い、私と同じ顔をしたやつのことしか覚えてない」
おそらく夏生は激闘のショックで、一時的な記憶喪失なのだろう。
「リョウのことも、覚えてないですか?」
「……リョウ」
雅は仕方なく、ことのすべてを話した。
「あたしが負けた……」
やむをえず雅は頷いた。
「ええ」
「そして勝ちたければ村正を取れとリョウは言った」
「はい」
それっきり夏生は黙った。だが、その目に妖しい光が宿ったと思ったのは錯覚だろうか・「。
新宿の夜は更けてゆく。ドリームステージは、その夜、臨時休業の札を出した




