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プロローグ

すみません。再掲載です

 ある思考実験がある。すなわち、一匹の猫と、その前に猫がすっぽり入る大きな黒い長方形の箱が一つある、そして今、猫が箱に入った。猫が見えるのはそこまでである。猫が黒い箱に入ってから、箱の中で実験が行われるのだ。箱の中には実は毒ガス発生装置があり、そしてまた箱の中のあるものを探知するセンサーがある、そして箱の中であるものが位置Aにあるときセンサーが働き毒ガス装置がガスを発射する。つまりその時には猫が死ぬのだ。だがあるものが位置A以外、すなわち位置Bにあるときは、センサーは働かず毒ガスは発射されない。そのとき猫は生きている。

 

 この思考実験を考えたのはシュレーディンガーという科学者である。この人は、この実験を通じて、ある論理に異議を唱えたのである。その論理とは量子力学である。

ところで、実験に使うあるものとは原子という物質である。物質は全て原子で構成されるが、原子の大きさは、人間の大きさの百億分の一くらいである。

 そして、実はこの原子や、さらに小さい(十万分の一くらい)の素粒子といった物質は複雑な、とても厄介な振る舞いをするしろものなのである。

 

 原子の存在とは、波のようにふるまい。粒子のように現れると言われる。すなわち原子は動いている時は、まるで海の波と同じように振る舞うと考えられる、つまりあるそこの点に存在するというように特定できない。そして観測したときに、まるでボールのように突然現れる。つまり観測前には、原子が確実に存在する場所が分からないが、目を原子にやると突然、現れる。例えば野球のボールがピッチャーから投げられて、キャッチャーに向かってゆく。このときボールがどこから来て、キャッチャーのミットに収まったかは確実に分かる。だがその光景が原子には無い。こういう存在が箱の中で何かをするということは、つまり予測が成り立たないのだ。

 

 我々が日常目にする物質であるならば、箱の中の振る舞いは予測できる。ボールのようなモノであれば確実にÅかBかどちらかである。しかし原子はさっぱり分からない。簡単に言うと原子は見る気があると見えるが見える前にどこに存在したか確実な予測が立たない。この奇妙な話は、物理学上、当然、実験の結果からのものである。そしてあくまで実験結果から、予測ができないのなら、後は可能性を言いたてるほか無い。つまり原子は観測する前には可能性のあるどこにでも存在するという論理が組み立てられた。それが量子力学である。これは言葉遊びではない、昔の偉い学者はそう考えたのだ。ややこしいが量子力学はそう唱える理論である。だから量子力学で考える限り原子の位置によって生死が決定される猫も、蓋を開けてみる前(観測前)は、生きているし、死んでもいる、どちらも存在するという結論にならざるを得ないわけだ。言い換えれば、この両者が重なり合って存在するというのが 量子力学という考え方だ。


 だが、シュレーディンガーというひとが、この原子の重なり状態と言う考え方は気に食わなかった、そんなこと、あるはずがないと突っ込みを入れたのだ、つまりこの実験で量子力学に真っ向から異議を唱えたのである。猫が可能性のあるどこにでも存在するという量子力学の考え方はおかしいだろう。現存在する猫一匹は猫一匹である。現実にあるのは可能性のひとつである。この実験では箱の中の猫は確実に生か死かどちらかである。生と死が同時存在するものなどあり得えるわけがない、重なり合って存在するものなどないとシュレーディンガーは主張したのだ。この実験は原子と言うミクロの物質の振る舞いと猫の生死というマクロの物質の振る舞いの交錯である。この実験においては普通に考えれば、シュレーディンガーの考えの方がまともに聞こえるが、一方、ミクロの世界には常識とは遥かに異なる考え方をしないと説明できない事象があるのも事実である。

 そしてそこで、またまた異なる考えに至った人々も居た。すなわち、シュレーディンガーの箱の中に(蓋を開けない状態の箱には)死んだ猫も、生きている猫もどちらも存在すると言うなら、観測する人間もまた死んでいる猫を見る人間と生きている猫を見る人間も同時に存在するのではないか。これですっきりするじゃないか。だがこれを認めるとややこしいことが起きる。それでは猫が箱の中に入らない可能性だってあるじゃあないか。どんな可能性も有ると主張するのなら、これだって有りだろう。だが彼らはそれもYESと言う。すなわち原子も含めて物質世界の可能性の全てを肯定する。身も蓋も無いと思うかもしれないがそうなのだ。これを並行世界とか、多元世界論と言う。

 

 多元世界論者は言う。物質の極小物質である原子で起こることなら何の物質でも起こりうる、何故なら原子はどの物質にも存在するから。だがやっぱり原子と野球のボールとは異なる、と思いたい人には多元世界論はこう言う、原子とボールは同じだ。単に物事を観察するスケールが異なるだけで、ミクロの世界で起こっていることは実はマクロでも起こっているのだ。だから全部存在する、ただし人間が認識できるのはひとつのモノだけだと。主観論の極致だろうが、確かにそう認めれば、量子論のだいたいの問題が片付くのである。

 

 つまりこの世界はあらゆる状態が存在する。二つの猫の存在を認める以上、これは必然だ。猫が箱の中に入らない状態だってありうる。物質である限り。およそ考えうる可能性の全部が有ると断言するのが多元世界の考えだ。ただし、この論理の実験的証明は不可能だが。

鏡に鏡を映すとどうなるのだろう、そこにはお互いの鏡が無数に続く鏡が存在する。これが多元世界だ。鏡の光は世界が果てし無く並行存在する無限であると教えているのだ。


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