三郎
新宿にあって、空気感が、外とは異なる空間がある。異なるのは当然かもしれない、そこは神社だから。喧騒と猥雑を極めた歌舞伎町の一角にある、花園神社は、いつの時間も静謐で森閑としているように思える。特に、初夏と、初秋の光に満ちている時、
その空間に畏敬を感じざるを得ないと雅は思う。
季節は夏が終わり、秋に差し掛かった十月の初頭。その夜、時刻は七時頃。花園神社の鎮魂の森に大きな、そして蘇芳色テントが立っていた。蘇芳色は赤みがかった黒色だ。その色は境内の中にある灯籠の光の中に浮かんで、この場所が、まるで周囲の喧騒から隔絶された異世界のようにも見える。この大きなテントは、何のために建てられるのか、それは芝居を行うためだと雅は景子に聞いたことがある。
「まあ、変わっているけど、歴史がある」と景子は言った。
一九六〇年代、昭和の日本は激動の時代だった。反権力のデモ隊の渦が、それを迎えうった機動隊と激突した。燃え上がる火炎瓶の炎とガス弾の煙が新宿の街に広がった。若者は高揚し怒っていた。この日本を再び戦争に導こうとしている権力に牙をむいたのだ。だが、権力もまた、牙をむいた。権力の圧倒的な暴力に若者たちは身体を張っていた。そして、若者たちは既存の価値観にノンをつきつける、あらゆる行動に喝采を上げていた。そのひとつが、いわゆるアンダーグラウンドと呼ばれた演劇運動である。既存の施設を使い、シェイクスピアやチェーホフの翻訳劇を演じる新劇に対し傲然と反旗を翻し、巨大なテントで野外演劇を行う演劇集団、宗三郎という奇人を中心に活動を繰り広げる、その集団は、あるときは新宿花園神社に、ある時は戒厳令下の韓国に、そしてバングラデッシュに出没した。
その歴史は半世紀にわたるという。
だが今、目の前で動いているのは若者だ。つまり、この劇団は、いつの時代も若者が支えてきたのだ。宗三郎の劇団は、役者がスタッフを兼ねる。芝居に関わる全ての仕事を役者が行うらしい。さらに景子は笑いながら言った。
「効率から言えば、これは非合理だし、役者の負担が大きいわね。それに大きなテントと言っても観客は二百人くらいで一杯になるだろうから、収入から言えば、都内の大きな劇場とは比べ物にならない。 多分、あの人たちは時間がある時はアルバイト暮らしね。そんな生活は若者にしかできない。宗三郎自身は、文化人であり、著名な小説家でもあるけど、大所帯の演劇集団に普通の生活を保障するほどの金があるとは思えない。要は、その集団は情熱で成り立っている」
まったく、新宿にはいろんな人間が集う空間だと、つくづく雅は思いながら、しばらく鳥居の側に立ってテントを見ていると、ふと気が付いた。 テントの入り口前に飾られた「人魚伝説・暗黒のマーメイド」と題された看板をじっと見つめている時任三郎に。
どうやら三郎は看板に描かれた人魚をじっと見つめている様だった。その顔は驚きと戸惑いの顔だった。
雅は、念を込めて三郎を凝視した。そして雅に聞こえてきたのは、「ひとみ」という言葉だった。誰かの名前だろうか。
三郎はしばらく立っていたが、当日券販売所と看板が立っている場所に向かった。 三郎に芝居見物などと言う趣味があったのか、と思ったが、すぐに直感で、違うと思った。三郎は明らかに看板に惹かれたのだ。
雅は鳥居の側に立つ木に身を隠した。何も隠れる必要は無いのだが、雅が知る三郎とは違う何かを感じて、身を潜めたのだ。しかし、時間が経ち、客入れが始まると、境内に列を作ってテントを囲む人の列をかいくぐって雅は当日券販売所に向かった。
暗闇の中で、月光の旋律が流れている。
約二百人の人間が、暗転のテントの中で、息をひそめ、次の展開をじっと待っている。雅も三郎もその中に居る。あの看板が三郎の気を引いた。正確には看板に描かれた人魚の顔に惹かれたのだ。その様子に雅も導かれたのだ。
舞台に、ほんのりと明かりが点く。そして舞台中央正面に、ごつごつとした灰色の岩石の表面に暗い洞窟らしき穴がぽっかりと空いている。そして背後の壁には、波立つ海を模した、かなり大きな水彩画が広がっている。
そして声がした。
「この海には怨念が渦巻いている。女の怨念が。それは海の青さが極限までに眩しかった夏の、気怠い午後の出来事だった。
長い髪の少女は一人、海を見つめていた。少女には、この時、絶望しかなかった。青い海に白く渦巻く波に目をやりながら、その少女は白砂に素足を沈めていた。
少女にあって世界は地獄だった。
死ね、ブス! クソ、クズ! 罵詈雑言は日常の事、果ては靴を隠され、裸足で重い自転車を漕ぎながら帰ったことも。学校地獄の地平には、死の予感だけが残されていた。
だが、少女の悲劇は更なる災いが重ねられる。絶望の中で海に入った少女は、ゴムボートに乗った若者たちに眼をつけられた。灼熱の太陽の元、繰り広げられた暴虐は、もはや死に向かっていた少女の魂を完全に殺したのだ」
自殺しようとした少女の物語か、雅は何故か嫌な予感がした。すると、声が止み。穴倉の中から出てきたモノがある。
長い髪を前に垂らし、人魚の鱗を纏った、異形のそれはゆっくり穴から出てくる。這うように出てくる。
「来たれ地獄よ、吹けよ嵐。私の名はゴーストだ! 見える、見えるぞよ。地獄の業火が。人生の意味は、人間が悪魔のしもべであることを示しているのだ。悪魔の眼、ハゲタカの鼻、獅子の牙を剥いてかかってこい。消えろ、消えろ、つかの間の愛など何の意味もなく、朽ち果てるのだ。およそ、女から生まれた者は、決して私の姿にかすりもしない。見よ、新宿御苑の森が動くまでは、悪魔は決して滅びはしないのだ」
すると黒帽子、黒マントの男が花道から疾風のごとく出てくる。待ってました! の掛け声がかかる。
「おのれ、妖怪。お前は地獄へ帰れ!」
黒帽子の宗三郎は、持っていた抜き身をギラリ抜くと、女に向けた。すると女は
するすると天井に吊り上がってゆく。こんな仕掛けがあったのか、だが、その瞬間、
テント内は真っ暗闇になった。
ハッと気が付くと雅は、自分の肉体がテント内から消えたのを感じた。あれ、自分が見えない。だが、テント内は見える。ちょうど、マサに代わる時と同じように自分の消えた世界が見える。
雅がじっと見ると穴倉にぽっと明かりが点いた。するとテント内の人間が消え、三郎だけになっていた。女も宗三郎も居ない。そして、周囲には何の音もない。ここは新宿のど真ん中なのに、車の音も、人の声もしない。そして、秋なのに、何かうすら冷たい風が吹き、時々蘇芳色のテントが揺れていた。そして、舞台に残った洞窟の穴の奥底から声がした。
「お兄ちゃん」
三郎の顔が引きつったように歪む。
「お兄ちゃん」
再び、声がした。すると三郎は、緩く立ち上がり、ふらふらと漆黒の穴倉に近づいた。
目の前の穴は、何も見えない空間が、まるで僅かな光さえ通さない、底なしの暗黒の空間が支配していた。まるで宇宙の何ものも通さない、あの巨大な暗黒の穴のように
「来いよ」と囁くような声がした。
三郎はふらふらと人形のように、穴倉の中に足を踏み入れた。
だが、穴に踏み入れた瞬間、舞台の光景は一変した。
青い空が、そして大きな白い雲が光り輝いていた。眩しいほどに、熱量が大気に満ち、その熱さは過酷なまでに暑く、人の肌を焼くようだ。
ハア、ヒー、ハア、ハア、ヒーと晴れ渡る空と対照的な悲痛な喘ぎ声が、世界に響く。
初めはぼんやりと、だが徐々に、その光景は鮮明になってゆく。
それは邪悪な風景だった。
ぎらつく太陽のもとで、繰り広げられる風景は、真っ青な海と、ごつごつとした岸壁のはざまで、黒く焼けた肌が気持ち悪く動く裸の男たちが蠢いている、あまりにグロテスクな、あまりに無残な風景だった。
男たちの輪の中に居るのは、褐色の肌の少女。健康的な、その肌が男たちに蹂躙されていた。悲痛な叫びが空しく夏の空に響く。
三郎は「ひとみー」と叫んで、走り出した。
振り向いた男の顔に、拳が飛んだ。拳は顎を打ち抜き、男がひっくり返る。次に飛び込んできた男の右腕を取ると、両の手で掴み腰を回転させ、一気に一本背負いでひっくり返すが、下は砂地だから投げられた男は、身を起こそうとした。が、三郎はその顔を右足の裏で踏み抜いた。男の鼻がひしゃげて、「ぐえっ」と血が噴き出す。三郎は悪鬼の相貌だ。だが、背中でガツンと音がした。三郎は思わず、「ぐっ」と前のめりになる。すると、金属バットを握りしめている男が再びバットを振り上げているが、三郎は地を転がって逃げる。すると、別の男が鉄パイプを振りかざして、突進してきた。再び三郎の背を鉄パイプが打った。三郎の逞しい筋肉の鎧も、この打撃にはたまらない。三郎はその地に這いつくばった。すかさず、足蹴りが、三郎の肉体に叩き込まれる。三郎は六人の凶器を持った男たちに叩き伏せられたのだ。そしてロープでくくられ、砂地に放り出された。
六人の男たちは、三郎を地に転がすと、彼らの獲物に、再び獣欲を滾らせた。三郎は、その光景を、半ば失神状態で見ていた。薄れゆく意識の中で、妹のひとみが、卑劣な欲望の生贄にされる様を見ていたのだ。
これは幻か、現実なのか判然としない光景を見ていた雅は、縛られて、転がされている三郎の憤怒の形相を見ているうち、これは現実と知った。そしてひときわ激しい悲鳴が響いた。
「きゃー!」
それに呼応するように獣の声が「ウオー」と放たれた。
一転、世界は暗転した。
三郎は、うずくまった状態で唸っていた。まるで、幼児退行を起こしたかのように、蹲って唸っている。洞窟はそのままだ。が、次の瞬間、舞台の洞窟から、青色の肌と金の鱗の人魚が飛び出した。「きいいいいいいい」と奇妙な声を発しながら、人魚はテントの出入り口から飛びさって行った。すると、三郎もまた、立ち上がり唸りながらテントを出ようとした。すると、また一転、世界は変わった。
そこは暗転のままのテント内だった。そしてウオーと唸りを上げて男が一人テントから飛び出した。三郎だ。雅も人をかき分け、出口に向かった。そして外に出ると、三郎が拝殿に続く階段を駆け上っている姿を見とめた。そして雅も、階段に向かった。
いったい三郎はどこに向かうのか、それにしても三郎はべらぼうに速い。そして確実に何かを追っている様だった。何か、まさか、あの人魚、あまりに現実離れした展開に雅は戸惑いながら、三郎を追って疾走していった。
三郎は、何かに取り憑かれたように、ものすごい速さで疾走していた。百メートルの世界記録にも匹敵するその速さは、多分三郎の神経が異様に昂揚しているせいかもしれない。いわゆる火事場の馬鹿力だ。雅も、必死に追ってゆく。超能力で飛べば、かえって速すぎて、三郎を見失うし、目立つだろう。
三郎は、花園神社の裏階段を降りると、靖国通りを跨ぎ、新宿駅に向かった。日曜の夜なので、人はさほど多くない。だが、不思議なことに、新宿駅まで、一回も信号に引っかからない。すべて青信号だったのだ。新宿駅前の交差点信号も青だった。三郎は交差点を渡ると、新宿駅構内に入っていた。すると、構内はがらんとして、人気がまったくない。まるで終電がでたあとのようにがらんとしていた。これは! まだ幻の続きを見ているのか。三郎は躊躇なくJR改札口を飛び越え、まっすぐ西口改札に向かっていた。制止する職員も居ない。まさに無人の野を走るように、突き進む。そのあとを追いかける雅。
一気に西口改札所を飛び越えた三郎は、これはまさに無人の街と化した、西口中央通りを真っすぐ突き進む。新宿西口は、基本オフィス街である。だから日曜の夜、超高層ビルの窓に、ほとんど灯りは無い。それにしても人が居ない。車も走っていない。三郎と、雅は、超高層ビルの林立する街を一気に走り、東京都庁に向かっていた。
ここまで、僅かの時間で来たが、こんな経験はしたことは、かつてない。よほど田舎の一本道のように、ここまでくるのに、人や車に出くわさない。これは絶対に東京ではありえないが、まさに雅は、三郎を追いかけて、いったい自分が、本当に新宿の街を走っているのか、疑わしくなってきた。しかし、まさに、今、自分は都庁の二つの塔を目指して走っているのだ。




