5-3 恋をしている
一日中、泉や井戸をめぐった清蘭は疲れ果てていた。
蒸し風呂の蒸気にほどよく温められ、ついうとうとしてしまう。
「ああ、だめですね。いくら温かいといっても、裸で眠っては……」
でも、瞼が重くてしょうがない。とにかく風呂から出て、着替えよう。
もう夕食はいいから、とにかく寝台に入りたい。
湯気の中をふらふらと歩いて、更衣室へと向かう。簡単に服をはおり、よろよろと廊下に出る。
明日はまた水源めぐりだ。
踵やつまさきが鈍く痛むけれど、がんばって歩かなければ。
ぼんやりとした頭で考えながら進むと、誰かにぶつかった。
「おやおや、これは姫さんじゃないか。ぼんやり歩いてたら、危ないぜ」
清蘭を受け止めたのは、赤毛の青年だった。お父さまの客人のようだけれど、まだ滞在していたとは知らなかった。
「あなたは……」
「名乗るのが遅れたな。俺は光月。桂国から来た」
水晶の耳飾りを揺らしながら、光月は微笑んだ。あでやかな青年だ。
「なんだよ。あの怖いおっさんは、今日はいないのか」
「失礼ですね。シェルは怖くなんてありません」
はっきりと物を言うし、見上げるほどに背も高いし、眼鏡の奥の目つきは鋭いけれど。
(あら? あらら? もしかしてシェルったら、怖い要素が揃っているのですか)
いつも、そしてずっと近くにいたから気づかなかった。
「ふぅん。まぁいいや。あいつに邪魔されたくないもんな」
「わたくしに何か用ですか?」
眠気を悟られたくなくて、清蘭は気丈にふるまった。
「べっつにー。俺、あんたと話をしたかっただけだから」
「では、もうお話ししましたから、用は済みましたね」
「つれないなぁ」
にこにこと人懐っこそうな笑みを浮かべながら、光月は清蘭の顔をのぞき込んでくる。
「冬李王子の件は、済まなかったな」
「どうして急に桂国の王子の名が出るのです?」
「いーやー。王子はあんたに失礼なことをしたんだろ? ま、桂国の国民として一言詫びとこうかと思ってさ」
「関係ない方から謝罪されても、意味はないと思います」
破談になってあたりまえの縁談だった。
「ま、彼は自分が滅びの王子であることを知らないからさ。言いたい放題だよな。周りが悪い占いをひた隠しにして、なおかつ災いがふりかからないように、王子を甘やかした。挙句の果てに、わがまま放題に育った王子をもてあまして、滅びの王女に押し付ける」
困ったもんだ、と光月は首をふった。
「で、どうだった? 姫さんよ。金目に、呪いにも等しい占いをつきつけられた人生は」
「……っ!」
清蘭は、言葉を失った。
「王子は増長して、あんたは自分の存在に負い目を感じてってところか。こりゃあ、悪い占いの場合は後の対応が大変だな」
何なのですか! この人は。
「失礼します」とだけ告げて、清蘭は立ち去ろうとした。
「ああ、ちょっと待てって。もうちょっと、話をしようぜ」
光月の伸ばした手が、清蘭の腕を掴む。
「その必要はない」
低い地鳴りのような声が聞こえたと思うと、次の瞬間には光月が床に倒れていた。
「え? 俺、なんで?」
「床にくちづけるのが好きか?」
へたりと廊下に倒れたまま、光月は目を丸くしている。どうやらシェルが、光月の足を横に払ったようだ。
「姫さま、ご無事ですか」
「え、ええ。何もされていないです」
「いえ、外的なことではなく。心を乱されたのではないですか」
シェルが屈みこんで、清蘭の顔をのぞき込んでくる。眼鏡の奥の瞳は、心配そうに揺らいでいた。
(どうして分かるのですか?)
一人で頑張ろう、シェルの手を煩わせないようにしよう。甘えすぎないようにしよう。
そう考えて、遠ざけようとしたのに。
「なぜ、あなたから歩み寄ってくるのです?」
「いや、私は姫さまの護衛ですから。お側にいないと護れませんが」
会いたかった。
離れていたのは、ほんの二日ほど。なのに、こんなにもあなたのことが愛おしくてしょうがない。
(厳しい言葉も、わたくしを思ってくれているから)
清蘭は、シェルの胸に飛び込んだ。
「ひ、姫さま?」
いつものように、引き締まった胴に強く抱きつく。
「一緒にいてください。わたくしの側に、ずっと」
「何を当たり前のことをおっしゃるのです。このシェルは、姫さまのためだけに存在するのですよ」
スパイシーな柑橘系の匂い。この香りをかぐと安心する。
大好き、シェル。
口にはできない。けれど心では何度も叫んだ言葉だ。
「痛っ」
急に足に痛みを覚えた。
「どうなさったのですか?」
廊下にしゃがみ込んだシェルが、清蘭の履き物を脱がせる。膝に清蘭の足を載せ、いたわるように触れてくる。
「靴擦れをなさっておいでですね。小指と踵が赤く腫れております」
「どうりで痛いはずです」
外出時の移動は舟が多いし、一日中歩くなんてことはまずないから。
「手当てをいたしましょう。失礼します」
シェルは、片腕で清蘭を担ぎ上げた。
「あの、これって、子どもの抱っこではないですか?」
「お気に召しませんか? では」
言うが早いか、今度は横抱きにされていた。
これは、違う意味で恥ずかしい。清蘭は両手で顔を覆った。
「どうなさいました? 足が痛みますか?」
「……痛いのは俺なんだけどさ」
ようやく床から立ち上がろうとした光月を、シェルは一瞥する。そして無言で立ち去った。
「いや、なんか言えよ。放置すんなよ」
自室の露台に置かれた椅子に、清蘭は座っていた。
蒸し風呂の後の火照った体に、夕暮れの風が心地よい。
紅水河のさらさらという水音。家へ帰るのだろうか。子どもたちの声が、風に乗って聞こえてくる。
「お待たせいたしました。薬と包帯を持って参りました」
シェルがかごを手に露台に出てくる。かごには飲み物の入った瓶もある。
怪我の手当ては、侍女の仕事のはずだけれど。シェルは清蘭の足をてのひらに載せた。
服の裾がするりと肌の上を滑り、膝の辺りから素足が丸見えになる。
「は、恥ずかしいです」
「王宮は高い位置にありますからね。座っていれば露台の手すりに隠れて、外からは見えませんよ」
「いえ、そうではなくて」
シェルに素肌を触られていることに、とてつもなく羞恥心を覚えるのだ。
「どうやら靴擦れは右足だけのようですね」
長い指が、清蘭の足を撫でる。
親指を確認し、次に小指。踵を掴まれた時には、きゅっと瞼を閉じてしまった。
「痛いですか?」
「くすぐったいです」
とっさに出た言葉は嘘だった。
あまりにも優しく丁寧に触れられるから、くすぐったさも感じない。
ただ、我慢できないほどに苦しいのだ。心が。
消毒薬のスッとする感じも、包帯を巻かれていく感触も、冷たいのに優しく触れてくるシェルの手も。すべてが清蘭の胸を高鳴らせる。
「わたくし、おかしくなってしまったのかもしれません」
「なぜ?」
「だって。ドキドキするんです。それにシェルに手当てしてもらって、嬉しいのになんだか辛くて。どうしていいか、分からなくなるの」
包帯の端を結び終えたシェルは、小さく笑った。
「どうして笑うのですか?」
「いえ、可愛らしいと思いまして」
何がおかしいのか、シェルは肩を震わせている。
「姫さまは、恋をしてらっしゃるんですね」
「恋?」
「ええ、私に」
「わたくし、口にしたことがありました?」
「言葉になさらずとも分かります。姫さまが私を慕ってくださっていることは」
「それは……」
確かに小さい頃から遠慮なくシェルの胸に飛び込んでいたけれど。
今でも、習慣のように飛びついているけれど。
でも、昔と違って……シェルの匂いやたくましい体を意識してしまうのだ。
「いつ気づいたのですか?」
「そうですね」
シェルはしばらく考えた後で、今いる露台を指さした。
「私が家に戻る時、姫さまはこの露台から見送ってくださいますよね」
「それは、そんなに珍しくないことだけど」
「ええ。普通の見送りならば」
包帯を巻いた清蘭の足を床に下ろしたシェルは、眼鏡を外した。
青く美しい瞳が、まっすぐに清蘭を見つめている。椅子に腰を下ろす清蘭に向かい、シェルが身を乗りだしてくる。
「双眼鏡を使ってまで、私のことを捜してくださったでしょう?」
低い声で、清蘭の耳元でささやかれる。
椅子の左右のひじ掛けに両手をついて、シェルは清蘭を見下ろしていた。
「どうして、それを」
発した声はかすれていた。
だって、あなたの姿は見えなかったのに。一度しか、双眼鏡で捜していないのに。
「夜といえども、王宮では常に篝火が焚かれ、明るいのです。レンズというものは、光を反射するのですよ。ご存知ですよね」
「は……はい」
ずるずると清蘭は崩れるように、椅子に座っていられなくなった。
「いけない姫さまですね」
「わたくしは……ただ」
顔も体も火照ったように熱い。
どんなに涼しい夕風も、この熱を冷ましてくれることはない。
「ただ、なんですか?」
清蘭は耐え切れずに、きつく瞼を閉じた。
けれどシェルは退いてくれるどころか、顔を近づけてくる気配がする。
「……シェルを、見ていたかったの」
「なぜ、私を? 護衛の姿を見るのが趣味なのですか?」
(違う。わたくしの気持ちを分かっているのに、どうして意地悪を言うの?)
「だって……だって、わたくしはシェルのことが……」
今日は、指で唇を塞がれなかった。
「私のことが、何ですか?」
「……好き……なんです」
「目を開けてください」
促されて、恐る恐るまぶたを開く。
「こんな年の離れた、護衛でしかない男に恋するなんて……本当にどうかなさっています」
シェルは清蘭の手の甲に、軽く唇をふれた。
それがどういう意味なのか、尋ねることはできなかった。
ただ、忠誠を誓うくちづけでなければいいのに……と。
露台の手すりは植物の蔓を模した金属製だ。
その手すりは、二人の姿を隠してくれる。
繊細な模様のすきまから、西日にきらめく藍色の街が光って見えた。




