毎晩隣人の泣き声が聞こえる~愛着~
ここのところ毎晩、隣の部屋から女の泣き声が聞こえる。
それもすすり泣くようなのじゃなく、子供みたいに叫びながら号泣するタイプのやつだ。
深夜三時に聴く女の嗚咽ってのは、なかなか感情を揺さぶってくる。
「ひぐっ、えぐっ……おえっ」と、嗚咽混じりに嘔吐のような声も聞こえる。
本当に勘弁して欲しい。
つい先日、壁に耳を押し当てて、よく聞いてみたことがある。
壁越しなのと、妙に反響していて、うにゃうにゃと何を言っているのか聞き取れなかった。
だが、ところどころ「なんで」「やだぁ」のような言葉の片鱗が聞こえたので、きっと失恋でもしたんだろうと思う。
「にしても長いよなぁ……」
俺は独り暮らしだが、思わず声に出た。
今日で二週間だ。
いくら大失恋をしたとて、二週間もこのテンションで泣くものだろうか?
気が狂ってしまっているのではないだろうか?
俺は「ドグラ・マグラ」の冒頭に出てくる女を思い出してため息をついた。
しかし狂っているにしても、一体どんな事情があるのだろう?
毎晩泣き声を聞かされている手前、興味はあるが、彼女と話した事なんてもちろん無い。
隣人の顔すら知らないというのが、東京人のスタンダードである。
が、そんなスタンダードを打ち破る出来事が起きた。
とある平日の昼下がりである。
「印鑑かサインお願いします」
「はーい……あっ」
宅急便を受け取っている最中だった。
隣の部屋のドアがガチャリと開き、一人の男が出てきたのだ。
彼は気まずそうに目を伏せると、配達員のお兄さんの会釈も無視して、廊下を足早に去った。
男だった。
あれは絶対に男だ。
女ではない。
そうなると話が変わってくる。
このアパートは独り暮らし用で、いくら仲の良いカップルでも二人で住むのは至難の技である。
加えて脳裏に過ぎるのは、「やだぁ」「なんで」の声。
俺の頭には物騒な単語が浮かんだ。
監禁……?
いやいや。
いやいやいや!
そんなわけあるかい! と言いたいところだが、否定できる材料が無い。
犯罪とは、常に身近なところに潜んでいるものである。
こういう時、どこに連絡すべきか。
正解は「110」ではない。
警察はマジで動かない。
むしろ通報されたことに逆上して、暴力は爆発的に酷くなる。
俺のときがそうだった。
じゃあどこに相談すべきだろう?
児童相談所の虐待対応ダイアルか?
DV相談ホットラインか?
それも同じだ。
職員の動き次第で、最悪の結果を招く。
となれば、できる事はひとつ。
秘密裏に証拠を集めること。
言い換えればそれは、真実を知ることである。
とりあえず俺は、隣の部屋を監視することにした。
昼間中ずっとドアスコープから廊下を見張り、男の生活習慣を記録するのだ。
平日、彼は決まって16時過ぎに外出するようだ。
そして戻ってくるのは24時。
遅番を終えて終電で帰る、といった感じだろう。
その隙に、俺は隣室の女とコミュニケーションを図ろうと試みた。
インターホンを押すと記録が残る可能性があるので、ドアをガンガンと叩く。
「大丈夫ですか?」
返事は無い。
人間、口にハンカチを詰めるだけで大声を出すのは難しくなるものだ。
「何か音を立ててください」
何度も言ってみるが、反応は無い。
壁を叩いても、物干し竿を伸ばして窓を叩いてみてもダメだ。
しかし深夜三時頃になれば、決まって同じような嗚咽が聞こえる。
そろそろ一ヶ月。
彼女も限界のはずだ。
俺がなんとかするんだ。
そして俺は、ある作戦を決行する事にした。
***
「水道管の点検に参りましたー」
「いや……聞いてませんけど」
「すぐ終わるんで! 入りますねーすいません」
「え、ちょっと」
雑な方法だが仕方ない。
昔使っていた作業着に、それっぽいクリップボードを持って俺は隣室に押し入った。
半ば無理やりだが、とにかく侵入には成功した。
あとは彼女を探すだけだ。
「その辺、最近掃除してなくて……」
「大丈夫ですよー、掃除もやっときますね」
持参したゴム手袋をつけ、風呂の排水溝カバーを外して眺める。
長い髪の毛は絡まっていない。
しかし、女性の髪の毛が長いとは限らない。
次はトイレだ。
ゴミ箱は無い。
小さな棚を開けて中を確認するが、生理用品も無い。
最後に、リビングの一角に据えられたキッチン台を見るふりをして、リビングを見渡す。
いない。
どこにもいないのだ。
女性のいた形跡がひとつもない。
「……」
「どうかしました?」
「その……ええ、いや」
「終わったなら早く出てってくださいよ」
だるそうに吐き捨てる男。
その背後には大きめのテレビ。
テレビ台の棚には、VHS用のビデオデッキが設置されていた。
「あ、それって」
俺は思わず指差していた。
「ああ、これですか。ただのビデオデッキですけど」
「今どきテープのビデオですか? 珍しいですね」
「あぁ、はい。これでしか見られないフィルムもあるので」
フィルム、という言い方に違和感を覚えた。
多くの人は「ビデオ」「テープ」と言うところだ。
しかし「フィルム」という言い方をする業界を、俺は知っている。
俗に言う”裏ビデオ”を扱う連中だ。
「なるほどな」
思わず笑みがこぼれた。
最初から女性などいなかったのだ。
彼は毎晩、女性が悲鳴を上げながら犯される……もしくはもっと酷い目に遭うようなビデオを見て楽しんでいたというだけの事だ。
しかし、うるさいのは事実である。
俺は思いきって言ってみる事にした。
「あの、すみません。実は嘘をついていまして」
「はあ」
「俺は水道業者じゃないんです」
「じゃあ誰なんです」
「隣の部屋の者です」
彼はあまり表情を変えない。
固まってしまうのも頷ける。
俺は矢継ぎ早に説明を加えた。
「いやあの、安心してください。実はあなたのフィルムの音がこっちの部屋まで漏れてまして……虐待とか、監禁が行われているのではないかなと思いまして。強行手段ですが、嘘をついて家に上がらせて頂いたんです。本当にすみません」
俺は正直にぶっちゃけ、頭を下げた。
「そうでしたか」
男は、何か別のことを考えているような顔で答える。
何を考えているのか分からないが、騒がれないに越したことはない。
「お邪魔しました~」と足早に立ち去ろうとする俺の腕を、男が掴み止めた。
「な、何ですか?」
俺は振り返る。
男は俺の作業服の袖をつまんで、グイッとめくり上げた。
若いときに入れた和彫の刺青が露になる。
「これって……やっぱり!」
男は慌ててテレビの電源を付け、ビデオデッキを操作してフィルムを再生した。
『やだぁ! ねぇなんで!? なんでこんな事するの!』
そこには、聞き覚えのある嗚咽を上げる女性が映っている。
撮影者は左手でカメラを持ち、右手に持ったアイスピックで彼女の太ももを刺しながらゲラゲラ笑っている。
その右腕には、和彫の刺青が入っていた。
「あなた、このフィルムの撮影者さんですよね! いやー、ファンなんですよ僕!」
男は目をキラキラと輝かせ、画面に映る腕と俺の腕を見比べた。
バレてしまったなら仕方ない。
「ごめんなあ」
俺は一応謝ってから、尻ポケットに忍ばせていたワイヤーを素早く男の首に巻きつけた。
「カハッ……どうし……て……?」
苦しそうに顔を歪める男の問いに、俺は答えず、ただ黙って首を締め上げる。
「どうして」だって?
聞かなくても分かるだろう。
俺は腕の力を強めながら、チラと画面に映る女の顔を見た。
「懐かしいな」
あれは俺の娘だ。
どこから流出したか分からないのだが、このビデオは、俺が個人的に楽しむために撮ったものだ。
娘が傷付くところを見て他人が笑っているなんて、親として許せないだろう?
これを見て興奮して許されるのは、世界で俺だけだ。
だって彼女は、俺の娘なのだから。