プロローグ
「あ…暑い……」
七月の炎天下の中、僕はリクルートスーツで街中を歩いていた。というのも、ついさっきまで会社の採用試験を受けていたのだ。
「なんで、この蒸し暑い夏に全身真っ黒の服で選考を受けにいかなきゃならんのだ……」
そう思いながら、僕はカフェを探していた。採用試験で何を聞かれたか、どう答えたのかを覚えているうちにまとめておきたかった。しかし、どこのカフェも満席のようだ。自分と同じようなリクルートスーツ姿の人が何人もいた。
「考えることはみんな同じか…。こんなにも暑いもんな。」
スマートフォンを見ると時刻は午後三時、気温は三十三度。ちょうど小腹がすいてきた頃合いだ。どこかで軽いものを食べたいという衝動に駆られた。
「早いとこ座れるカフェを探して、落ちつきたいなぁ…」
僕がカフェにこだわる理由は一つ、カフェの空間が好きだからだ。ちょうどいい会話の雑音とコーヒーの香りは眠たくならず、集中できる環境だからだ。と格好よく言っているが、本当は某カフェでパソコンを開けて仕事をしている社会人ってかっこいいなと思って真似したところ、普段よりも作業が捗ったのが始まりである。あと、夏場は無線と冷房設備が整っているので大変重宝している。
「どこもかしこも満席か…。路地の外れとかに無いかなぁ。」
今歩いている大通りから路地に入り、五分ほど歩いているとカフェらしき看板が見えた。
「やっと見つけた、ふむ、cafe No.8っていうカフェなのか。」
なんで八番目なのかは分からない。が、とりあえず入ってみることにした。
「いらっしゃいませ。」
入り口の扉を開けると、女性の声が聞こえた。
「何名様ですか。」
「一名です。」
「お好きなテーブルへどうぞ。」
声の主は初老の女性であり、おそらくこの人がオーナーなのだろう。エプロンに三角巾を着けており、小学校のときに会った給食のおばちゃんみたいな感じだった。僕は窓際の席へと腰を下ろした。店内には他の客は見当たらなかった。この店の雰囲気はモダンな感じで板張りだった。テーブルにある冊子を手に取ると、全て手書きで描かれたメニューであった。ところどころ絵や可愛らしい文字で商品の説明がされており、オーナーのこだわりが窺い知れた。
「ご注文はお決まりでしょうか。」
気付くと、オーナーが注文を聞きに来ていた。僕はメニューを見ながら、おすすめの文字があった本日のケーキセットを頼むことにした。
「本日のケーキセットで。」
「かしこまりました。ケーキセットがおひとつですね。お飲み物は何にされますか。」
「ミルクティーのアイスでお願いします。」
「ミルクティーですね。本日のケーキはシフォンケーキとなっております。それでは、少々お待ちください。」
と言って、オーナーは店内の角にあるキッチンへ向かった。
「シフォンケーキかぁ、おいしそうだなぁ…」
僕はメニューに描かれているシフォンケーキに期待を膨らませながら就活ノートを取り出し、当初の目的である採用試験での問答をまとめようとした、その時だった。
「いらっしゃ…あらぁ、久しぶりじゃない。真理ちゃん。」
どうやら、オーナーの馴染みのお客さんが来たようだ。そのお客さんのことが気になったので、一目見ようと顔を上げた瞬間。僕は目を奪われた。
「こんにちは、おばさま。シフォンケーキはあるかしら。」
サイドアップの黒髪に、遠目からでも分かる大きな瞳。そして生成りのブラウスに、藍のロングスカート。ダメだ、どストライクすぎる格好だ。
「ごめんね、今日の分のシフォンケーキは今さっき売り切れてしまったのよ。」
「そっかぁ、また後日来るわね。」
「せっかく来たんだから、紅茶かコーヒーでも飲んでいきなさいよ。」
「うーん…じゃ、お言葉に甘えようかな。」
「空いてる席に座って。飲み物は何がいい?」
「そうね、ミルクティー、アイスで!」
えっ、同じもの注文してる…。僕の心臓は早鐘のように打っていた。
「ミルクティーね、ちょっと待っててね。」
「いつまでも待つよー。おばさまの淹れるミルクティーは美味しいもの。できれば、シフォンケーキも食べたかったんだけどねー。」
「もう、褒めても何も出ないんだからね。」
会話のテンポの良さについ耳を傾けてしまった。ここのカフェのオーナーさんもだけど、真理さんという女性はすごく明るい人なんだなぁと。自分の中で、真理さんから目を離したくないという気持ちがどんどん大きくなっていくのを感じた。そろそろ視線をどこかに移さなきゃ、と思った矢先。
「おばさま、あの子は?見かけない顔だけど。」
あぁぁぁぁぁ!こっち見られた…。咄嗟に視線をずらそうとしたが、間に合わなかった。
「そう、今日初めて来た子よ。」
「ふーん…。まさか、あの子がシフォンケーキを売り切れにした子!?」
「そうそう、あなたが描いてくれたメニューをじっくり見ながら、注文してくれたのよ。」
「え、ちょっと、それ大きな声で言わないでよ…。恥ずかしいんだから。」
いやぁぁぁぁ。バッチリ見られてた。確かに、絵や文字が可愛らしくて魅入ったのは事実だよ。というか、このメニューあの人が描いたの?上手すぎるって。これで惚れないわけがない。僕は心の中でそう確信した。
「あらやだ、私としたらちょっと茶目っ気が出過ぎたようね。ごめんね、真理ちゃん。」
茶目っ気どころじゃねぇよ。このオーナー…。洞察力が半端じゃないって。僕は心を落ち着かせるために、本来の目的である就活ノートをまとめる作業に入った。しばらくして…。
「お待たせいたしました、本日のケーキセットです。」
「ありがとうございます。」
僕はオーナーにお礼を言って、テーブルに並んだシフォンケーキをまじまじと見た。中は黄色いスポンジケーキで、外側がいい具合に焼けて茶色になっている。粉砂糖がかけられていて、横には生クリームが添えてあった。生クリームを付けて、食べろということなのだろうか。
「いただきます。」
何かを食べるときに必ず言う言葉だ。もうすでに癖になっているため、家の外でも言ってしまう。でも気にしない。それが礼儀だから。そして、僕はシフォンケーキにフォークを入れ、口に運んだ。
「こ、これは、すごくおいしい!」
思わず言葉に出るほどのおいしさだった。甘すぎないちょうどいい甘さとふんわりとした食感。なるほど、この美味しさならシフォンケーキ目当てで来る人もいるのも納得がいく。今度は生クリームと一緒にほおばってみた。
「幸せ……」
もうその言葉しか出てこなかった。至福なのだ。この美味しさは罪だ。うん、間違いない。
「ふふっ。どうも、ありがとう。」
オーナーにも聞こえていたらしく、にかっと笑ってこちらを向いてくれた。あっ、この瞬間。初見独特の壁が消えたような気がした。僕は思い切ってオーナーに話しかけた。
「ほんと、このシフォンケーキ、おいしいです。また来て食べたいくらいです。」
「そう言ってくれると、作った甲斐があるよ。」
そう言って、オーナーは笑顔で返してくれた。なぜだろう、この人と話すと気持ちがすごく楽になる。ほんとになぜだろう。そう思いながらシフォンケーキを食べてると、いつの間にかシフォンケーキは跡形もなくなっていた。
「ごちそうさま。」
そう言って、僕は再び就活ノートに目を移して作業を再開した。十五分くらい経ったくらいだろうか。
「それじゃあ、おばさま。また来るわね。」
「ふふふ、いつでも待ってるわよ。今日はシフォンケーキが食べれなかったのに、やけにご機嫌じゃないの。」
「あの子のあんな顔と言葉聞いたら、ご機嫌にもなるでしょ。おばさまのシフォンケーキはおいしいって言ってくれる人が増えたんだもの。」
「そうだねぇ。それはそうと真理ちゃん、あの子の顔をずっと見てたのかい?」
と意地悪そうにオーナーは聞いた。
「っ……。そんなわけないじゃない。もう、おばさま。からかい過ぎよ!仕事に戻る!」
そう言って、真理さんはお店を出た。
「がんばってらっしゃいねー」
そうして、再び僕が来た時の静寂が戻った。かに思えた。
「ふふふ、真理ちゃんに惚れたのかい。」
僕は飲んでいたミルクティーを吹きそうになった。いきなりすぎるし、というかこのオーナー、最初から気づいてたんじゃねぇのかって。
「どうやら、当たりのようだねぇ。多いんだよね、そういうお客さんは。」
いや、ほんとにあれで惚れない男の客はいないと思うんですよ。実際、もう惚れてますけど。ええ。
「また、来てくれたら、会えるかもしれないねぇ。土曜日の今の時間あたりにでも来れば。」
「今日初めて会った客に、そんなこと言っていいものなんですか。」
僕は戸惑いながらも聞いてみた。今日会ったばかりの客に言うことは不自然だ。僕が真理さんに一目ぼれしたのを知っていて、こう言ったのだ。
「あんな律儀にもいただきますやごちそうさま言える子があの子に危ないことをするとは思わないからねぇ。それと、女の勘というやつだよ!」
ばっちり聞かれてた。このオーナー…、ほんとに何者だよ。
「まぁ、あの子に何かあったら、私が許さないんだけどね!」
うん、これはマジなやつだ。というか、このオーナーを敵に回してはいけない気がする。
「あらやだ、私としたらちょっと茶目っ気が出過ぎちゃった。これに懲りずに、また来てくれるとありがたいわ。」
「このシフォンケーキ食べれるのなら、毎週来ますよ。」
「そう?ありがとう、じゃあ土曜日は多めに焼いておくわね。」
あ、僕が土曜日に来ることは確定なのね。なんとも商売の上手いというか、強かなおばさんというか…。
「ん、今、おばさんって聞こえたような…」
「いえ、それは素敵ですね、おばさま!」
「おばさま、なんて、真理ちゃんと同じことを。ありがとうね。」
この人、エスパーか何かじゃねぇの。なんでおばさんはダメで、おばさまはいいんだよ。訳が分からん!僕はそう思った。ともかく、次の土曜日にcafe No.8に行ってみることにしよう。真理さんにまた会えるのなら、願ってもないことだし。次の土曜日が楽しみにしよう。
「おばさま、そろそろ帰るね。また来るよ。」
「はーい、ありがとう。」
僕は財布を出しながら思った。大学生活最後の年は、きっと忘れられないものになるだろうなと。
これは―シフォンケーキから始まる恋のお話―