ヴォール帝国にて 3
「……随分と上手くやられたものですなぁ。クライスラー公爵閣下」
その男は皮肉げな笑顔を浮かべながらも、どこか悔しさを滲ませながらそう言った。
「……はて。上手くやったとは? 随分といやらしい物の言い方ですな。……あぁ、貴公の伯爵家ではいつもそのような下賎な物言いをされるのですか」
クライスラー公爵はチラリと相手を見て全く表情を変えずにさらりと言った。感情を表さない。これが通常運転のクライスラー公爵だ。
「んな……ッ! 失礼でありましょう! 私は陛下の従兄弟なのですぞっ!」
……そう。こんな考えなしの男でもシュナイダー公爵家の三男で伯爵位を賜っている。シュナイダー公爵とは現在の皇帝陛下の母の実家だ。……つまりはクライスラー公爵家とは犬猿の仲。
そうでなければ力を落としたとはいえ『筆頭公爵家』であるクライスラー公爵に、伯爵程度がこのような物言いはしてはこない。
「……失礼とは、そちらでは? 『上手くやる』などと……。あぁ成程、シュナイダー公爵家では従兄弟であるからと陛下にもそのような物言いをされるという事か」
「んなッ!」
「……お待ちください。……弟が大変失礼な事を申しました。ここは私の顔に免じてご容赦を」
そこに素早く入ってきたのは、シュナイダー公爵。この伯爵の兄とは思えない良く出来た男で同じく皇帝の従兄弟でもある。
「……シュナイダー公爵のお言葉ならば聞かない訳には参りませんね」
クライスラー公爵はすっと矛を収めた。
「……感謝いたします。この愚か者は暫くは王宮への出入りを禁止させますので」
「な! 兄上!」
「……痴れ者が! 公爵閣下に失礼を申し上げるなど、己の立場を考えよ!」
シュナイダー公爵は弟をキツく叱り付け、もう一度クライスラー公爵に向き合った。
「お騒がせしました。公爵。……新しきお嬢様が出来たとの事、誠に喜ばしきことでございますな。我が家にも年頃の娘がおりますので、宜しければお嬢様と仲良くさせていただければ私どもも嬉しいのですが」
シュナイダー公爵の年頃の娘。実はクライスラー公爵の妹の子である養子ステファンとは同い年。……シュナイダー公爵は自分の娘をクライスラー公爵家に嫁がせたいと考えているのだ。お互いの家は犬猿の仲とはいえ、現クライスラー公爵の力は侮れない。縁を結ぶのが良策と考えている。
ヴォール帝国の皇太子アルフォンスとも歳は近いが、シュナイダー公爵令嬢とは『またいとこ』。貴族のバランスが偏るのでシュナイダー公爵家との縁は考えていないと、5年前から皇帝陛下にハッキリと断られている。
「お気遣いありがとうございます、シュナイダー公爵。しかし我が娘は小国ランゴーニュ王国の出身。この帝国の貴族としての立ち居振る舞いはまだまだ勉強中なのですよ。及第点を取れるようになりましたらよろしくお願いいたします」
クライスラー公爵はそう言うと去って行った。
「……まだ会わせる気はない、という事か……」
シュナイダー公爵はそう呟きながらクライスラー公爵の後ろ姿を眺めた。
「……兄上! 何故止められたのです! 前皇帝の御世は終わり今は我らがエルンスト陛下の天下。それなのに前皇帝派のクライスラー公爵にあのような大きな顔をさせるなど……!」
そう兄に詰め寄る愚かな弟を兄は振り返り冷えた目で見た。
「この愚か者が……! そもそもたかが伯爵のお前が公爵に対してとってよい態度ではない!
それにお前は思い違いをしているようだが、確かに我らは陛下の従兄弟。……だが、ただそれだけ。
対してクライスラー公爵は皇女を祖母に持ち自身も皇位継承権第4位を持つお方なのだぞ。お前こそ閣下の前でなんたる大きな顔をしたのだ。しかと己の立場を弁えよ!」
――今の皇帝には皇子が1人。前皇帝に皇女1人。この皇帝2人の父には兄弟は無く、その親であるマリアンナ女帝には若くして亡くなった兄皇子とクライスラー公爵家に嫁いだ妹皇女。そしてその妹皇女の子である前公爵が皇位継承権3位、孫の現公爵は第4位となるのだ。
もしも万が一のことがあり、クライスラー公爵に順番が回って来る事がないとも限らない。……なんといっても20年前のような不測の事態が起こる可能性もある。彼に対する態度は慎重になるべきであった。
「……ッ! ……申し訳……ございません、兄上」
伯爵は青くなり兄に謝った。しかも、兄であるシュナイダー公爵はその娘を筆頭公爵家であるクライスラーに嫁がせるつもりなのだ。余計な事をしては本当に自分たちが立ち行かなくなる、と気付いた弟は必死で兄に取り繕おうとしたのであった。
――そして当然この時の2人は、この世にもう1人の従兄弟の娘がいる事などは知る由もなかった。
◇ ◇ ◇◇
レティシアには、今たくさんの家庭教師が付けられている。
このヴォール帝国での淑女としての教育を施す為の選び抜かれた教師陣。……そしてそれはクライスラー公爵家と関わりのある信用ある者達が揃えられていた。彼らはその関係性や人間性から秘密を話す事は決してないとされた者たち。
そしてそんな彼ら教師陣は初めてレティシアを見た時に、何故これ程までの人材が集められ秘密を守る契約までさせられたか、その理由を知る。
レティシアの、その深く美しい紫の瞳。そしてある程度の年齢の者ならばその姿や雰囲気を見てとある人物を思い出し、その全てを察した。
クライスラー公爵家内でも、執事と家政婦長を中心に限られた者だけがレティシアの周りを固めている。身の回りの世話は勿論部屋の掃除洗濯に関しても、何かしら余計な者がレティシアに関わることのないよう身元の確かな者達にさせている。
そしてレティシアの護衛は特に厳重に、屋敷の周囲の警備も更に強化されている。
――そんな事を、レティシア本人は知る由もなく。
「ハンナ。……やっぱり帝国の公爵家って凄いのねぇ。隣国の元子爵令嬢である養女の私にこれ程の事をしてくださるなんて……。先生方も素晴らしい方ばかりだし、勉強もとても分かりやすいわ」
レティシアは自分に対するこの最上級の扱いに戸惑いつつ、流石は公爵家! と感心しながら日々を過ごしていた。
「はい。閣下はレティシア様の為にと選び抜かれた教師陣をご用意なさいました。公爵家も家臣一同家をあげてこのクライスラー公爵家のご令嬢となられたレティシア様を歓迎いたしております。
……そしてレティシア様。先生方がレティシア様の勉強の飲み込みがとても早いと感心しておりましたよ」
ハンナは執事や家政婦長と話し合い最初態度の悪かった者達の教育とレティシアに仕えるべき者を選りすぐった。今のレティシアの周りは彼女の秘密を守り主人にきちんと仕える事の出来る信用のおける者達ばかりである。
そしてレティシアの勉強が褒められているのは本当だった。本人にやる気があるからか礼儀作法などは勿論、各国の情勢や産物にも興味があるのでどんどん吸収していく。教師も教えがいがあると好感度も高かった。
「……まあ、本当? 良かった、嬉しいわ」
ハンナの返事を聞きレティシアはほっと安心した。
レティシアは元平民。貴族となった事で行けるとは思っていなかった王立学園に通えるようになった。その為に勉強出来る事の有り難みを強く感じていた。
だから元々勉強は嫌いではなかった。そこに最近になってこの世界から見ればかなり高度な教育を受けていた前世の記憶も思い出した。しかも難関の大学に合格する程の受験勉強をしていたのだ。歴史なども大好きだったし、ここでの勉強は全く苦にならなかった。
……そしてここで礼儀作法を勉強するようになって気付く事は、要所要所で母ヴィオレはレティシアに帝国の作法を教えてくれていたという事。
当時王国で平民として暮らす幼いレティシアが余りに貴族のようになっては不自然だったろうしほんの少しなのだが、それでも成長してからは身につきにくいほんの小さな所作などをきちんと修正してくれていた事を思い出した。
『……レティシア。それはこうしたらもっと素敵に見えるわ。そう! とても上手よ、素敵だわ』
そんな母ヴィオレの言葉と笑顔を思い出し、レティシアは少し胸が切なくなった。
お読みいただきありがとうございます!
クライスラー公爵は日常は感情を表さず、淡々としています。笑顔になったり感情豊かになるのは、今はレティシア関連だけです。




