時間と身体は刻まれ続けし
「しかし‥‥本当に良かったのですか?」
心配そうに、清三郎が尋ねる。
浮舟が啖呵を切った『絵が売れるまで、浮舟が立て替える』の条件として女将が提示したのは『飯・酒等の接待はなし』と『他の客がひとりでも着くまで』だった。
遊郭としての判断とすれば、それは最大限の譲歩と言えよう。
場所は、前と同じで『墨田の間』である。
「別に、構まんせん。わっちが自分で切った啖呵でありんす。気ぃにせず、思い切り描いてくんなまし」
急いで絵筆の準備をする清三郎を見ながら、静かに浮舟が答える。
「‥‥恩に着ます」
小さな声で、そう言うと。
清三郎は懐に手を入れ、何か細い『鎖』のようなものを差し出した。
「『質草』が何も無いのも申し訳ないので‥‥こんな物しかありませんが、小生が金子を用意出来るまで預かって頂けませんでしょうか?」
「‥‥これは?」
不思議そうな顔で浮舟が『それ』を受け取り、繁々と見つめる。
「すいません。どうも『銀製』のようなのですが、小生にも『それ』の詳しい来歴は分からないのです。ただ、『ずっと伝わって来た』という事だけしか」
申し訳なさそうに、清三郎が頭を下げる。
「まぁ‥‥よぅ分かりんせんが‥‥でも『大事な物』なんでありんしょ? わっちが持ってても良いでありんすか?」
『伝来品』となれば『安い』物ではあるまい。
まして、食うに困っても手放さずに持っていた代物だ。かなりの思い入れがある品と見ていいだろう。
少し困惑して尋ねるが。
「はい。是非、持っててください」
『大事な物を手放した』というのに、それでも何処か清三郎の顔は嬉しそうに見えた。
今宵、清三郎の筆は前回とは様子が異なっている。
浮舟の『部分』ではなく『全体像』を捉えようとしているのだ。
墨を薄く溶き、細い筆でいくつも下絵を描いていく。
その中で『これは』と思う構図を見つけると、もう少し筆を進めてみる‥‥
只管にその繰り返しだった。
清三郎の額に、汗が滲んでいる。集中しているのが良く分かる。
だが。
浮舟は考える。
何故、そこまでして『浮世絵版画』に拘るのだろうか‥‥と。
その腕は『美人画としてなら』と版元に言われるほどだ。ならば、そのまま肉筆絵師として立身出世を目指せば良いようにも思えるが。
まして世の中には『写真』なる新しい技も出て来ており、版画も『廃れて』いると言っても決して過言ではない。‥‥傍目には、先が明るいとは言えない選択に見えよう。
ふぅ‥‥と、清三郎が一息入れたのを見計らって浮舟は尋ねて見ることにした。
「ひと息、つきなんし。あまり根を詰めると身体に悪いでありんすぇ」
少し、やつれたような顔をして清三郎が微笑む。
「お気遣い、かたじけないです」
「清さんは‥‥言葉使いが『古風』にも思えんすが、出はどちらなんでありんすぇ?」
少し、探りを入れてみる。
「はい‥‥元々、小生の父は尾張藩の江戸詰め役人で十人扶持をしておりました。ただ、小生は幼少から江戸におりましたので尾張はよく分かりませんが‥‥」
なるほど、武士の出か。それで、いちいち言葉が『固い』と。
或いはその『生真面目さ』も、侍としての挟持の名残りと呼ぶべきか。
「そうでありんしたかぇ‥‥お侍さんでありんしたか」
「いえ‥‥小生が元服する前に、幕府は大政を奉還されました故。小生自身は『侍』とは言えません」
これが『侍』なら自分の事を『拙者』とか『それがし』等と呼称する処であろうが。ワザワザ聞き慣れない『小生』を名乗っているのも『自分は武士ではないのだ』という表れかも知れない。
清三郎が、再び筆をとる。
「‥‥父は昔から浮世絵版画を好んで集めていました。小生も幼きころからそうした姿を見て育ちましたので、自然と浮世絵が好きになりました。それと、小生は次男坊にて跡目には関係ありません。
なので父が尾張に戻る際に『好きな道に進むがよい』と言い渡され、ひとりで江戸に残り、絵の道に進むことに致したのです」
しかしながら職方や商売人も同様であるとはいえ、芸の道は決して平坦ではない。
また、一握りの天才が『ほぼ全て』の称賛と報酬を独占し、その他大勢は『塵・芥』の扱いを受けるのが『この世界』だ。
ここまでの間、その苦難の道のりは『順風満帆』とはほど遠いものであったに違いあるまい。
さればこそ激流に研鑽されての、『あの腕』なのだ。
「そうでありんしたか‥‥苦労していたんでありんすねぇ‥‥」
「‥‥いえ」
清三郎が短く返す。
「皆さんに‥‥助けてもらって‥‥『やっと』という体たらくです。現に今でも、こうして浮舟さんに助けて貰ってますし、女将さんにも感謝しております。それに‥‥伝助さんにまで気を遣ってもらって」
「伝助さんは‥‥この界隈が長きでありんすから、色々と見聞きしていんす。遊郭で身を持ち崩す御仁も少なくないでありんすからぇ‥‥」
その二人が特にそういう会話をしている処を見かけた事はないが、『母親』とされるキヨ婆も、昔は遊女の一人だったと聞いている。
身体を壊して引き篭もっていたところを、女将が『新たに店を構えるから』と燕楼に呼んだのだ。
時代が明治になったとて。何しろ、世間は弱者に対して容赦がない。
『稼ぎ』が無くなれば、そのまま野垂れ死ぬ他ないのだ。
『一歩間違えば奈落の底まで一直線』
それは、野山で暮らす熊や鹿といった獣の世界と何ら違いはない。
ひとたび落ちぶれたならば、そこから這い上がるのは苦難を極める。
そうした『苦難』は清三郎も、伝助やキヨ婆も、いや‥‥浮舟とて多分、皆が同じ土俵の上なのだ。普段は『見ないように』しているだけで‥‥。
「どう‥‥いたしんす?何なら‥‥」
浮舟が水を向ける。
今はそこまで厳格ではないが、昔の遊女とて『三回通えば馴染み』として床を共にするのが通例である。無理矢理に解釈すれば、清三郎が燕楼にやってきたのも『三回目』と言えなくもない。
が、しかし。
「いえ‥‥お気遣い、感謝いたしますが、お気持ちだけで結構」
清三郎は首を横に振った。
「小生は『接待なし』の身分。それに、なるべく『絵』の方に時間を使いたいので」
「そうでありんすか‥‥」
少々残念な気もするが、清三郎がそう言うのなら仕方ない。
だが‥‥
清三郎の筆は先程から明らかに止まっている。
疲れたのか、それとも行き詰まっているのか。
半紙に眼を置いて、じっと固まっている。
「‥‥少し、失礼いたしんす」
そう断って、浮舟は別室から三味線を持ってきた。
「‥‥この前、じっと座っていたら寝てしまいんしたので。少し稽古に付き合ってくんなまし」
テンテン‥‥テン‥テンテン‥‥
軽く、三味の音を響かせる。
あまり大きな音を出すと周りに迷惑にもなろうが、この程度なら構うまい。
清三郎はじっと、その浮舟が弾く姿を眺めている。
「‥‥お上手ですね。流石です」
「そうでありんすかぇ?ありがとうございんす。禿(遊女見習い)の頃から小梅姐さんにみっちり教えて貰いんしたので」
狭い部屋の壁に、三味の音が沁みる。
「もう‥‥長いのですか?その‥‥此処のお暮らしも」
清三郎が尋ねる。
本来であれば、その類の質問に真っ向から答えるのは無粋と言えよう。
何故なら、そこに『聞いて楽しい話』なぞ、ありはしないのだから。
‥‥そう思わなくも無かったが。
「‥‥わっちは、七ツの頃から此処の世話になっていんすから‥‥十年にもなりんす。もう‥‥故郷の事もよぉ覚えていたしんせんぇ‥‥」
正確に言えば。
全く覚えていない訳ではない。
そう、自分がお金で『売られた』という事実だけは明確に記憶している。
田舎で飢饉と戦う、とは『そういうもの』なのだと。幼かった自分には、その境遇を黙って受け入れる他無かった。
「‥‥。」
最前より、清三郎がじっと下を向いて黙っている。
何やら、様子がおかしい‥‥?
「清‥‥さん‥‥?」
浮舟が心配して顔を覗き込もうとした瞬間、
突然だった。
清三郎は跳ねるようにして畳を蹴り、ガラリとばかりに障子を開けた。
そして。
「ぐぇぇぇぇ‥‥!」
苦しそうに、うめき声を上げる。
「なっ‥‥!何がありんした!」
慌てて駆け寄ると。
地面がドス黒く染まっているのが見える。
喀血だった。




