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中年の生活

作者: Sasaki Hiromasa

年賀状の時期が来ると毎度億劫だった。


 葉書の用意をすること、宛名書きに面倒を感じた。何か一言書き添えるのにはかなり頭を使った。一年間、一度も会わない人が多くて、その人との間の日常的な話題はなかった。自分の側で何か語るに足る事柄を見つけなければならず、それが容易ではなかった。


 年賀状のことが常に頭にあるし、そのことを苦手としているものだから、年末年始という時期自体が好きではなかった。12月の初頭から面倒な気分は少しずつ濃くなり始めた。年賀状を書くのは12月の最後の週になってから、つまり元旦には相手に届かないくらいのタイミングで葉書を出すのだった。元旦になって賀状を受け取り、その刺激によって漸く賀状を書き始めるという年もあった。

 12月の最初から早くも賀状書きに手をつければ、五日間もかければ賀状を書き終えて、肩の荷を下ろしたようなすっきりとした気分で年の瀬を迎えることができただろう。

 書く枚数は20枚くらい、多くはないのだから。

 しかしそう首尾よくことを運んだことは一度もなかった。

年賀状を出す相手には学生時代の友人が多かった。友人といってももう何年も会っていない人もあった。葉書のやりとりが続くのには昔の親しさはあまり関係がなかった。ただ葉書を書くという律義さがあればやりとりが続くことがあった。

 親友であっても、当時メールで賀状の代わりをしていたら、やりとりが絶えてしまった。

二十年も会っていない友人があった。仲が悪くなったという訳ではなかった。しかし会おうというきっかけがなかった。その友人は今年は会いましょう、一緒に飲みましょうと葉書に書き添えていることが多かった。しかしそれ以上の熱のこもった連絡を寄せることはなかった。自分の方からも連絡をとろうとしないので、会わないままとなった。

 きっかけがなくとも会えばいいのだと思ったことがあった。

 しかし何か契機がないと会いにくいと自分が感じるのは紛れもない事実であり、ならばそのハードルを努めて乗り越えようとしないのがいいのだ。

 結局、そう思うようになった。

 長年会っていないのに急に会おうと言い出したら、相手は不審に思うのではないか、きっと不審がるであろう。

 その不審の思いが自分には辛いだろう。

 その友人は近くに住んでいた。自分と彼との家は歩いて行って十五分くらいの距離だった。

本屋や図書館に行くときに彼の家の前を通り過ぎることがあったが、彼の姿をそこで見ることはなかった。年賀状にはその家の住所が毎年書いてあるのでそこに彼が住んでいるのはほぼ間違いなかったのだが。

 偶然に出会いたいと思ったし、都市とはいえそう大きくはない都市に住んでいるので偶然の出会いに期待するのはそう不自然な、無理なことではなかった。

 実際、偶然に出会って旧交を温め直すことはしばしばあった。


 きっかけというか、会うための装置を作っておけば古い友人とも継続的に会うことができた。

高校時代の友人とは、毎年大晦日に忘年会と称して会う機会を作っていた。これは二十年あまり続いていた。大晦日という区切りよく覚えやすい日付を固定してあるのがまずはよかった。会を開く日を決めるのはなかなかの労力を要する作業である。参加する可能性のある人が十人あまりであった。それだけの人数に都合を聞いて回っていれば大変なことになる。

 日取りを大晦日という半ば公的な日に設定すれば、それで参加できない人も幾人か出てくるけれど、誰の恨みも買う心配はなかった。

 その高校は奈良市にあったのだが、私立の進学校という性格上、奈良以外からも学生が集まっていた。大阪、奈良、京都といった府県から学生が来ており、自分は大阪の出身であった。

みな関西の出身なのだが、職を求める上でもうその多くは関西を離れていた。首都圏に住んでいる人が忘年会メンバーの半数くらいであった。公務員、医師、大学教員といった職にある者は関西にいた。こうした仕事は首都圏への引力からは自由なのだった。あるいは地方都市への引力が強いのだと言う方が当たっているのかもしれなかった。

 普段関東に住む人も、正月には実家を訪うため帰省した。関西に住む人もまた正月には実家には行くだろうが、関西のうちに留まっているだろう。

 こうしてみなが関西に集結している時期に、しかし新年は親族と会うのに使ってもらって、その前日大晦日は友人同士の交歓に当てようという訳であった。

 さて会場はなぜかずっと京都であった。

 関西に住む者は、大阪、京都、奈良、和歌山といった土地にいた。

 関東に住む者が関西に向かうにはたいてい新幹線を使うので、京都は東から見ればちょうど関西の入り口に当たる。

 京都はみなから見て中心の位置にあることになるし、訪れるに心華やぐ観光都市でもあった。

こうした地の利でここが会場として定着したのかもしれなかった。

そして自分は京都に住んでいたので、会場である京都に住む者としての責任を感じて、会の幹事を務めることが多かった。

 出欠の確認と会場の予約をとることが役目であった。ホテル付属のレストランで昼食をとるのが常で、メニューはいつもバイキング式であった。酒類は追加注文しなければならなかったが、飲む人は少数であった。三人ほどがビールを飲んだ。

 京都駅付近を会場にするのが、遠方から京都まで来る人が多いことを思えば好ましかった。ランチバイキングを出してくれる店を見つけるという点でも、京都駅付近という土地は便利であった。

 駅の南には都ホテルがあり、ここのレストランは白を基調とした内装であった。ホテルの外壁が白であり、レストランの背後に中庭やホテルの建物が望めた。レストランの中と外で色が合うように配慮がなされていた。

 都ホテルのレストランをよく利用したのだが、毎年ここという訳ではなくて、駅の北にあるグランヴィアホテルに行くこともあった。都ホテルが白のイメージなら、グランヴィアは黒であった。レストラン含め、ホテルの床が大方黒色である上、窓が北向きで日光があまり入らなかった。

色のことを考えると、自分は断然都ホテルの方が好きなのであったが、都ホテルで予約が取れないことがあり、そのときグランヴィアを使った。

 毎年のように会っているからか、驚くべき変化を見せる人はいなかった。二年ぶり、三年ぶりに会う人もあったのだが、それでも特に大きな変化を自分は感じなかった。自分自身の変化として特に気になったのは髪が白くなったことであった。髪が薄くなった友人がいた。しかしこの人の髪の変化に衝撃を受けていたのは二十代のことであった。四十代になると、この点は何も気にならなくなった。髪の量など、主として体質によるのであって、老化とはあまり関係ないのだという認識を培ったからである。

 自分は自身の髪が白くなったことを気にしていたので、妻が髪を黒く色づけする効果のあるリンスを買ってくれた。説明書きは週に三度ずつ使うことを推奨した。自分は最初の二週、週に三度使った。その後、週に一度使うこと四週、それからは月に一度くらい使った。せっかく買ってもらったので、義理立てする気持ちが働いたのであった。

 見た目にもそう変化を見せない友人たちだが、内面はなおさら高校時代と何も変わっていなかった。概ねみな非社交的な性格の者ばかりだ。それでいて仕事はそれぞれ恙なくできているのだろう、そこが不思議であった。


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