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炎灯理とアマゴイリュウ  作者: 狭倉朏
第1章 アマゴイリュウ
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第8話 轍鮒の勇

「昔々、この世界がまだ荒れ狂う海だった時代に、一人きりの王様が海に向かってお願いしました――」


 炎が語ったのはお護り使いでなくともこの国の人間なら誰もが知っている創世神話だった。しかしスイはもちろん知らなかった。


「――そして王様の美しかった妻もクチナワとなってこの地上をうねり歩くのです」

 

「……だから海から来る女は白無垢の少女なんだ。俺たち『蛇』(クチナワ)にとって、それはお護りの源泉を司る。お前の母親もまた『蛇』(クチナワ)によってクチナワという名の女神にされようとしていたんだ。だから逃げたんだろうな……」


 二人は泉を見つめていたがスイの両親の遺体が荼毘に付された以外に何の変化もなかった。


「……水は湧いてこねえか」


 重々しく炎は言った。


「……はい。湧いてきませんね」


 スイはどこか吹っ切れた気持ちと残念な気持ちが混ざり合う笑顔でそう言った。

 打つ手がない。万策が尽きた。スイ・ウォータープルーフに決断をさせておきながら、炎灯理は事態を解決に導けなかった。

 無力感と敗北感で胃が沸き立つ思いだった。


『もうよかろう』


 慰めるような鯉の言葉が神経を逆なでする。逆鱗に触れる。炎は虚勢を張る。


「……諦めてたまるか。諦めるものか。たとえ何も思い浮かばなくたって、まだ何も失っちゃいないんだ。あの村はまだまだこれからなんだ。もういいなんて誰にも言わない。俺は前進する。時間はある。村人達に一時避難をさせてでも、俺はここを諦めない。枯れた川を諦めても渇いた村を諦めない」


 炎灯理は立ち上がった。


「炎さん……」

『どこにいく』

「……この山でやれることはすべてやった。排除すべきものは排除した。下山する。リュウ達は疎開させる。『蛇』(クチナワ)の学者共に応援を呼ぶ。俺はなんとしてでもあの村に水を呼ぶ。世界には多くのお護りがある。探せばどこかにこの状況を打開するものもあるはずなんだ。そのためにどれだけの時間をかけようと、これは俺の仕事だ。俺が成す」

『……うん。お前は強い男だ。だからもうよかろう』

「よくない」

『いいや。よいのだ。もうよい。人間。ここから先は神に任せよ』

「神?」


 それはここにいないものだ。炎にはいなかったものだ。スイにもスイの両親にもいなかっただろう。


『私という名の神に任せよ』


 それは鯉が選ばない在り方だ。傘子愛海愛にそう言った。言っていたはずだ。


『鯉は川を登りて龍となるのだ。雨降らしの龍がこの山を避けようとも、雨降らしの龍がこの山で生まれるなら避けるもなにもない』

「それは……登竜門……?」


 炎は理解した。


『そうだ。そしてその儀式はすでに成った』

「鯉神様……」


 スイも鯉の言うことを理解したようだった。


『お前たちが幽霊を排除したおかげで登りきるべき道はひらけた。あの穢れは軟弱な野良お護りの私にはとうてい排除し得ないものだった。しかし今なら、私は川を登れる。登りきることが出来る。そして私が雨降らしの龍へ転じよう』

「神になんてならないって言ってただろう鯉野郎」

『うん。そのつもりだったが気が変わった』


 鯉は軽い拍子でそう言った。


『お前たちのがんばりが変えた』


 少年少女を優しい瞳で見つめた。


『お前たちの成したことは無駄なんかじゃなかったんだよ、炎、スイ』


 鯉に名前を初めて呼ばれた気がした。


『かつてあの若者は報せろと願った。それはあまりにささやかな願いだった。叶えたところで解決には至らない。若者は危機がこれほどのものとは知らなかったのだ。無理もない。しかし儀式の発端は開けた。わしは登るべき川の下流へと進むことができた。人間に危機を報せるために』

「他にないのか。方法はないのか。だってそれは生き方を変える決断じゃないか。今までの生き方を変えるなんて……そんなのは……そんなのはだって……苦しいだろう……?」


 炎の人生はたかだか十八年。その中のたった八年の生き方すら変えるのは辛かった。鯉の生涯はもう三千年だ。想像も及ばない年月だ。


『優しいな、お前……わしをことあるごとに燃やしてたのはなんだったんだ?』

「……優しくなんてない。俺はただ嫌だと思っただけだ……わがままを通そうとしているだけだ」

『炎が望まないなら仕方ない。スイ、お前さえ願ってくれればわしはそれに応えられるのだが……』

「……私は炎さんが望まないことをしたくはありません」


 スイは俯いた。


「炎さんには恩があります。その炎さんが否定することは望めません……ごめんなさい鯉神様……」

「……」


 筋道は定まった。

 それぞれの立場は出揃った。

 今、決断は炎の両肩にある。

 選べる状況。

 しかし実質的には選択肢は一つしかない状況。

 一つの道を誰かに押しつける状況。


「呪いだな……鯉に雨降らしの龍となって行き続ける道を選ばせる。そんなのは呪いだ」

「……炎さん」

「母さんのことを憎めない。俺は母さんと同じことをしなければいけないのか」

『それでもそれはわしが選んだことだ』

「……そしてこれは俺が選んだ生き方か」


 炎灯理は決断した。


「霊山に住まいし鯉よ。山を頂まで登ることで川を上るのと同じ結末を得た鯉よ。今ここに登竜門の儀式は完遂した。儀式に帯同した人の子として貴殿に頼もう」


 護り神への願いの言葉にふさわしいものがそこにはあった。


「我らの喉の渇きを潤す泉をおくれ」 

『心得た』


 鯉の体が光に包まれた。

 目を瞑らずにはいられないまばゆい光。

 その光は次第に大きくなり、そして空へと駆け上がった。

 炎とスイはそれを見上げた。

 霊山の遙か上、空の上に巨大な灰色の塊があった。

 そしてそこから何かが落ちてきた。

 それは大量の水だった。

 その水の名を炎灯理は知っていた。

 その水の姿をスイ・ウォータープルーフは初めて見た。

 だから炎が教える他なかった。


「雨だ」


 雨降らしの龍に避けられ続けていた霊山に雨が降り注いだ。

 その雨量は次第に増していく。

 何年、何十年、何百年、何千年ぶりかの雨。

 その雨は泉のあった亀裂にまずは流れ込んだ。

 泉を満たしても雨は止まない。

 泉から水が溢れてくる。それでも雨は止まない。

 炎たちの足元を水が濡らす。それでも水は止まらない。


「炎さん……あの……これ……なんというか……まずいのでは?」


 スイの顔面が青ざめていく。

 炎の心境も似たようなものだった。


 止まらない。水の勢いは止まらない。上から何千年分もの降り注ぐ雨は次第に川だった亀裂から氾濫した。


「……逃げるぞ!」

「はい!」


 炎とスイは山道をつんのめるように駆け下りた。

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