思考と信仰(「Mana」お題挑戦)
「思考と信仰」
「言葉にして書く。その心理療法は、効果があることだと思います。自分の心を冷静に見て、具体的に表現することができるというのは、それだけ心の傷を冷静に見れるようになった、心を整理することができた自分を、自分で知ることにもつながると思います」
「今はただ、その抱えていた思いを一人ずっと背負うのではなく、少しずつ言葉にして、自分を表現してみたいと思うようになりました。だけどそう思うまでに、こんなに時間がかかってしまいました」
イリーナは患者の熱弁を聞きながら、淡い笑みを浮かべた。術後、順調な回復を見せていた彼女は、一週間で退院した。だがその三日後、再度入院した。精密検査を行ったものの、確たる原因は見つからなかった。様々検討した結果、〝不定愁訴〟ということになった。もっと噛み砕いて言うなれば、心の問題、精神外来ということになる。
だがこの院内には、その専門の医師はいなかった。代わる代わる交代で、彼女の長い話を聞いていたのだが、皆の忍耐は人並みで、それに耐えられる者はいなかった。逆を返せば、それが正常だと言えるのだろうが、結局は誰かがその仕事を引き受けなければならない。
そういう仕事は大抵、病院長であるイリーナの下にやってくる。イリーナはまた一つ、小首を傾げながら力ない愛想笑いを浮かべて、彼女の話に相槌を打った。
◆ ◆ ◆
知らず知らずのうちに、溜め息が出ている。そんな自分を自覚しながらも、イリーナは自分のデスクで仕事を続けていた。先程、看護師から言われた言葉が、未だ耳に残っている。
〝あの患者、何かの宗教に入っているらしいのよ。ああやって、長々喋っているけれど、あなたもそのうち勧誘されるかもしれないわよ。気を付けて〟
〝どうやら、彼女が入会している宗教集団、バックについているのが結構大きな企業らしくて。あんまり関わらないほうがいいわよ。面倒なことになるから〟
そんなこと、わかってる。
イリーナは、看護師たちにそう返してやりたかった。だけど、関わらないわけにはいかない。彼女は今は、患者としてこの病院に入院しているのだから。彼女がどんな人であれ、患者は患者。彼女の病気を治し、快方へと向かう手助けをするのが、私たちの仕事。
イリーナは、自分の心にそう言い聞かせて、席を立ちあがった。
「先生、今日はちっともうまくいかないんです。私の中のファティマに呼びかけてみても、何も返事が返ってこない」
イリーナは彼女独特の言い回しを聞きながら、〝来たぞ〟と心の中で身構えた。
「ファティマ? ファティマとは何ですか?」
イリーナはそう質問した。質問をするということは、その話が長引くということも意味しているわけであって。しかし、途中でこちらで勝手に解釈して話を進めるなり、切り上げるなりをすると、彼女の症状は途端に悪化する。
ならば膿を出させるようなそんな気持ちで、とことん彼女には話してもらおうと、イリーナはそう覚悟した。かなり骨の折れる仕事になるだろうが。
「ファティマは、いつだってなんでも答えてくれるんです。何かに迷っているときも、いつだって教えてくれます。道を指し示してくれるんです。それなのに、今日はちっとも聞こえない。私のセイクリッドが、穢れてきたのでしょうか……」
「そんな日だってありますよ。人間いつだって常に百パーセント良好でいたら、使ったその力を補給する力だって、フル回転させなくてはいけないと思いませんか? それは午睡のない、ハムスターみたいなものです」
「ハムスター!! まぁ、ハムスターですか! なんと、穢らわしい! 我々のヴェーダの中では最も穢れたものの一つに、鼠が含まれているのです。それは怖ろしきことです」
「そう、ですか……」
イリーナは相槌を打ちながら、苦笑いを浮かべた。やはりだめだ、彼女の話は、彼女の磁場が強すぎる。とんでもない引力と、とんでもない反発力を、イリーナの内面にも生じさせる。反発力は言うまでもないことなのだが、引力に関してはよくもまぁこれほどに、独特な言葉を知っているものだなという感心からくる引力である。
だが、たとえそこに感心できたとしても、彼女の灰汁の強さについていけるものは、そういないだろう。
「そう言えば先生。先生は、ラヴォワジエのギロチン伝説を信じておられますか?」
このように、急激に話も感情も転換するのは、しょっちゅうなのである。そう、ついていけまい。
「ラヴォワジエですか……」
本当にこの患者は困った患者だと、イリーナは思った。なるほど、他の看護師も医師も手を焼くわけだと、そう改めて思うのだった。なぜなら彼女は完全なる狂人ではなく、その頭脳に培われている知識は、厚みがあるようなのだ。だからこそ、手を焼くのだ、こういう患者は。セカンドオピニオンを遺憾なく発揮するタイプであるかもしれない、ということだ。
イリーナは、彼女の質問に一呼吸置いた。
「ラヴォワジエのギロチン伝説とは、斬首後もその独立した頭部のみで、まばたきや何らかの反応を見せたという伝説のことですか?」
「そうです! そのお話のことです! 先生はどのように、お考えですか?」
彼女は目を輝かせ、嬉々として飛びついた。生首の話に嬉しそうに飛びつく女性という時点で、傍から見れば常軌を逸していると十分見えることだろう。
だが彼女は実際に、キラキラと輝く目でイリーナの答えを待っていた。イリーナはそれに対して、慎重にこう答えた。
「そうですね……、斬首後の反応は、筋肉の痙攣、収縮反応によるものだと考えられます。一見、独立した頭部自身で動いているように見えますが」
イリーナの客観的なその説明は、彼女を満足させるものではなかった。腑に落ちないといった顔で、眉を八の字にしている。しばらく沈黙して考えていた彼女だったが、困り顔のまま彼女は反論した。
「先生はそうおっしゃいますが、私はそうは思いません。たとえ、頭部が身体から斬り離されたとしても、その人のスピリットはそうすぐに肉体から消え失せたりはしません。斬首後、その首が斬り離されたことに驚きや絶望の感情を表わす例もあるくらいなのです。それらに関しては、どのように説明する言葉を当てはめればいいのでしょうか?」
彼女の表情こそ、しょげかえった困った犬のような顔をしていたが、その話の内容や、彼女自身が選ぶ言葉には、挑戦的な勢いを感じた。イリーナは腹を据えて話すことに、この瞬間決めたのだった。
「それは、心理学的観点からの説明も必要になってきますね。斬首後の首を目にした者の心の中に、驚きや絶望の感情があったからこそ、翻ってその首がそれらの感情を表しているように見えた。イデア論と同じです。実体そのものではなく、実体の影である、自分自身の感情を感じているにすぎないのです」
「先生、それは根本的に違います! 論点がずれています! 解釈が間違っています! 先生の発言こそが、イデア論に当てはめるなら、実体の影しか見ていない! 実体とはスピリット、プシュケー、魂、肉体を離れた命そのものです。私たちを動かしている源なのです! だからこそ、ラヴォワジエのギロチン伝説のようなことが、あり得るのです!」
彼女は論じながら熱が入ってきたようで、興奮気味になっている。イリーナは、彼女の発作が起こってしまうのではないかと、はらはらした。これ以上自分の意見を言ってはいけないと思った。彼女の病状が悪化しかねないからだ。ここからは、聞き役に徹しようと、イリーナは腹を据えた。
「世界の本当の姿は、私たちの肉体やこの現世ではありません。スピリットの世界こそが、全てを動かし、全てを知っています。そこは自由で、想念の世界です。コントロールすることなどできません。思った瞬間に、その想念は発動するのですから」
「……なるほど」
イリーナは尤もらしく頷いた。彼女はイリーナの反応に安心したようで、さっきよりはリラックスした様子で話を続けた。
「だからこそ我々は、日々努力しなければなりません。精進しなければなりません。想念の世界……、スピリットは決して嘘をつくことはできませんから、磨かれたスピリットでなければ、鍛えられたスピリットでなければ、すぐに穢れてゆきます。穢れたスピリットはどこへ行くか。もちろん、地獄です。地獄で刑罰を受け続けるという過酷な修行の日々が、待っているだけなのです」
「そうなんですか……」
傍から見ればイリーナは完全に、彼女の信者のように見えることだろう。しかし、心の中ではイリーナは首を捻っていた。
だが、イリーナは途中からこう考えるようにした。きっと彼女にとってその信仰は、心の支えなのだと。それがあるからこそ、なんとかこうやって普通に話すことができているのだ。現に、その信仰を少しでも疑ったり、気違い扱いされたとき、彼女の症状は悪化する。
なら、彼女は彼女のままでいいんじゃないかと思った。少し個性の強い人なのだと思えば、今までの話しっぷりも理解できるというもの。それに、それによって他人を傷つけるわけでもないし、それを誰かに強要するわけでもない。
むしろ彼女が反発するときや、症状を悪化させるときは、彼女自身が他人によって少しでも変えさせられるという思いを抱いたときなのだろう。それは彼女にとっては、強要に感じられてしまうことのようだ。
彼女は、彼女自身が信じるものを信じ、その道をひたむきに歩いているだけなのだ。信じられるものさえ見つけられずに、足掻き苦しんでいる人が世の中には五万といるのだ。そういう人々に比べれば、彼女は幸せなのかもしれないと、イリーナはそんな新たな考えに到ったのだった。
それに、考えてみればイリーナ自身だって、そういう信仰にも近い思考回路は持ち合わせていた。占いを信じるのにも似た、そんな感覚を。
イリーナは毎日、家の鍵に取り付けてあるキーホルダーのその鈴を見るのだ。その鈴は、光の当たり具合によって、色が様々に変化する鈴だった。その色のその日の見え方によって、イリーナは一人勝手に占いにも近い思いを抱く癖があった。
しかしそれは、自身のその日の運勢に対してではない。そのキーホルダーの元々の持ち主の運勢に対してである。
「ですから、先生も影にばかり惑わされないでください。先生こそ病の実体を見つめることのできる、素晴らしい医師になれると、私は期待しているんですよ!」
急激に話を振られ、うわの空で考え事をしていたイリーナは、咄嗟にこう答えた。
「そうね……、ありがとう……」
幾分か感情がこもっていないように聞こえるのは、未だその思考に浸っているからだろうか。だが目の前の彼女は、イリーナのその様子に気づいていないようだ。滔々と、満足そうに語っている。
イリーナは時折相槌を打ちながら、幸せそうな彼女の話に耳を傾けた。
◆ ◆ ◆
今日もまた、家を出るそのときに、鈴を見つめた。瞬間見えたその色は、赤色だった。イリーナは、判断に迷った。
赤という色からは、様々に想起させられるからだ。エネルギッシュな赤、生命の火の赤、暖かみの赤、そういった良い印象も受けるが、血や警告といった意味合いとして捉えることもできる。そう思うと、不安のほうが勝ってしまう。
だがそれは、青も然りだった。冷静、沈着、知性。一方では、病人の蒼、海の底の藍に近い青――
捉え方次第なのは、わかってる。
自分にそう言い聞かせても、湧き上がる不安はなかなか拭えなかった。
目を閉じる。耳元までその鈴を持ち上げて、イリーナは鈴に心の中でこう唱えた。
〝どっちだかわからないじゃないの。ちゃんと、答えなさいよ〟
呪文とは言えない、ただの要求だった。それでもイリーナにとっては、言霊の魔法みたいに思っていた。言葉には、力がある。それを信じていた。
一瞬、煙草の燻りが嗅覚の奥のほうで、蘇ったような気がした。そのとき、イリーナは魔法が完成した魔術師か何かのように、目を開けた。
その鈴は、問いかけるように煌めいていて――
了