4-1 チャイが冷めるまで
清蘭は、部屋にこもって紅水河の水源をまとめていた。
詳細な水源の場所はすぐに分かる。だが、新たにできた地底河川の正確な流れは、水源や井戸などの奥深くの水温を計らなければ把握できない。
「紅水河の流れは、高山の雪どけ水と雨季の雨水が主ですけど。一度に雨が降れば、地上に水が溢れてしまいます」
まだまだ改良点は多い。
椅子から立ち上がり、清蘭は背伸びをした。
「姫さま、もうお休みください」
シェルが清蘭の部屋に入ってくる。すでに日付は変わり、侍女は眠っている時間だ。
湯気の立つチャイと、干し葡萄や干し杏の載った盆を、シェルは窓際の卓に置いた。
「ありがとう、シェル。わたくしのことは気にせず、あなたも家に帰ってください」
「時間を忘れて没頭されるのが、姫さまの悪いところですね」
「ごめんなさい」
「ですが、そこが姫さまの魅力でもあります」
チャイの入った器を持つと、温かさがてのひらに伝わって来た。
「そんな風に褒めないでください」
「なぜですか?」
「調子に乗って、喜んでしまうからです」
座っても? と尋ねてから、シェルは椅子に腰を下ろした。ちょうど清蘭と真正面から向かい合う位置に座る。
角燈の明かりがゆらめき、買ったばかりの眼鏡の縁が、冴え冴えと光る。
「簡素すぎる意匠だと、店では思いましたけど。その眼鏡、シェルによく似あってますね」
上背があり、体を鍛えているシェルは、何を身に着けても似合うだろう。でも、それを口にするのは恥ずかしかった。
「では、私のことも褒めないでください」
「どうして?」
「……いえ」
ふいにシェルは横を向いた。唇を結んで、不機嫌そうにも見える表情だ。
「ねぇ、どうしてですか?」
清蘭は身を乗りだして、シェルの腕を揺さぶる。
シェルは清蘭と視線を合わせようとしない。
もう立派な大人なのに、彼の中に少年がいるようで。微笑ましくなってしまう。
清蘭の知らない少年時代のシェル。
どんな風だったのだろう。
もしその頃に、今と同じ年齢で出会えていたら。もっと親しくなれていただろうか。
「姫さま。チャイが冷めますよ」
「答えてくれるまで、飲みません」
「困りましたね」
シェルは深々とため息をついた。
「夜は苦手なのです。昼間なら隠しておける本音が、つい出てきてしまう」
「じゃあ、わたくしは夜が好きです」
「なぜです?」
「だって、シェルの本音が聞けるんですもの。ね、どうして褒めてはいけないの?」
「……嬉しくなってしまうからです」
仄かな角燈の光でも、シェルの頬が染まっているのが分かる。
「あ、いえ。今のは……その」
「本音ですよね?」
膝の上で握りしめたシェルの両手。清蘭は、彼の手にそっと自分の手を重ねた。
びくっとシェルが身をすくませるのが伝わってくる。
大きな手は骨太で、皮膚は少し乾燥している。男の人の手だと思った。
「姫さま……離してください」
「姫さまではなく、清蘭と。そう呼んでくだされば、離します」
「意地悪をおっしゃらないでください」
「では、朝までこのままですね」
清蘭の言葉に、シェルは眉を寄せてまぶたを閉じた。
「……知りませんよ」
突然、清蘭は抱きしめられていた。
(え? え、ええ? ええええ?)
「あまり大人をからかうものではない。分かっているな」
ささやきが耳をかすめる。これまで一度も聞いたことのないような、低く深みのある声だ。
「シェル?」
シェルは、清蘭を腕の中にとじこめたままだ。今までずっと近くにいて、何度も飛びついたりしていたのに。
布越しに伝わってくる、彼の腕や胸のたくましさに、胸がどきどきする。
少しスパイシーな柑橘系の匂いがするのは、香を服に焚きしめているのだろうか。
「いつまでも子どものままでは、いてくれないんだな」
清蘭の耳を、夜風のような言葉がかすめる。
「無邪気に慕ってくれるだけならば。こんなにも苦しい思いを抱かなくて済んだのに」
「どうして……抱きしめてくれるの……ですか?」
「さぁな」
「わたくしは……シェル、あなたのことが」
シェルの人差し指が、清蘭の唇に押し当てられた。
「……これは夜が見せる幻だ」
そうね。チャイが冷めたら、きっとこの夢は醒めてしまう。
でも、それまではこのままで。
「おやすみ、清蘭」
目が覚めた時、清蘭は自分の寝台に入っていた。
窓から差し込む明るい光。賑やかなほどに、鳥がさえずっている。
「シェル?」
慌てて寝台から降りると、机の上には「よくお休みでしたので、家に戻ります」と書き置きが残されていた。
(わたくし、シェルにしがみついたまま眠ってしまったの?)
思いだしただけで、顔が熱くなる。
好きな相手の腕の中にいたのに、眠気に負けて熟睡してしまったなんて。
「わたくしの馬鹿っ」
床にしゃがみこみ、頭を抱える。
ああ、穴があったら入りたい。ないなら掘削してもいい。
しかも今日はシェルは非番ではない。どんな顔をして会えばいいのだろう。
呆れられていないだろうか。怒っていないだろうか。
夜って怖い。




