2-1 アシアの心配
乾季は夕暮れが遅い。
吹く風も爽やかで、夜の食事を庭でとることも多い。
今夜は清蘭は一人ではなく、珍しく王妃も同席している。
庭は紅水河のほとりにあり、穏やかな水面は夕日に照らされ金の光が踊っている。
侍女が用意した夕食は、杏のジュース、羊肉と干し葡萄とニンジンの炊き込みご飯、ほろほろと柔らかく身のほぐれる鳥の丸焼き、それに生野菜と羊のチーズだ。
王妃には、藍国特産の葡萄酒が用意されている。
深紅の葡萄酒を飲み干すと、王妃は侍女に何かをささやいた。
「清蘭さま。明後日、桂国の冬李王子がいらっしゃるそうです。藍都を案内するようにと、王妃さまがおっしゃっています」
「分かりましたと、伝えてください」
清蘭の言葉を受けると、侍女は王妃の元へ戻った。そしてまた耳打ちする。
庭に据えられた簡素なテーブルなのだ。ふつうに話せばちゃんと声は届くのに。
(まぁ、わたくしと話なんてしたくありませんよね)
生まれて十四年。母との会話は、ほとんど侍女を介して行われている。まるで通訳がいなければ会話が成立しないかのようだ。
背後に控えるシェルが屈みこむ気配を感じた。
「姫さま。もっとお召し上がりにならないと」
「ええ、そうね」
気が付けば、杏のジュースばかりを口に運んでいた。
きっとこの料理も……いや、もっと簡素で硬い平パンだって、シェルやアシアと一緒に食べることができたなら。とてもおいしく感じるのだろう。
早々に夕食を終えた清蘭は、部屋へ戻った。
いつものように角燈の明かりで勉強をし、侍女が用意した寝間着に着替える。
さすがに着替えの時、シェルは部屋を出ているけれど。扉のすぐ向こうに彼がいるのだと思うと、服を脱ぐのも恥ずかしい。
「では私はこれで。姫さま、ゆっくりとお休みください」
「明日は、シェルはお休みなのですよね」
「はい、代わりの者が護衛に入ります。明後日は、ご一緒できますので」
清蘭が寝台に入る時間になると、シェルは護衛の仕事が終わる。
彼が不在の時、非番の日は、別のパラティア人が護衛についてくれている。
もっとも誰もかれも無口で、他の護衛と親しくなることはない。
空に、ぽってりとした満月が昇っている。
部屋の外にある露台から見下ろすと、白い道を下っていくシェルの後ろ姿が確認できた。王宮の周囲では篝火が焚かれているから、よく見える。
すっと伸びた背筋、少しくせのある短い金髪。
彼が家に戻る時は、よくこうして露台から見送っている。
「気づいてくれないかしら」
露台の手すりから身を乗りだし、清蘭は大きく手を振ってみた。
「気づいてください……気づけ……気づけぇ」
ぶんぶんと手を振りながら、禍々しい呪文のように唱え続ける。
念が届いたのか、あるいは偶然か。
シェルがふいにふり向いた。
(うわ、うわぁ)
シェルが片手をあげて、挨拶を返してくれる。
ただそれだけのことなのに。胸が高鳴ってしまう。
(大好きです、シェル。本当に大好きなんです)
側にいる時は大きな背中が、今はとても小さく見える。
それが切なくて、清蘭は引き出しから双眼鏡を取りだした。
(シェル)
急いで、愛しい姿を捜したけれど。
どんなに拡大しても、シェルの姿は見つからなかった。
「残念です……」
こんな気持ちでは眠れない。清蘭は、そっと部屋を抜け出した。
はしたないと分かってはいるけれど、寝間着が隠れるように上着を羽織り、階段を下りる。
庭へ出ると、さらさらという紅水河の水音が聞こえた。
川辺に据えられた机。夕食時に自分が座っていた席の、少し後ろに立ってみる。
そこは、庭で食事をとる時のシェルの定位置だ。
シェルからは、自分はどんな風に見えているのだろう。
「わたくし、もう子どもではありませんよ」
そう、望んではいないけれど。縁談だって来る年齢なのだ。恋だって知っている。
「もしわたくしが、好きって言ったら。どうするのでしょうね」
「……どうもしないと思う」
独り言に、突然返事されて清蘭は飛び上がった。
「だ、だだ、誰? 名乗りなさい」
「アシア・ファーマ」
「アシア? どうして?」
「名乗れと言われたから、名乗った」
庭の木と木の間、闇に紛れるように立っていたのは、シェルの妹のアシアだ。
まったく気配がなかった。
友人だから良かったようなものの。もしパラティア人を敵に回したらと思うと、恐ろしい。
「えーと、今のどうしては、なぜこんな時間に王宮にいるのって尋ねたんですけど」
「ああ、そっちか」
アシアは肩までの金髪を、きつく結んでいる。ふだんから鍛え上げているので、十四歳にしては筋肉質だ。
身長も昔は同じくらいだったのに、今では清蘭より頭一つ分は高い。
まぁ、清蘭が細くて小さいというのもあるのだが。
「一人で家にいてもつまらないし、借りていた本を返しに来た」
アシアは、清蘭の隣に立った。
「こんな夜中に、危ないですよ」
「このわたしを狙う者がいるとでも」
「まぁ、いませんよね」
うかつにアシアに手でも出そうものなら、返り討ちにされるというか。たとえ屈強な男でも、簡単に失神させられてしまうだろう。
「本来なら、わたしが清蘭の護衛の任につきたいのだが。まだ若いと、兄さまに反対された」
「ふふっ」
「何がおかしい?」
「いえ、アシアに守ってもらえるのなら安心だと思ったのです。でもね、アシアが護衛になってしまったら、一緒に遊べませんね」
「む、それもそうか」
腕を組んだアシアは、眉間に眉を寄せた。
そういう難しい表情を浮かべると、シェルによく似ている。
二人は並んで、川のほとりの長椅子に座った。
ちょうど流れがゆるやかで、岸が砂浜のようになっている。川岸の砂は石英なので、ほのかに白く光っている。
「ありがとう。興味深かったぞ」
アシアは、清蘭が貸していた本を手渡した。
「どうでした?『愛なき結婚 それでもあなたを愛してる』は。情熱的なお話だったでしょう?」
「うーむ」
アシアは唸った。
「まず主人公の女性が男に軟禁されるのだが。隙を見て逃げる努力をすべきであるのに、それを放棄して、なぜ泣いてばかりいるのだ」
「まぁ……か弱い女性ですから」
「か弱いわりに、図太いな。軟禁している相手から、次々と贈られる服や花、宝石を次々と受け取っている」
「最初は、一応断っていますよ」
「ふん。そして甘い言葉ですべてを許すとは何事だ。まずは逃げろ、そして訴えろ。制裁しろ」
「恋愛ものではなく、復讐劇になりますね」
「なるほど。男の情熱にほだされたふりをしながら、出入りの業者に賄賂を渡し、贈り物の宝石を換金して、逃走用の資金を調達する。出入り業者の口はふさいだ方がいいな。後々やっかいだ。そしていずれは軟禁した男を社会的に抹殺する。これでどうだ?」
「……そういう物語は、需要ないと思いますよ」
「なんだ、つまらん」
ふー、とアシアはため息をついた。
「でも、この本の主人公と恋人も寝つきが良かったですよね」
「確かに。しかも眠りが深すぎるから、寝室でくちづけをしたら、すぐに朝だ」
「謎ですよねぇ。好きな人と一緒にいたら、ドキドキして眠れないと思うんですけど」
「ところで、それはなんだ?」
アシアに胸元を指さされ、清蘭は双眼鏡の紐を、首にかけっぱなしだったことに気づいた。
「これは双眼鏡ですよ。遠くの物がはっきり見えたりします」
「兄さまの眼鏡とは違うのか?」
「ふふ。双眼鏡は星もよく見えるんですよ」
清蘭は頭上を指さし、双眼鏡をアシアに貸した。
「おお。でかい。月がでかい」
「大きなレンズで光を集めるので、あまり明るくない星や淡い星雲も見ることができるんですよ。この王宮は、不動星が目印になりますね」
「へーえ」
双眼鏡を目に当てたまま、アシアが清蘭の顔を見る。
「さっきの話だが、どうもしないと思う」
突然、アシアが話題を変えた。なんのことだろうと、清蘭は首を傾げる。
「清蘭は、兄さまに好きって言ったらと話していたではないか」
「へっ?」
変な声が出てしまった。
いや、たしかに独り言でそれらしきことを呟いた記憶はあるけれど。でも、それがシェルが相手だなんて一言も発していないはずだ。
アシアは超能力者なのか? それとも人の心が読めるのか?
「いや、わたしには超能力もないし、人の心も読めない」
平然と否定されるが。やっぱり読まれているとしか思えない!
夜風はひんやりとしているのに、清蘭は頬が熱を持つのが分かった。
「清蘭は、つねに兄上のことを目で追っているではないか」
「そ、そんな……そうでしたっけ」
「うん」
双眼鏡をのぞき込んだまま、アシアはうなずいた。
うかつだった。清蘭は頭を抱えた。
「こう言ってはなんだか。兄さまは三十一歳だぞ」
「知ってます」
「それから女心を理解できない」
「ですよね」
「そして頭が固く、不愛想だ」
「それはまぁ、アシアも同じだと思いますけど」
「失礼な。わたしは兄さまとは違い、たいそう愛想がよい」
アシアは、にぃーっと笑った。もちろん目は笑っていない。清蘭は思わず吹き出してしまった。
「よかった。ようやく笑った」
今度は、アシアは柔らかく微笑んだ。
その時、清蘭は気付いた。
この武骨で優しい友人は、縁談で気落ちしているのを知って、慰めに来てくれたのだということを。
たとえ藍国の王女として生まれても、清蘭は一人きりだった。けれどアシアがいる、シェルがいる。
だから孤独ではない。




