十二社熊野神社
さらに、三郎は都庁を過ぎ、眼前に広がるくらい林の中に入って行った。都庁の裏に位置する、この林は新宿中央公園だ。街灯がぽつり、ぽつり闇に浮かぶが、人の姿は見えない。この大都会の中にひっそりたたずむ森の闇は、しんと静まり返っていた。
そうして、人気のまったく途絶えた森を走るうち、眼前にひっそりと佇む、灰色の屋根の建物が見えてきた。すると三郎はふいに立ち止まった。何かを恐れたように、前方の建物を見ている。
雅は木の陰に隠れて三郎を見た。そして頭の中に新宿の地理を思い浮かべた。新宿中央公園にある、この方向にある、この大きな屋根は、確か、十二社熊野神社だ。つまり花園神社から、再び、二人は神社にたどり着いたのだ。
三郎は、しばらくじっとしていたが、灰色の建物にそって、ゆっくりと歩み始めて行った。道は緩い坂の下り道だ。そして、目の前に灰色の鳥居が見えてきた。まさに神社だ。三郎が鳥居をくぐり、境内に入って行ったのを、雅は鳥居の影に隠れて、見ていた。
真正面に、神殿の緩やかな曲線の屋根と、まるでキリスト教の十字架にも似た千木が空間に浮かんでいる。そして、その上に、まるで巨大な墓のように東京都庁のビルが夜空に聳え立っていた。
そして、ここまで、何物も、三郎と雅の前に現れなかった。中央公園に入ってからは、特に、ここが東京かと思うくらい、まるで深い山奥の森にでも入っていたように微かな音さえしない。世界は森閑としていた。
すると、一転、世界は深い闇に包まれた。夜なのだから、暗いのは当然だが、夜よりも、いっそう深い闇が出現した。雅は、今、この空間には三郎と自分しかいない、そう感じた。
そして、三郎の周りに、突然、ぽっと音がしたように灯りが六つ、点った。そして、六人の子供が現れて、三郎を大きな円で囲むように立っていた。子供は髪が短く、まるで深い洞穴のような目をしている。その体は蝋のように白かった。
「ヒーヒーヒー」と不快な音がした。どうやら、子供が発した笑い声の様だ。これはいったい何!
「おじさん」と一人が甲高い声を発する。
「おじさんの妹」と二人目。そして次々声を発する。
「ひとみっていうんだね」
「ひとみちゃん、かわいそうだね」
「黒い男に」
「ひーひー、かわいそうだね。犯された」
三郎の顔はみるみ怒気を発して、真っ赤になった。
「やめろ!」
すると、「あ!」と少年たちが宙をいっせいに指した。
宙に水が浮かんでいた。青い水が、空中に浮いている。その中に、人魚が蠢いていた。青い肌で、金の鱗が目に鮮やかな人魚の、その幻のような美しい肢体とは裏腹に、その顔は漆黒の長い髪を振り乱して憤怒で真っ赤に染まっていた。すると、人魚の前に、野卑な男たちが、真っ裸で現れた。どいつも、こいつも野卑な、欲望のぎらついた眼で、男根をそそり立たせていた。頭が丸坊主の太鼓腹の男、右腕に蛇の刺青をいれた男。金髪で、鼻ピアスの男。長髪で、馬のように長い顔の男。酷薄そうな唇を歪めた、顔だけは美形の男。明らかに、自然に焼けたのではない褐色の肌の男、こいつは男根周りさえも褐色だった。
「きいいいいいい!」と人魚が正に怒髪天の形相で吠えた。人魚は信じられないことに宙の湖の表から凄まじい速さで飛び出ると丸坊主頭の喉笛に噛みつく。坊主頭は「グエッ」と声にならない声を発して、真っ赤な血潮が迸り、坊主頭の首は半分がちぎられて、だらんと背中に垂れた。間髪を入れず刺青の男の頭を両手で掴み、ぐいと捻る。骨の軋む音がして、刺青の男の首は真横を向いた。鼻ピアスには下半身に食らいついた。「ぎゃああ!」と叫んだ鼻ピアスの下半身に男根が無くなって、血潮が吹き飛ぶ。人魚は手に持った男根を放り捨てる。長髪は、この惨劇に、目をいっぱいに拡げ、硬直した。人魚の尾がその首に巻き付き、声を発することなく首は三百六十度回転した。美形の男も固まっていたが、人魚は容赦しない。「きいいいいいい」と叫んで、二本の指で目を突き通した。指がずぼっと抜かれると、血のシャワーが迸る。残るは褐色の男だけ、男は完全に恐怖に満ちた顔で、人魚から逃げようとしたが、首を掴まれ、宙に浮かんだ水に顔を突っ込まれた。宙に浮かぶ水に顔を突っ込まれる。それは、まさに異様な光景だ。恐ろしい力で水に突っ込む人魚の顔は、殺戮の快楽に酔っているかのように恍惚としていた。
褐色の男は、全力で水から逃れようとするが、徐々に、肉体の力を無くしていった。完全に、肉体の動きが止まった時、人魚は「きいいいいいいいい」と勝利の咆哮をあげていた。
するとパチパチパチと乾いた音がした。
六人の子供が乾いた拍手をしているのだ。だか、真白の顔面に一切表情は無い。パチパチパチと、無表情に手をたたく、その顔面は洞穴のような眼が鈍く光る能面のようだった。
雅は、その全部を鳥居の側からを見た。この鳥居から中に入ってはならない、そんな気がした。雅は自分の存在が異形であるがゆえに、異形のものに敏感になる。それは超能力の一つかもしれないが。
雅が鳥居の外で立っていると、再び、世界は一転した。鳥居の中は、暗夜の中に草木や花々が咲きほこる、静かさに満ちた池のようになった。
蓮の花が、澄んだ水面に浮いている。なんと平和な光景か。だが雅は気が付いた。池の表面にひときわ大きな薄赤の蓮華が浮いて、その蓮華に、先ほどの少年たちが、体育座り乗って、こちらを見ていることを。
その洞穴のような黒い瞳がこちらを見ていた。深い、そして暗い目が雅を誘っていた。
雅はふと、意識が遠くなるような、夢でもみているような、うすらぼんやりとした気持ちになった。
子供たちが、手を振って、招いている。
雅はふらふらと、鳥居の中に、足を入れようとした瞬間、
「だめだ!」と頭の中で叱咤するような声が響いた。
「そっちに行っては、いけない!」
再びの声で、雅は止まった。
夜空の満月が煌々と輝き、月下の風景を鮮やかに浮かび上がらせている。そしてたゆたう薄青の水の面で、人が一人ゆらり揺れていた。水の面に桜の枝がしなだれるように咲きほこり、まるで春の夜の幻のような風情がゆらゆらと揺れている。
水面のさざ波に押されて、その人間がゆっくり仰向いた。その顔は時任三郎だった。
不思議なことに、その目は開かれている、が、その目は穴ぼこのように暗く、なにものも表してはいなかった。すると、とても大きな薄赤の蓮華の花が波に乗って三郎に近づいてゆく。なにやら、中世風の、それも不可思議な昔話のような風景が現れている。そして蓮華の花びらの間から、再び子供が現れた。裸の肌の色が真白の子供が花びらの間から顔をのぞかせている。その目は三郎と同じく空虚だった。
蓮華はゆっくり動き、三郎の身体の周りに集まってゆく。六つの蓮華は時任三郎の身体を包むように緩やかに流れてゆく。
すると、水面の淵に何か、ぼんやり見えてきた。それはじっと水面に居て動かない。蓮華と三郎が岸に近づくと、それははっきりしてきた。それは長い髪の雪白の肌をした少女、しかも、少女は車椅子に乗っていた。
少女の大きな瞳は三郎のゆらゆら水に揺れる三郎の身体をじっと見ていた。そして呟いた「おにいちゃんと」と。そして声が聞こえてきた。
「おにいちゃんは無力だった、獣のような男たちが私の身体を蹂躙している間、おにいちゃんは砂浜に伏して、何もできなかった。でも私はおにいちゃんを恨んでいないよ。どうせ死ぬ気だったんだから、こんな身体、あんまり意味ないよね」
つまり時任三郎とこの妹には、集団レイプと言う悲惨な過去があったということか。
三郎が、時々見せる自嘲的な顔を気にはなっていたが、三郎は妹を暴虐から救えなかった兄と言う重い十字架を背負っているということになる。波に彷徨う三郎の姿は自責と後悔の念に揺れる彼の想念そのものということになるのでは。だが、その想念に囚われたままでは、まさに漂う死体も同じではないか。
「あんたに何が分かる!」
大声で吠えたのは少女である。
「身体も、心も踏みにじられた私の心が誰に分かる」
少女の心が、もはや憎悪に満ちていることが分かる。少女が生きているよすがは、もはや憎しみだけなのであろう。それが兄の三郎の呪縛になっている。雅はそう了解した。だが、再び声が聞こえた。男の声だ。
「俺は、いったいどこにいるんだ。ここはどこだ。俺は死んだのか、生きているのか、
教えてくれ、この生ぬるい、べとつくような空気はいったいなんだ。苦しい、息が詰まりそうだ。俺はどこにいるんだ。ここが地獄か、この例えようもない絶望感が地獄なのか」
三郎の声だ。水面の三郎の口は閉ざされているから、これは心の声であろう。
すると蓮の花に乗っていた子供らが騒ぎ始めた。
「お前、なーんにもできなかったんだろ」
「いくじなし」
「いくじなし」
「おまえ死ね」
「死ね」
「死ね」
三郎の顔が僅かに揺れた。
「おれは死なないぞ!」
能面の三郎の身体ががたがた揺れ始めた。何かに必死に抵抗するように、がたがたと身体が揺れる。顔が硬直しているがゆえに、かえって、その必死さが見て取れる。
「無駄だよ」
「あんたは動けない」
「永久に」
「そのまま」
「固まってな」
「お前は死人だ」
そして哄笑が地に鳴り響いた。
「くそ、お前ら、いつまで俺に付きまとう」と三郎が本当に悔しそうに身をよじる。
「そんなの一生に決まってるじゃん」
「そうだ」
「一生」
「お前に」
「つきまとってやる」
「つきまとってやる」
多分、三郎は、こんな夢を何度となく見たのであろう、苦悩の夢とでも言うべきか。
いつまでも続く苦悩、永遠の牢獄に繋がれた囚人、こんな苦痛に人間は絶えられない。
だが。その時。天から光の玉がすごい勢いで降ってきた。暗転の天からまるで太陽の光の中から飛び出したように、六つの光の玉が蓮華の蓮の花めがけて飛んできた。
「きいいいいいいい!!!」と子供たちが、掘穴を穿ったような眼を大きく目を見開き、口をおの字にして泣きわめく。
三郎は今はっきり目覚め、蓮の花の上に立とうとしている。三郎が立ったと同時に世界は変わった。
それは林の中に一人たたずむ三郎の姿だった。三郎は呟いた。
「ここは、どこだ?」
するとどこかからか声がした。
「ここは新宿中央公園だ」
「いったい、どうなっている?」
三郎の問いに声が答える。
「君は、リョウに惑わされて、ここに来た」
これは何か聞いたような声だ。三郎がいぶかしげに気に聞く。
「リョウ? 誰だ?」
そうか、三郎はリョウを知らない。
「君のもっとも弱い部分をえぐるもの」
「俺の弱い部分」
「端的に言おう、君の妹のことだ」
三郎は、訝しそうに、且つ腹立たし気に聞く。
「何で、そのことを」
「僕は何でも知っている。だが、君を責める気は無い」
「じゃ、俺に何の用だ」
「あなたに雅の力になってほしい」
「雅、あの店の女の子か」
「そうだ」
ここで分かった、これはシンの声だ。三郎もここで気が付いたらしい。
「お前シンか」
声はゆっくり答えた。
「そうだ」
三郎はますます当惑した顔になった。
「何で俺が、それに俺の力とはいったい何のことだ」
「元自衛隊。第一ヘリコプター団の君の力だ」
「ふーん、俺のことをずいぶん知っているんだな」
三郎はヘリコプター部隊にいたのか。シンはそれを知っていたのか、三郎は苦い顔になった。三郎にとって自衛隊のことは、あまりいい思い出はないらしい。
「あまり気持ちがいいもんじゃないな」
「とにかく話を聞いてくれ」
「あんたと話か」
「いや」
「じゃ誰だ」
「美那月優馬」
これには驚いた、何故、祖父を直接知っているのかシン。
「美那月、雅の親か」
「いいや、祖父だ」
「そいつが、俺に何の話だ」
「来れば、分かる」
「……」
「僕は君を助けた、君はあのままだと、永遠の牢獄に居たんだ。君は僕に恩がある」
「分かった。じいさんはどこだ」
するとプツンと音が切れたように、世界が唐突に暗転し、闇が世界を覆った




