9-2 清蘭の不安
早朝、荒れ地山羊の甲高い鳴き声で清蘭は目が覚めた。
天幕の外へ出ると、乳白色の霧に辺りは包まれていた。
ぽた、ぽたり、と網に集まった霧が、器に落ちていく音が聞こえる。
そのゆったりとした音で目を覚ますと、天幕にシェルの姿はなかった。
二人では狭く感じる天幕も、一人きりだと広く思えるほどだ。
生き延びた民も、今はまだ気が張っているけれど。放浪生活が長引けば、疲労の色も濃くなるだろう。
早く皆を安全な地に定住させてあげたい。
清蘭は、藍国の方角へ向けて祈りの形に手を組んだ。
霧が風で流されると、同じように祈りをささげる人たちの姿が見えた。
「ちょいと、旦那にね。あの人は、橋を渡れなかったからさ」
清蘭と目が合った婦人が、困ったように眉を下げた。
旋回橋の前で砂人に襲撃されたことは、今も鮮明に記憶に焼き付いている。
つらさ、悲しさ、悔しさ。
ともすれば、濁流のような苦しい感情に呑みこまれてしまいそうになる。
「あの人がいたらと思うけどね。けど憎しみに囚われて、復讐のためだけに生きちゃいけないんだよね。あの人は、きっとあたしに幸せになってほしいと望んでいるに違いないからね」
清蘭はうなずいた。
霧をまとい、しっとりとした髪が頭の動きに合わせて揺れる。
アシアはどうしているだろう。
(きっと生きていてくれますよね)
そう信じなければ……アシアに失礼だ。
天幕に戻ったとき、シェルが朝食を用意してくれていた。干しパンと干しチーズの簡素な食事だ。
「姫さま、髪が濡れていらっしゃいます」
「ありがとう。大丈夫です。霧で湿っただけですから」
あわてて布を取りに天幕に入ろうとするシェルを、清蘭はとどめた。
「いえ。慣れぬ生活ですから、風邪を召されては大変です」
結局、乾いた布でがしがしと頭を拭かれてしまった。
「い、痛いです。力が強すぎます」
「濡れているよりはいいです。ご心配なさらずとも、はげるほどの力は入れませんから。まったく私に何も言わずに、天幕から離れないでください」
「ごめんなさい」
布の端から見上げると、いつも通りのシェルだ。昨夜、よそよそしいと感じたのは、考えすぎだったのだろうか。
「まぁ、私も姫さまが眠っておられる間に、見回りに行っていたので。お側にいなかったのが原因ですね」
「見張りって、この辺りは危険なのですか?」
「今朝、荒れ地山羊が鳴いておりました。あの山羊は、不審なものを見ると鳴いて仲間に知らせるのです。用心するに越したことはありません」
「そういえば、わたくしたちがこの地に到着した時も、しばらく鳴き声が聞こえていましたね」
「動物を警戒してなら、いいのですが」
シェルは、砂地の向こうにある岩場に目を向けた。
太陽が昇り、霧は次第に晴れていった。
二人で朝食をとっている時、シェルは無言だった。ただ干しパンを割る、硬い音だけが聞こえる。
「あの、シェル。ひとつ訊いてもいいですか?」
「私に答えられることであれば」
清蘭は尋ねていいかどうか逡巡しながら、ようやく質問を口にした。
「ここのところ、わたくしのことを避けていませんか?」
「いいえ」
即答だ。けれど、だからこそ嘘だと分かった。
「護衛である私が、姫さまを避ける理由がありません」
(そうじゃなくて……)
もやもやした気持ちが、込み上げてくる。
忠誠とか忠義とか、そういうのを取り払って、シェルは清蘭のことをどう思ってくれているのか。それを聞きたいのに。
確かに以前、愛していると言ってもらった。
でもその告白は永遠なの?
シェルが捧げてくれる忠誠に期限はない。けれど愛情が無期限だと思いあがることもできない。
「あ、あの」
清蘭は、思い切って身を乗りだした。シェルは椀に入れた水を飲んでいる。
「以前、わたくしに圧倒的に足りないものがあると言いましたよね。それってなんですか?」
ぶーっ!
突然、シェルが水を噴いた。
「え? ええ? 大丈夫ですか?」
シェルは噎せて、咳きこみながら地面にうずくまる。こんなに衝撃を与えるようなことを尋ねただろうか。
まだしゃべることのできないシェルは、手で「大丈夫です」と示した。
(大丈夫そうに思えないんですけど)
清蘭は、シェルが落ち着くのをじっと待った。
「……参りましたね」
髪を乱暴にかきあげながら、シェルがつぶやく。その青い瞳は、清蘭を見ていない。それが妙に口惜しくて。清蘭は身を乗りだすと、シェルの両頬に手を当てた。
「ちゃんとわたくしを見てください」
「見ているじゃないですか」
「今じゃなくて、昨夜とか。天幕の中とかです」
「……無茶言わないでください」
想像もしなかった答えに、清蘭は目を丸くした。
「そんな難しいお願いはしていません」
「姫さまにとっては、難しくないかもしれませんね」
「王宮では、もっと……」
言いかけて、清蘭は口をつぐんだ。
自分の想いをぶつけるのが、今のシェルにとっては迷惑以外の何物でもないのなら。これは単なる我儘だ。
(そうですよね。今は好きとか言っている場合じゃありません)
清蘭は、シェルの頬から手を離した。
「……アシアのこと、心配なのは分かります。わたくしも、そうですから」
「心配などしていません」
シェルは断言した。
あまりにもそっけない態度だ。
「姫さまは、前へ進むことだけをお考えください」
「そう、ですね。食事を終えたら、皆に緑水河のことを話します。いつ出発するのかも相談したいですし」
視界の端に、シェルの戸惑ったような表情が映った。けれどそれを確認して、どうなるというのか。
非常事態なのに。自分の感情を優先などさせたら、単なる子どもだ。




