11-1 求婚
緑水河は、紅水河よりも川幅が広く、流れは緩やかだった。
水は澄み、川底には優雅に泳ぐ魚の影が映っている。
「ちょっと見てくれよ。瓜がなってるんだぜ。それにさ、川岸にナツメの木も見つけたんだ」
「まぁ、すてき」
光月と清蘭は、草むらにころんと実っている瓜をうっとしと眺めた。呑気なものだ。
「果物よりも、まずは住むところが先なのでは?」
シェルは、男たちと一緒に日干しレンガを作っていた。
砂漠公路から離れているから、交通の便は悪い場所だが。でも、だからこそ手つかずで残っていた土地なのだろう。
「きゃあ!」
バシャンと派手な水音が聞こえた。シェルが見ると、清蘭は水の中に落ちていた。
「何をなさっておいでなんですか?」
「瓜を採ろうと思って」
「で、水に落っこちたというわけですね」
水浸しになり、そのまま川の中で座っている清蘭は、しょんぼりとうつむいた。淡い色の毛先から、ぽたぽたと水が落ちていく。
「一人で上がってこられますよね。手は貸しませんよ」
「大丈夫です」
清蘭はそう言うと、土手を上ろうとした。けれど草の葉を掴んだせいか、また水に落ちてしまう。
シェルはため息をつくと、川の中の清蘭に向けて腕をのばした。
清冽な水をまとった清蘭の細い指が、シェルの乾いた手を握る。
「仕方のない人ですね」
身を乗りだして、片腕で清蘭の体を抱え上げる。そのまま草むらの中に二人して座りこんだ。
太陽に照らされた草からは、緑のにおいが立った。闖入者に驚いた羽虫が、次々と飛び立っていく。
「ご、ごめんなさい」
「瓜なんて、いつでもいいでしょう。どうして無理をして、採ろうと思ったんですか?」
「だって、今から川に浸けておけば、夕食後には冷えておいしいんですもの。シェル、瓜が好きですよね」
この人は……。
シェルは頭を掻いた。
「瓜は好きですが。姫さまの方が好きですよ」
清蘭の頬が赤く染まる。
「少しは慣れてくれませんか? 何度も好きと申し上げていますよね。愛を囁くたびに赤面されては、先に進めません」
「先って……?」
うっ、とシェルは言葉を詰まらせた。
「姫さま。恋愛小説は愛読されていましたよね」
「ええ。大好きです。王宮の図書室にあるものは、アシアと一緒に読破しましたもの」
「書いてありませんでしたか? 恋人同士が……その、どんな風に……」
「書いてありました!」
パンッ、と清蘭が両手を叩く。
「とっても傲慢な男性が、権力を振りかざしてですね。旅行に来ていた女性の主人公を館に閉じ込めて、国に帰さないんです。でもしだいに主人公は、男性に惹かれていくんです」
「その男性のどこに魅力があるのか、さっぱり分かりませんが」
「それがですね。夜中に寝室でくちづけを交わしたと思ったら、すぐに朝になって……鳥が鳴いていましたね。アシアと一緒に、この恋人たちは寝つきがいいんですねって、話したことがあります」
「……なるほど」
「で、先に進むって具体的になんですか?」
真顔で顔をのぞきこまれて、シェルは頭を抱えた。
そうだ。姫さまの勉強時もお側に控えていたが、確かに教師たちが教えていたのは、数学や物理などだった。
冬李王子との縁談もあったというのに。もしあのまま非道なエロガキ……いや、王子の元に嫁いでいたらと思うと。心底恐ろしい。
「教科が偏りすぎなんだよ……」
「シェル?」
「姫さまが完全に大人になられるまで、先には進めませんが」
「はい?」
だから、そんな澄んだ瞳で見つめないでほしい。
溢れだす愛しい気持ちを、無表情で押さえこもうとするけれど。上手くいかない。
「……少しだけ、お教えします」
シェルは清蘭の腕を掴むと、その唇を奪った。
これまでのように軽く触れるだけではない。
深く、苦しいほどのくちづけだ。
清蘭は混乱したのか、足や手をむやみに動かし始めたが、それを封じて抱きしめる。
唇がわずかにずれると、清蘭の口から吐息が洩れた。
「だめですよ。まだくちづけは終わっていません」
「……っ」
助けを求めるように、清蘭の指がシェルの服の胸元にしがみつく。
水のしたたる細い首に唇をつけ、そして耳元で囁く。
「怖いですか?」
清蘭は、きゅっと瞼を閉じて首をふった。
怯えているのに、必死なのに。
幼さの抜けたその顔には、艶っぽさがにじんでいた。
ご自分では分かっていないのだろう。これまで圧倒的に足りなかったものを、今は備えていることを。
つらいことも多かった。けれど惨状をくぐり抜け、この方は一回り大きくなられた。
今の清蘭は、ただ守られるだけの少女ではない。
吹く風が、そよそよと丈の高い草を揺らす。
「服が乾くまで、ここにいてください」
ぼんやりとしていた清蘭だが、声をかけると我に返ったようだった。
「わたくしは、平気ですよ?」
「だめです! 絶対に」
華奢な体に、濡れた服をはりつかせた清蘭を、人目にさらすわけにはいかない。
清蘭を腕の中に閉じ込めたままのシェルは、胸元に何か硬いものが触れるのを感じた。
「それは?」
「水晶の花です。ずっと大事に持っていたいから」
懐から出した水晶細工は、今も変わらず透きとおっている。
シェルはそれを受け取ると、清蘭の右耳の上につけた。
陽光を受けて、水晶の花は美しくきらめいた。
「主従の関係を越えて、私はあなたを愛しています」
「シェル」
「私と結婚してください」
「はい」
目に涙を浮かべながら、清蘭はうなずいた。
◇◇◇
「なんで、お前が隣に住むんだ」
ひと月後。シェルは、自分と清蘭の家の徒歩十歩ほどのところに建つ、こじんまりとした家を眺めながら腕を組んだ。
「えー、だってー。ここってさ川べりで涼しいし、眺めもいいし」
光月が、もじもじというか体をくねくねさせながら、上目遣いでシェルを見上げる。
とても気持ちが悪い。シェルは眉間にしわを寄せた。
「それにさ、親友が側にいるって心強いぜ?」
「……ちょうど川沿いだしな」
「うんうん」
「少し地面を掘れば、その建物に水が引きこめる」
「だろ、だろ」
「姫さまが水車小屋を作りたがっていたから、ちょうどいいかもしれない」
「ダメだってー。俺んちなんだから」
光月は、シェルの腕にすがりついた。
単なる寂しがり屋だろ、お前。
「俺さ、やっぱりここにいていいのかどうか、迷ってんだよね」
ぽつりと光月が呟いた。彼にしては珍しく、静かな口調だ。
「皆、優しくしてくれるよ。けどさ……俺、アシアの生存を占ってから……あれから一度も占いをしてないんだ」
「光月」
「ほんとは、アシアのことを占うのも怖かった。っていうか、これまでの占星術師人生の中で、一番恐ろしかった」
光月は瞼を閉じた。髪の色に近い、赤っぽい睫毛が顔に影を落とす。
それが本当に影なのか、あるいは隈なのか。見分けはつかないけれど。
「占い、すればいいんじゃないか?」
「いいのかな」
「桂国の占いは当たるんだろ? 北に行けば隊商宿もあるしな」
「なんだよー。俺を追い出すつもりかよ」
まるで子どもみたいに、光月が頬をふくらませる。
早とちりするなよ。
「この地で暮らしていくにも、物資はいる。隊商の荷を買いに行くこともあるからな。その買い出しに着いていって、ついでに占いをすればいいじゃないか。評判が広まれば、わざわざ出かけなくとも、この緑水河に客が来てくれるだろさ」
「そうかな」
「ただし、家で占いをするなよ。恋占いに夢中になった女どもが押しかけると、俺も清蘭も生活しにくい」
その言葉に、光月は目を輝かせた。
「おお、我が友よ」
がしっと抱きついて、挙句の果てには頬にくちづけられそうになる。
「やめろ。気持ち悪い」
「なんでだよー。俺の愛情表現だっていうのに。じゃあ、代わりに清蘭に愛情表現してくる」
「もっとやめろ」
「本当に、仲良しなんですね」
いつの間にか背後から、清蘭の声が聞こえた。これはまずい、光月に愛情表現をされてしまう。
シェルはとっさに清蘭を自分の背に隠した。
「あの、さっき隊商宿に行くって聞こえたんですけど。シェル、出かけるんですか?」
「いえ、予定はないですが」
「なんだ。そうですか」
あからさまに、清蘭はがっかりした表情を浮かべる。何か買ってきてほしいものでもあるのだろうか。宝石のついた首飾りとか、なめらかな手触りの布とか、玻璃の器とか。
「じゃあ、また機会があればご一緒しましょうか」
「いいんですか? わたくし、工具が欲しいんです。あとネジもたくさんいりますね。バネも欲しいんですけど、ちょうどいい大きさなら、自分で作った方がいいんでしょうか」
「姫さまは、どこにいても相変わらずでいらっしゃいますね」
「まぁ。失礼な」
清蘭は背伸びをすると、シェルの口に唇を触れさせた。
「わたくしだって、愛情表現はできるんですよ」
そよ風のようなくちづけ。髪につけた水晶の花が、涼しい音を立てる。一瞬、何をされたのかシェルは理解できなかった。
「大人の女性になるための第一歩です」
両手を腰に当てて、清蘭はなぜかえらそうだ。
「うーん。その程度じゃ大人とはいえないなぁ。よし、お兄さんが手ほどきしてあげよう」
「え、そうなんですか? じゃあ、紙とペンを持って来ます」
「いやいや。こういうのは実践するのが一番さ」
光月が清蘭の顎に手を当てて、上を向かせる。
なんということを!
シェルは清蘭を担ぎ上げると、そのまま家の中に飛び込んだ。
「やっぱり、あいつの家は水車小屋にする」
肩で息をするシェルは、清蘭を肩に担いだままだ。
「いいか! 清蘭。ああいう実践っていうのは、他の男とするなよ」
どうしたことか、清蘭がシェルの顔を覗きこんでくる。
まだ床に降ろしていないから、その顔の位置はとても近い。
「シェルとなら、実践してもいいんですか?」
「俺以外とするなって、いうことだ」
声の大きさに驚いたのだろうか。清蘭が目を丸くしている。
しまった。つい激昂してしまった。
「シェルが俺って言うの、初めて聞きました」
初めてというわけでもないのだが。
「わたくしのことも、清蘭と呼んでください」
「いや、でもそれは」
「さっきは呼んでくれました。わたくしに丁寧語を使わないシェルも素敵です」
ああ、もう。
シェルは天井を仰いだ。
敬語や丁寧語を使っていれば、自制できるのだ。なのに……。
「俺はもう知らないからな」
シェルは扉の鍵をかけた。




