遊郭に夜の帳が訪れる
浮舟は退屈していた。
大通りに忙しなく行き交う人の流れを、細い格子の隙間からぼんやりと眺める。
大門に掛かる陽も低く沈み、そこ彼しこで提灯に淡い明かりが灯り始めていた。
‥‥今日もこれから、吉原の一日が『始まる』のか。
遊郭の一日は日暮れと共に始まって、夜明けガラスの鳴き声で終わりを告げる。
毎日が、その繰り返し。
『それ』は元号が『慶応』から『明治』に替わって十数年が経った今でも、何も変わりはない。
武士の世が終わって何が変わったかと問われれば、せいぜい客の頭に丁髷が無くなった事と、大店の旦那衆が以前より偉そうにしている程度の話だと思う。
後は同じだ。自分たちの『役目』も以前と変わる事は無かった。
相も変わらず『籠の鳥』‥‥
ふぁ‥‥
目立たないように、ひとつ欠伸をする。
小見世の座敷‥‥その一番奥が此処最近、浮舟の『定位置』になっている。
女将には『いっそ、小見世に出るのを控えようか』と申し出もしたが、「女郎は人目についてこその女郎」と、首を縦には振ってくれなかった。
仕方なしに、なるべく外から見え難い奥に控えてはいるが‥‥
「あらぁ、今日はまさかの『素通り』かい?芳乃屋の旦那。好かんお人やねぇ。寄って行ってもバチは当たりんせんぇ」
姐さん達が格子越しに、客の気を引いている。
「ははは、生憎と付き合いがあってな。また今度、小梅の三味線を聴きに寄らせてもらいますよ」
カランコロンと下駄の去っていく音がする。
「やれやれ、芳乃屋さんも『引きんした』か‥‥溜息が出るねぇ‥‥」
独り言に聞こえなくもないが、『それ』が自分に向けられた『嫌味』であることは浮舟にも良く分かっている。
だが、とは言うものの。
こればかりは『仕方のない話』だと諦めざるを得ない。
あれは十日ほど前の事だった。
馴染みの客が、ひとりの異人を伴ってやって来たのだ。
髭を傭えた白髪碧眼の歳嵩で、偶々用事があって日本に来ていたらしい。
馴染みの客が言うには『折角の日本だから浮世絵に描かれているような女性に会ってみたい』と頼まれ、連れてきたという。
明治維新からこっち、街に異人を見ることも決して少なくはなかったが、それでも燕楼に異人客を迎えるのは何しろ初めての事であった。
他の遊女達がオロオロと顔を見合わせる中、「ならば自分が」と浮舟が相手を買って出たのだ。
ところが。
『異人は見た目で歳がわかりにくい』と聞いてはいたが、それなりに相当の年齢だったと後から聞いた。
それが災いしたのかどうかは定かではないが。
ともかく次の日の朝、その異人客は布団に入ったまま冷たくなっていたのだ。
お陰で、その日は警察やら何やらが大勢やってきて商売にならなかったと記憶している。
‥‥問題は『その後』だ。
遊郭で散財してくれる『大店の旦那衆』は、商売柄『縁起』をとても大事にする。
故に『死人が出た楼』に、彼らが及び腰なるのは当然の流れだと言えよう。
どうしても客足が。特に『お大尽』の足が遠いのだ。
女将こそ「何、所詮は人の噂も七十五日。そのうちに薄れおすから堂々としてて構いんせん」と素知らぬ顔だが、『上がり』が伸びない女郎の側としては愚痴のひとつも言いたいところではあろう。
そんな事をあれこれ考えているうちに。
何時の間にやら夜もとっぷりと暮れ、小見世に居た仲間の遊女達もどうにか今宵の客を定めて各々部屋へと消えて行った。
「‥‥。」
辺りを見渡すと、表座敷には自分しか残っていない。
表通りからは賑やかな笑い声や三味の音が聞こえくる。客が落ち着き出したのだ。
‥‥今日はもう終わりだな。キヨ婆の処へ行って飯炊きの手伝いをするか‥‥
当分の間は『自分』に買い手が付く事はないのだから、これ以上じっと座っていても仕方があるまい。
浮舟が腰を上げる。
その時だった。
ガラガラ‥‥
前触れもなく店の戸が開いた。
「あの‥‥御免下さい。こちら、燕楼さんとお伺いしましたが?」
どうだろう。年の頃なら十七・八歳といった処だろうか。身なりも粗末な如何にもウダツの上がらぬ風体の、若い男だった。
「へぇ‥‥確かに、燕楼は此処でありんすが‥‥文使い(郵便屋)さんで?」
浮舟が聞き返す。
あまりに場違いな印象を観るに、一見して『客』とは思えなかったのだ。
「いえ‥‥此処に『浮舟』という方がおられると聞いて、やってきました。本日はお見えでありましょうか?」
自分の知らない顔だ。
浮舟は少々怪訝な顔をするが。
「あの‥‥『浮舟』は自分でありすんが。何かご用向がおありんすか?」
「あ‥‥こ、これは失礼しました」
男は顔を赤らめて下を向いた。
「あの、その、」
手荷物を両手で抱えたまま、そわそわしている。
ははぁ、これは‥‥。
遊郭へ初めて足を踏み入れた男に『よくある仕草』である。何をどうして良いのか、作法が分からないのだ。
参ったな‥‥『これ』は、あまり期待にならんわ‥‥
思えば。それが、最初に清三郎を見た印象だった。