『姉』依存症の弟と、頑なにストックホルム症候群にかからない系お姉ちゃん
【後日談】久方ぶりの空
とっても懐かしい地上の生活を満喫していたのに、夜になると葵は急に息苦しさを感じることがあった。
長期間の誘拐、軟禁被害者として心療内科にかかっていたが、そこのお医者さんにも原因不明といわれてしまった。あえて言うなら、長いこと空気の薄いところで生活していた後遺症ではないかという。
それにしたって、昼間はちっとも不便を感じないし、なんだかおかしい。
そのことについて、アーヴィンからきた着信で相談した。彼は医術にも明るいから。
この着信は、アーヴィンが定期的にすると言っていたものだ。葵の動向を監視する目的に加えて、姉を求めて乱暴を働く弟の精神安定剤の目的も兼ねている。いざ会った時に暴走しないよう、空気を抜く目的も兼ねて葵はきちんと交信に応じることにした。
『エルロイが治してあげる』
「ほんと?!」
『エルロイを疑っている』
「あ、ううん、違うよ、そうじゃないの。ありがとう、エルロイ。近い内にそちらに行きたいけれど…」
アーヴィンとのテレビ電話の向こうには、まだ忘れられないドーラ号の人たちがちょいちょい映り込んでいた。
後ろの方で話を聞いていたらしいエルロイが、おそらくカメラのついたパソコンの前で座り込んでいたアーヴィンの前にずいっと割り込んできた。小柄な二人は狭い机の上で無言のまま手だけで攻防していたようだが、どちらも体力自慢ではないためか、すぐにバランスを崩してばたばたと後ろの方へ雪崩れていった。二人はお互いにとって貴重な同郷仲間のはずなのに、どうもそりが合わないらしい。
『マーク号を送ろう』
そんな二人を軽々と横にずらして、リーダが現れた。かにゃんとユノーが仲裁しているのが見切れている。
「じゃあ、約束の場所に行くようにするね」
『ああ、リネも喜ぶ。伝えておく』
葵の家の最寄りの空港において無人マーク号を着陸させる許可をアーヴィンがもぎ取ってきた。
事前に約束しておけば、その場に行けばマーク号が待っていて、乗ると同時に遠隔で空のドーラ号か特対の船まで運んでくれる手筈になっている。
そういえば、今日の通信にリネはいないようだった。
『いつ姉さまに電話するんだとしつこくてうるさくて鬱陶しかったので、罰として彼に外仕事をさせている間に通信しました』
『帰ってきたら泣いて悔しがると思う。俺は憂鬱だ』
してやった風に胸を張るアーヴィンの横でリーダは肩を落としていた。
ユノーもかにゃんも顔色が悪い。
なんだか悪いことをした気になってきて、葵は小さく謝った。どう考えても自分は悪くないとすぐに思い直したが、リーダが困ったように笑って「こっちの台詞だ」と言ったので、取り消すのはやめておいた。
***
久しぶりに見る特対の大広間は阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
なんとか精密機器は守り抜いたがそれ以外はもう諦めたという心境がありありと伝わってくるようだ。
パソコンを五台ほど抱えて仁王立ちするユノーの足元でリネが正座している。リーダも二台大きな端末を小脇に抱えて呆れたようにリネを見ていた。
「あっ、姉さま!」
死人のように青ざめて縮こまっていたリネは葵に気付くや否や大荷物を抱えた二人をすり抜けて駆け寄っていった。手を握られるぐらいは覚悟していた葵は可哀相な両手を犠牲にしようと前に出した。しかしリネはその手を潰すようにべったり抱き着いてきて、犠牲は手には留まらなかった。
「あー、姉さまだ! リネに会いに来てくれたんですね! 俺に会いに来てくれたんだ! ありがとうございます!」
「違うけど」
「ああ、この匂い、この髪…。変わっていません…。俺の姉さまだ」
髪を巻き込んで肩にぐりぐりと顔を埋められて、葵は身震いした。
踵で床を小刻みにならして助けを呼んだが、辛うじて姿を確認できたかにゃんは微笑ましい顔でこちらを見ているだけで、どうにかしようという気概は感じなかった。
「邪魔です」
「アーヴィン! 助けて!」
「この惨状が目に入らないのですか。我々は片付けで忙しいのです。あなたがた無能姉弟のために」
ジャックに運ばれながら部屋に入ってきたアーヴィンは通りざまに葵とリネの肩をまとめて横に押し退けて奥へ進んでいった。
ようやく形を取り戻したアーヴィンの定位置たる机の回復と同時に戻ってきたのだ。
後ろから続々とドーラ号の団員達も入ってきて、口々に葵に久しぶりの挨拶をかけながら修繕した机やいすを運び込んできた。
「葵、症状は分かっている。エルロイが治してあげる」
最後にエルロイが入ってきて、リネに捕まったままの葵の服の裾をちょいちょいと引っ張って存在を知らせた。
それでようやく姉が何がしかの病気にかかっていたのだと知ったリネは、慌てて姉から離れて体を隅々まで見ようとした。膝下ほどのスカートを持ち上げようとしたところでかにゃんが飛んできてくれて、葵はやっと自由を得た。
「待ちなさい。私が診ます」
エルロイと手を取り合ってドーラ号に帰ろうというところで、アーヴィンが声をかけてきた。
慌ててジャックがアーヴィンを持ち上げて、葵たちのところまで寄せてくる。
「エルロイが診る」
「あなたは確かに薬には明るいですが、まずは医術的見解から症状を確認するのが先です。私が先に診ます」
「それなら、ハムに診てもらえばいいですよ! ハムは天才なんです」
小さな二人のギスギスした空気なんてまるで気付かないらしく、リネは自分の仲間を誇るようにして胸を張り声を高くした。当然の如く無視されていた。
ジャックはアーヴィンを掲げたまま床に膝をつき震えていた。葵はとにかく彼が不憫に思えて仕方なかった。
「………ふうん。いいよ。葵、エルロイのところに遊びに来るよね?」
「行くよ、もちろん。今日はエルロイに会いに来たの。アーヴィンの診察で解決しても、エルロイに会いに行っていいかな?」
「来たいなら来てもいいよ」
あまり感情を表に出さない小さなエルロイの機嫌の向上に成功して、葵は安心した。
まったくこんな小さな子を相手にアーヴィンも大人げない。実年齢はどちらも判然としないが。
「診察するって理由がなければ関係できない人に立場を譲ってあげる」
「世界的権威を持つ私に対していい度胸です」
アーヴィンはジャックの頭部を肘鉄し、エルロイは尖った足先をかつかつ鳴らしながら去っていった。
「喧嘩しないの」
「あっちが売ってくるんです」
「エルロイが喧嘩を売るはずありません。アーヴィンが悪いです」
よく状況を理解していないくせに口を挟んできたリネに、アーヴィンは仕事を言いつけた。
今日は一日姉と過ごすと言い張り続けたが、部屋を荒らしたことも悪かったのか、ユノーが怒りの表情でリネの襟首を掴んで引き摺っていき、葵は心なし早歩きで特対の医務室へ移動していった。
***
「これは中毒症状です」
「ああ…、空気の薄いところにいたから、というやつ? お世話になっているお医者さんも言ってた」
「いえ、薬物による中毒です」
葵はしばらくきょとんと目を瞬かせた後、椅子から立ち上がって「そんなまさか」と絶叫した。
「わ、私、薬物なんてやらない!」
「でしょうね」
「信じて、アーヴィン!」
「麻薬等の強依存薬物ではありません。おそらく、横になるなどの体制変化によって脳に中毒を示すシグナルが送られる神経作用のものでしょう」
「そ、それは違法なものなの? 私ったらいつの間に? 確かに政府の方に勧められて精神的な病院にお世話になっているけど、薬を投与するほどではないと言われているの。実家に帰ったから食事も親とほとんど同じものを食べているし、それに…」
混乱から興奮する中で、自分が無実であることの弁明と何が原因かの推測をぺらぺら喋り始める葵を、アーヴィンは少々面倒そうに眺めていた。
息切れしたところで座るように命じると、葵は体を丸く縮めながらしゅんとして椅子を寄せた。
「既存の薬物ではないでしょう」
「合法ですか?」
「個人的に作られたものだと思われます。あなた、地上に戻る前に、誰かに薬物を投与されませんでしたか? まあ、その能力を持っていそうな人物は一人しかいませんけれど」
途端に葵の心は落ち着きを取り戻した。
凪いだ海のような心地だ。
真相が分かると、人の脳はすっきり晴れ渡るのだと、葵は身をもって知った。
***
あまりに珍しい光景に、やじ馬がわらわら扉の外に群がっていた。
エルロイが怒られるなんてドーラ号始まって以来ではないか。リーダも叱る口調があまり流暢ではない。
いつも通りの表情で床に座るエルロイはふてぶてしくも見える。足の構造上正座が難しいということで山座りしているせいもあるかもしれない。
「何でリネまで?」
「エルロイの行いに対して『何が悪いのか分からない』と言ったせいらしいよ」
野次馬に交じっていたかにゃんとマーロの声がひっそりと聞こえてきた。
床に座らせられる二人の後方で成り行きを見ていた葵は、いよいよこの光景を見続けるの忍びなくなってきた。リネはともかく、エルロイが自分のために怒られているなんてひどい虐待のように思える。
「まあ、ほら、リーダ、私、そこまでひどくなかったし…」
「甘やかさないでくれ」
「被害者本人がこう言っている」
「加害者の自覚があるんだな?」
立ち上がろうとしたエルロイの脇に手を差し込んで、リーダが元通りの場所にちょんと戻した。
エルロイは首を傾げながらリーダではなく葵を目だけで見上げている。葵の心はすっかり食われてしまった。
「エルロイはもう一度葵に帰ってきてほしかっただけ」
「よくわかります、エルロイ!」
「そんなことしなくても会いに来るよ!」
姉弟が揃って声を上げたのを合図にリーダの心も折れた。
議員の監禁から戻ってきて治療を受けている葵に対して中毒症状を誘発する薬を投与するだなんて、どの角度から見ても許されざる行為だが、当の本人が許してしまているなら外部があれこれ言う話でもない。
「この香炉から出る煙をしばらく浴びる」
「しばらくってどれくらい?」
「200時間くらい」
「エルロイ、正座しろ」
何も連続して200時間とは言っていないと不貞腐れたが、それで良しとはならない。
葵は香炉を浴びに何度かドーラ号に戻ってこなければならないのだ。そして数時間のまとまった時間を過ごさなければならない。
「あらあらまあまあ」なんて笑っている場合じゃないと被害者に自覚してほしい。
「薬を浴びる目的じゃなくても、エルロイに会いに来てもいい?」
「………いいよ」
「ありがとう」
「姉さま、俺は…?」
でも、その葵のおかげで、再犯はなさそうだ。
二人にすっかり蚊帳の外にされている弟が今にも悪事を働きそうだが、それはいつも通りなので一先ず放っておいていいだろう。
葵はその後五時間ほど香炉を焚かれた部屋で過ごし、代わる代わる訪ねてくるドーラ号の団員たちと近況を話し合うなどしたようだった。
かにゃんにもマーロにも、まあ、リネにも、皆に会いたいから、何もなくてもまた遊びに来るという葵の言葉に、それぞれがそれぞれの形で喜びを返していた。色々なことがあったけれど、ここまで訪問を喜んでくれるなら、葵も喜んで再びここに来ようと決意した。
***
夕飯まで済ませてから、葵は地上に帰っていった。
真っ暗な空が一面に広がる大部屋で、リネの目の前に薬瓶が置かれていた。
それを見てリネはごくりと息を呑んだ。上下する彼の喉をアーヴィンは膝の隙間から上目で睨むように見つめていた。
「これを飲めば葵は別に香炉を浴び続けなくても症状が改善します」
「売ってください! 棄てます」
リネは机に頭を打ち付けて土下座した。卓上に座り込むアーヴィンと向き合うために彼も机に乗り上げて正座していたのだ。ゴンッと鈍い音が広い部屋に響く。
「よろしいですよ。対価は働きで示してもらいます。明日はかの国の犯罪組織壊滅の陣に参加してもらいますし、明後日は缶詰でハッカーへ漏洩するための偽造データの五者確認作業に加わってもらいます」
「何でもやります。何でもです」
「それから、今後葵と会うときはドーラ号ではなく特対の船の方で会うように」
「えっ、何故です」
「要らないんですか?」
「やらせてください!!」
一方、ドーラ号では―――
「エルロイ殿、奇抜な色の煙が医務室まで漂ってきておりますが…」
「邪魔しないで、ハム。アーヴィンに分からない程度の効果を出す薬を再開発中」
「飽くなき探求心、素ン晴らしい。な、な、何か手伝いを」
空に住む者には人の心を信じるという理念の構造は理解しきれないようだ。
安心してぐっすり地上で休む葵に、その心理は理解しきれないだろう。