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燕は新たな宙を目指すべく

『清三郎』はワナワナと震えている。

「馬鹿な‥‥そ、そんな事をしたら‥‥浮舟さんは‥‥『己』を失うのですよ!?」


だが、浮舟はにっこりと笑って『清三郎』を見つめる。


「心配しんでくんなまし。多分‥‥それが一番良いでありんしょう。わっちは、清さんが『好き』でありんす。‥‥確かに、伝助さんの言うように遊女の『好き』は商売道具でありんすが‥‥それでも『本気の好き』もありんすぇ‥‥」


そっ‥‥と、浮舟が『清三郎』の冷たい手をとる。


「そしたら、清さんとわっちは『ひとつになる』んでありんしょ?そんな事はどれほど仲の良い夫婦(めおと)とて、出来んせん。なら、それ以上の‥‥幸せな事は此の身ぃにありんせんぇ‥‥」


ポタリ‥‥

浮舟の握る掌に、『清三郎』の涙が滴り落ちる。


「さ‥‥早よぉ‥‥『その生命』が尽きんうちに」




女将が『浮舟』に呼ばれたのは、まだ深夜の頃だった。


「こ‥‥これ‥‥は‥‥」


中庭に面する縁側で突っ伏したまま、冷たく息を引き取った『清三郎』に女将が絶句する。

おずおずと浮舟が女将の袖を引き、中庭に溜まった『血溜まり』を指し示す。


「うっ‥‥!」

女将が息を呑む。


間違いなく、『肺病の証』だ。


「わ‥‥わっちが気づいた時には‥‥」

浮舟の声は震えていた。


「何という事に‥‥」

女将は両手を合わせ、静かに祈りを捧げた。


「こんな事になるだなんて‥‥」

さしもの女将も、落胆の色が隠せない。


『ひとり』なら、まだしも。『ふたり』続けて死人が出たともなれば、燕楼に来る客が激減しても不思議はない。今後、やって行けるかどうか‥‥


浮舟が、掴んでいた袖口を離す。


「すいんせん‥‥とんだ迷惑を‥‥『こうなった』以上、わっちにも『感染った』と思いんす。とても、小見世に出れる身ぃではありんせん。鳥屋に‥‥行ってきんす‥‥」


大門の内は警護が厳しい。

俗に『足抜け』と呼ばれる遊女の脱走を見張るためだ。


しかし、鳥屋は吉原の外れで警護も緩い。

『出る』には、それしかなかろうとの考えだった。

が‥‥


「‥‥『鳥屋』だって?ダメだね‥‥認められんねぇ、そんなのはさ」


ん‥‥?

浮舟が顔を上げる。


「『そんな真似』をされた日にゃぁ、『燕楼からまた死人がでて、女郎が鳥屋に行った』と噂になって‥‥金輪際、客が来なくなっちまうじゃぁないか。そしたら、『どうする』のさ『この店』は?」


流石に怒ってるな‥‥


昔は『鳴らした』と言われる遊女上がりの女将さんは、今でも常日頃から『(くるわ)言葉』を使っている。それは、どんな時でも遊女が客前で『お国言葉』を使わないようにするための習慣づけなのだ。


だが、今は『それ』がない。

それはつまり、もはや浮舟を『遊女』として見ていない事を意味している。


「‥‥すぐに伝助を起こしてきな?『この人』を簀巻(すま)きにして玄田先生のところへ持ち込むんだ。それで、内々に『消えた』事にしてもらうのさ。さ‥‥早くおし」


う‥‥そう来たか。

確かに。この燕楼を『守る』には、それしか方法が無いかも知れない。いくら小さな遊郭とは言え、それで飯を食っている人間は多く居るのだ。その人達を犠牲には出来ない。


「はい‥‥」

仕方あるまい。別の機会を目論むか‥‥と思った時。


「ああ、それと。‥‥『アンタ』も良く働いちゃぁくれたけど、それも今日までだ。‥‥分かるだろ?『間夫』と駆け落ちた筈の遊女(あそびめ)が、店に居るのは可怪(おか)しいからさ」


‥‥なるほど。

そういう『筋書き』にするのか。


そうして晴れて二人は『厄介払い』と‥‥

気の晴れぬ処も無きにしも非ずではあるが。


多分、それで『良し』とすべきなのだろう。それで‥‥


浮舟は、深々と頭を下げた。

「はい‥‥お世話になり‥‥ました」


『慣れない』廓言葉を使わない方が、今の自分には有り難い。


「さて‥‥分かったら早く支度しな。伝助が始末をしている間に、アンタは急ぎ髪を下ろして伝助に服を借りるんだ。それで、簀巻きと共に逐電しちまうんだよ」


女将はそっぽを向いてるが。

その心遣いは痛いほど伝わってくる。


「ありがとう‥‥ございます」

小声で返事をすると、浮舟は急いで伝助の寝床へと向かっていった。




翌日。

浮舟が『駆け落ちた』との噂は吉原中に、あっという間に広がっていった。


燕楼の前を行き交う人々が、物珍しそうに格子の中を垣間見て行く。

女将は、小見世の奥に陣取ってその賑やかを聞いていた。


「本当に‥‥アレで良かったんですかい?」

伝助が小声で女将に尋ねる。


「何が、でありんすか?」


「いや‥‥何のかんの言ったところで『アレ』は実質、『年季明け』じゃぁありやせんか。確か浮舟はまだ十七だったはず。年季までは七、八年とて残ってましたぜ?何かこう‥‥手があったんじゃぁ‥‥」


やや不服そうな伝助を横目に。

ふふ‥‥と女将が笑って見せる。


「いいでありんすよ、別に。どうせ『置いた』ところでヘンな噂のひとつも出た日にゃぁ、この店に悪い事しか起きないんでありんすし。そんな事より‥‥」


昨日の雨の反動だろうか。まだ陽も高い内だと言うのに、通りに客足が増えている。


「『あの娘』は、よくやっていんしたろ?皆んなが嫌がった異人さんの相手とか、銭にもならないの男の相手とかねぇ。それでも『あの娘』は禿(かむろ)の頃からそうだったけど、何の不平不満とて言わずに働いてきんした」


女将の横顔に一抹の寂しさを、伝助は見た気がする。


「人間はなぁ‥‥頑張ったからと言うて、必ずしも報われるとは限りんせん‥‥天の神さんの気まぐれで、不運に陥る事もありんす。けどなぁ、伝助」


「はい‥‥」


「天が見てないでありんしたら『それ』は周りが見ててあげんと‥‥『アチキは、(ぬし)が頑張ってるのをチャンと見ててありなんす』って‥‥天の代わりに報いてあげんとなぁ‥‥それが大人としての役割やと‥‥思いんすがねぇ‥‥」



やがて、今宵も燕楼の提灯に明かりが灯った。

今日もまた、吉原の一日が始まるのだ。


そう、何事も無かったかのように‥‥



浮世絵の世界に、それまでとは全く異なる『市井の人々の生き様』を描く新進の絵師が現れた、と‥‥

吉原にも噂が聞こえてくるようになったのは、それから暫くしてからだった。



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