8-1 その日
アシアは今朝も平パンに馬芹をふりかけて、満足そうに食べている。
シェルは平パンに羊のチーズ、杏のジュースという穏やかな味が特徴の藍国風の朝食だ。もちろん瓜も忘れてはいけない。
「アシア、今日も一緒に王宮に来るか?」
「いや、やめておく。もう香辛料が少なくなっているんだ。わたしは市場に行かねばならない」
「清蘭が寂しがるぞ」
「ならば、夜に行くと伝えてくれ。双眼鏡で一緒に星を見よう、と」
「それはいいな」
今日はよく晴れているから、きっと美しい星が見えるだろう。夜に、果物と香辛料たっぷりの軽食でも差し入れてやるか。
二人が喜ぶ姿を想像すると、シェルは自然に笑みがこぼれた。
「じゃあな。香辛料を買いすぎるなよ」
「分かっている。清蘭によろしくな」
出勤の時間になり、玄関から出たシェルを、アシアはいつまでも見送っていた。
家の前に一人でぽつんと立つアシアが、今日は妙に小さく、か弱く見えた。
「珍しいな、あいつ」
朝の空は、雲一つない晴天だった。
だが見上げれば、家の屋上に積み上げられた日干しレンガが目に入るし、小路に面した家の壁には馬止めとなる柵が立てかけられている。
それに街の目につかぬところには、大きくはないが狼煙台も設置されている。
清蘭の考えと似てはいるが。違うのは、自警団が結成されたこと。それぞれの家に武器が装備されたことだろう。
この国に軍はないが、決して非武装を貫いているわけではない。
王女の護衛であるシェルの管轄ではないので、詳しいことは知らないが。
東地区、西地区、南地区、北地区。それぞれの地区を住民が守るという形になっているようだ。
高台にある王宮に向かう途中で、シェルはふり返った。
空の果てに煙が上がっていないことを確認するために。
◇◇◇
自室で窓から空を見ていた清蘭は、廊下を歩く足音に気づいた。
扉を叩かれる前に、自分から開き、思いきり目の前の体に飛びつく。カシャン、と剣が揺れて鳴る音がした。
「シェル? お早うございます」
「はい、お早うございます」
不機嫌そうに眉を下げて、シェルが見下ろしてきた。
もっと力強くしがみつけということなのでしょうか。清蘭はぎゅうううーと腕に力をこめた。
「姫さま、これは何かの罰でいらっしゃいますか?」
「愛情表現です」
ぎゅうううー。
「姫さまに圧倒的に足りないものが、分かりました」
「え、なんですか? 教えてください」
「……それは。まぁいいでしょう」
言いかけた言葉を、シェルは呑みこんでしまった。尋ねても、ちゃんとした答えをくれない。
「それよりも姫さま。私の名を疑問形で呼びましたね。入ってくるのが私であると確信が持てないのに、飛びつかれたのですね」
なんだか話をはぐらかされた気がする。清蘭はシェルにしがみついたまま、口をとがらせた。
「朝一番に、わたくしの部屋を訪れるのはシェルだけです」
「確認もせずに飛びついて、それが光月だったらどうするのです」
「……困りますね」
にやついた赤毛の占い師に抱きつく自分を想像すると、げんなりする。
しょうがない。明日からは、シェルの顔を確認してから飛びつこう。
「何をなさっていたのですか?」
窓が開かれたままなのに気づいたシェルが、尋ねてくる。
「空を見ていました。正確には、狼煙について……ですけれど」
「ああ」
苦い面持ちのシェルの返事は、重い。
「先日の確認作業では問題なく伝わることが分かっていますから。大丈夫かと」
「そうね。わたくしが気にしてもしょうがないですね」
分かっている。二人そろって話題をすり替えていることを。
自分たちはこれから毎日、狼煙が設置された方角の空を気にしながら過ごさなければならないのだ。
昼間は空に昇る煙を、そして夜は空を照らす赤い炎を。
その日が永遠に来なければいいと願いながら。
「今朝はアシアは一緒ではないのですか?」
「夜に来ると申していました。姫さまと一緒に、星を観測したいと」
「素敵。夜更かしをしてもいいかしら」
清蘭は嬉しさに、手をパンッと叩いた。
「よろしいですね。姫さまやアシアの好きな夜食を用意いたします」
「シェルも一緒よ?」
「もちろんです。私は常に姫さまと共におりますから」
「なになにー? 俺も交ぜてよー」
今夜の予定で盛り上がっているところに、軽い声が割り込んできた。
「またお前か」
「またあなたですか」
声をそろえて、二人で光月をにらみつける。いったいいつの間に部屋に入って来たのだ。しかも勝手に。
「なんだよ、星のことなら俺が詳しいぜ。この間だって、アシアに星を道しるべにする方法を教えてやったんだからな」
「……いつの間に妹に取り入ったんだ」
「いやー。あの子、呑み込みがいいのな。占星術も教えてやろうかな。ま、他のことも教えてやってもいいけどさ」
にひひ、と光月が下卑た笑いをもらす。
(笑い方が、やっぱり銀目に似ているんですよね)
光月によると、占い師が「ひゃーははは」とか「うひゃひゃ」とか笑うのは、仕様というか様式美なのらしい。
意味もないのに笑うことで、相手を自分の占いの世界に採りこんじまうのさ、と光月に説明されたことがあるけれど。
そんな、突然笑いだす占い師ばかりが溢れている桂国って、どうかと思う。
「アシアはまだ十四歳だ。余計なことを教えるなよ」
「ふーん。姫さまも同い年だぜ」
不機嫌そうに唇を引き結んだシェルは、ぶすっとしたまま光月の頭に拳骨を落とした。
その時だった。
光月が目を窓の方へ向けたのは。表情は情けないのに、その眼光はとても鋭い。
清蘭は恐る恐る光月の視線を追った。
抜けるほど青い空に、一筋まっすぐにのぼる赤い煙。
間違いであればと、目をこすったけれど。
「狼煙……」
赤は敵の来襲だ。




