10-1 緋目
緑水河へ向けて出立するのは、三日後と決まった。
ここは岩場があるので獣が多いが。この先、思うように猟ができるかどうかは不明だ。
男たちは狩った動物をさばき、女たちがそれを蒸したり、砂の上で乾燥させて干し肉にする。
シェルは岩場で岩塩を削っていた。
塩は調味だけではなく、生きていく上でも必須だ。この辺りの塩は、不思議と桃の花のような色をしている。
「姫さま」
小さな岩塩を、シェルは清蘭に手渡した。
「まぁ、かわいい。まるで睡蓮のよう」
「岩塩なのですが」
「鉄分を含んでいるから、淡い紅の色なんですね。シェルが彫ってくれたんですね」
「はい……まぁ」
なかなか水晶細工のように上手くはいかないものだ。
清蘭は、てのひらにのせた塩の花を褒めてくれるが。道具が悪いのか、シェルが不器用なのか、無骨なのか。
(全部だろうな)
ふと、視線を感じて顔を上げると、清蘭が微笑んでいた。
「どうかなさいましたか?」
「いえ、うれしくて」
「花弁を薄く削ったので、手で割って使いやすいと思います」
清蘭は塩が好きだという記憶はないが。どちらかといえば、薄味が好みだったはず。
「これもずっと持っていますね」
「あの……装飾品ではなくて、調味料ですよ? そういえば、光月がアシアのことを占ってくれたのですが」
清蘭が、塩の花をぎゅっと握りしめる。その指が微かに震えている。
(ああ、早く教えてさしあげないと)
彼女の安否を案じているのは、清蘭も同じだ。
「アシアは藍国を出たそうです。二人の主を得て」
「主ですか?」
「はい。パラティア人は仕事としての警護や護衛の他に、命を救われれば、その方に生涯忠誠を誓います。それは我らが存在する価値そのもの。あの混乱の中、アシアは生きる意味を得たのでしょう」
「そうですか、アシアが」
清蘭は、ほっとした様子だった。
塩の花を握る指にこめられていた力を解いたようで、関節が滑らかだ。
柔らかく細められた目もと、穏やかな顔つき。それは何かが落ちたかのように、すっきりとして見えた。
(これまで姫さまの表情には、険があったのか)
あの日から、ずっと気を張って。アシアや藍国のこと、そして口にはしないが、王と王妃の行方も案じていたに違いない。
清蘭が王と王妃について尋ねないのは、彼らが民を守り、水源を守ることに殉じる事態を覚悟していたからだろう。
シェル自身が、両親について深く考えないのと同じだ。
王女である清蘭もまた、民を安住の地に導くことで、王族としての務めを果たそうとしている。
進む先に光が射していると信じて、気高く進むしかないのだ。
「あの、ですね。シェル」
清蘭が口ごもりながら、見上げてくる。
「わたくし、王宮を出る時に水晶の花を持ってきたのです。それで、ですね」
その先を言いかけたのに、清蘭は口を閉ざしてうつむいてしまう。
まつ毛を伏せて、足元の砂に視線を落としている。
「姫さま、続きを仰ってください」
「いえ、いいんです」
「よくありませんよ。ここには私しかいませんから。さぁ、どうぞ」
瞼をぎゅっと閉じた清蘭の顔は赤い。熱でも出たのかと思うほどだ。
「また、水晶の花をつけてください!」
大声で叫ぶ声に、シェルは唖然としてしまった。
「……ダメですか?」
恐る恐る訪ねてくる清蘭が愛らしくて、つい焦らしてしまいたくなる。
けれど、意地悪をしてはかわいそうだ。
「ダメなわけないですよ。私は姫さま以外に、水晶の花をおつけする相手はいませんから」
「それなら、持って来ます」
「いいえ、今ではなく。そうですね、緑水河で定住の目途がつきましたら。その時に右耳の上につけさせてください」
天幕に戻ろうとする清蘭の腕を掴んで、引き寄せる。
「我らが安息の地を得たその時、もう一度求婚させてください」
顔だけでなく、清蘭は耳や首まで赤くなった。今にも頭から湯気が出そうに見える。
しょうがない。休ませた方がよさそうだ。
シェルは清蘭を抱え上げた。そして彼女の耳に口を寄せる。
「その日までに心の準備をなさっておいてください」
日中でも、天幕の中は薄暗くひんやりとしていた。
湿気がないので、影に入ると涼しく感じられる。
「姫さま?」
布を敷いた地面に清蘭を下ろしても、彼女はシェルの首にしがみついたまま離れようとしない。
「……今夜は、背中を向けないで寝てくれますか?」
ためらいがちな声。
シェルは、つい微笑んでしまった。
「私が背中を向けていると、寂しいですか?」
「寂しいです」
「私は、姫さまの寝顔を拝見していると、つらいんですよ? ですが姫さまが望まれるのでしたら、向かい合って眠りましょう」
「いいのですか?」
「お望みでしたら、手もつなぎますか?」
「……はい」
冗談のつもりで言ったのに。赤面したままうなずかれると困る。
今が天幕の中でよかった。
こんな姫さまを、誰にも見せたくはない。
その時、荒れ地山羊の鳴き声が聞こえた。
◇◇◇
清蘭に天幕の中で休むように言うと、シェルは外へ出ていった。
「決してここから出ないでください」
念を押す様子からも、警戒の強さが分かる。
一人残された清蘭は、まだ火照る頬に両手を当てて座っていた。
てっきりシェルに嫌われたと思っていたから。どうしていいか分からなくなる。
風が強いのか、バサバサと天幕の布が揺れている。
また荒れ地山羊の甲高い声が聞こえた。
「清蘭。いるんだろ」
天幕の入り口が、バサッと開かれた。砂混じりの風が吹き込んで、呼吸が苦しい。
逆光で顔はよく見えないが。自分のことを「清蘭」と呼び捨てにするのは、光月だ。
「あの、ありがとうございます」
「ん? いや、礼を言われるほどじゃないぞ。それより、少し出てきてもらえねぇかな」
「でも、シェルに天幕にいるように言われたんです」
「あいつか」
ちっ、と光月が舌打ちをした。
妙な違和感。この感覚は覚えがある。
「さっきのお礼ですけど。どうして両親のことを占ってくださったんですか」
「そりゃ、清蘭は王と王妃のことを心配してるだろうと思ったからさ」
「ええ。占いの結果を聞いたときは、正直落ち込みましたけど。二人とも責務を果たすために、命をかけたんですもの。はっきりと教えてもらって、よかったです」
「まぁ、くよくよすんなよ」
影になった光月の顔が、にっこりと笑う。
けれど、その口が鎌の刃のような形に思えたのは、たぶん見間違いではない。
「ちょっと見てほしいことがあるんだ。ほら、その網のことなんだけどさ」
「網? ああ、魚を捕る網のことですね。小魚がとれるように、それぞれの天幕の側に干しているんです」
「そうそう。俺の網が、破れちまってよ。魚が食えねぇと困るだろ」
確定だ。これは光月ではない。清蘭は身構えた。
占いはアシアのこと。霧を水に変える網のことを、光月は褒めてくれた。この地に、魚が捕れるような水場はない。
「シェル! 来てください!」
決して天幕から動くなと言われている。ならば、彼を呼ぶ以外に方法はない。
清蘭は、何度もシェルの名を叫んだ。
「静かにしろ! 俺だって言ってんだろ」
ずかずかと天幕に入りこんできた光月は、足を引きずっていた。
「あなた、緋目ね。生きていたのね」
「あーら、残念。ばれちゃった。あたしの名は緋目じゃないけどさ、あんたに教えてあげるほど親切じゃないのよね」
急に口調が変わり、これまで光月の顔をしていた緋目は、元の彼女の顔に戻った。
また幻覚を見る薬を使われたのだろう。
「あんた達を追いかけるの、大変だったのよぉ。こっちはあの筋肉馬鹿に足を斬られてさ。傷は縫ってあるけど、まだ無理はできないわけ。なのに、こーんな遠くまで逃げるんだもの」
「何をしに来たの!」
清蘭は後ずさった。けれど天幕の中は狭い。あっという間に緋目が間近に迫って来た。
「ねぇ、あたしと一緒に行こうよ」
「お断りします」
緋目は手と膝を地面について、清蘭にぐいっと顔を寄せた。
「わたくしなんかに構わずに、火国に戻ればいいじゃないですか」
「無理よぉ。だって、きっともう火国は滅んでるんだもの」
短い黒髪をかきあげると、緋目の指から砂がこぼれ落ちた。それを忌々しそうに、手で払う。
「砂国にあんたを売ってあげる。あんた、技術姫ともよばれてるんだって? 砂国は技術を欲しがってるからね。ちょうどいいんだよぉ」
粘っこいしゃべり方が気持ち悪い。
砂大トカゲの舌を思わせるような、ねっとりと動く手が、清蘭の頬を撫でた。
ぞっとした。全身に鳥肌が立った。
「あんたは女だからさぁ。色気で落とすってわけにはいかないんだよねぇ。残念だけど」
緋目の黒い瞳は光がなく、吸い込まれてしまいそうだ。
「でもさぁ。あんたは女だからこそ、得なんだよ。良かったねぇ、技術だけじゃなくあんた自身も高く売れるよ。亡国の姫の肌に触れたい、って奴はいくらでもいるだろうさ」
「出ていきなさい。汚らわしい」
「おや、言うねぇ。あたしに命令するのかい?」
くっくっく、と緋目は笑った。
「可愛いねぇ。気丈に振る舞っても、声がかすれてるよ。ほら、膝も震えているねぇ」
シェルを呼ぼうとした時、清蘭の口は緋目の手でふさがれてしまった。
その時、激しい風が起こった。
薄暗い天幕の中に、一気に光が溢れる。
まばゆい陽光の中に立つシェルが、剣を構える。彼の姿は逆光で影になっているが、剣だけがぎらついて光る。
「姫さまから離れろ」
「もう帰ってきちまったのぉ。緋目、困っちゃう」
「うっとうしい。下衆が」
ヒュン、と風を切る音。シェルが剣をつきだした。
「あーらら、大好きな姫さんを殺しちゃうのぉ?」
突然、緋目に腕を掴まれ、清蘭の体は放り出された。
目の前に、シェルの剣の切っ先がある。
あとほんの少しで、眉間を貫かれるところだった。
「姫さま……」
シェルは、一瞬呆然とした。
「じゃあねぇ。姫さんのお代は、もらっといたげる」
天幕を支える木の棒を緋目は蹴とばした。落ちてくる布が体に絡まる。清蘭は視界がふさがれ、身動きも取れなかった。
「シェル!」
叫んでも、その声は砂でざらりとする天幕の布に吸い込まれてしまう。
「姫さま」と叫ぶ、シェルの声が遠く聞こえる。
息が苦しくて、もがくけれど。布から抜け出すことができない。
「……シェル……」
それは言葉になったのか、思いでしかなかったのか。清蘭には分からなかった。




