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5-2 寂しいのかもしれない

 翌朝、シェルは霧の中を出勤していた。

 年に何度か、川面から立ちのぼる霧で早朝の藍都らんとが白くけむることがある。

 王宮へ向かう足どりが、いつもよりも重いのは、王女を泣かせてしまったことが今も気にかかっているせいだろう。


(いや、気にするな。私はただの護衛なんだ)


 ぶんぶんと首を振ると、額の傷が鈍く痛んだ。


 広場に立つ朝市では、屋台に野菜や果物、紅水河で水揚げされた魚を並べている。

 どこからかパンを焼く香ばしいにおいが漂ってきた。

 ふと、市場をよぎる長い髪の少女に目が留まった。


「姫さま?」


 目を凝らしてみるが、白い霧にまぎれて、少女の姿はすぐに見えなくなる。


「まさかな。こんな早朝に、しかもおひとりで街に降りてこられるはずがない」


 姫さまのことを考えすぎて、幻を見てしまったのだろう。重症だ。

 それでも、そのまま立ち去ることができず、シェルは立ち止まった。


「王宮の地下と、広場。まずはこれで二つ」


 ぶつぶつと呟く声。聞き違えるはずがない。


「姫さま!」

「きゃあ!」


 清蘭の背後から、細い腕をぐいっと掴み、その体を引き寄せる。

 なにが起こったのか分からなかったのだろう。清蘭は、目を見開いて瞬きすらしない。手に地図と竹ペン、それに小さなインク瓶を持ったまま立ちつくしている。


「何をしておいでなのです。供も……私もつれずにおひとりで」

「だ、だって侍女はまだ寝ていますもの。シェルだって、まだ出勤前でしたから」

「叩き起こしなさい!」


 思わず発した大声に、清蘭は固まり、市場の人たちは「なんだ、なんだ」と騒ぎ出す。

 まずい。王女が一人で出歩いているなど知られたら。シェルは清蘭の腕を引っぱって歩きだした。


「いいですか。どこで誰が狙っているか分からないのです。ご自身を大事になさってください」

「シェルは心配しすぎです。わたくしに価値なんてありません」

「価値があるかどうか決めるのは、姫さまではなく相手側です。もし砂人さじんに捕まって、紅水河の水源と引き換えにすると脅迫の材料に使われたらどうなさるのです?」


 急に、清蘭はしゅんとしおれたようにうつむいた。


「……これ以上、足を引っ張りたくはありません」

「なら、すぐに王宮に戻りましょう」

「シェル。一人で出かけるのでなければ、平気ですか?」

「護衛がいれば、問題はありません」


 そう、自分さえ姫さまの側に控えていれば。

 泣いたり、わめいたりと大変だったが。こうして素直でいてくれるのならば、助かる。


 けれど、その安心は慢心だった。




 数日後。シェルはなぜか王妃の護衛についていた。


「え?」


「シェル、参りますよ」


 王妃に命じられ、シェルは庭へと向かった。

 何がどうなっているのか理解できない。今朝、王宮に上がったとき、母から護衛の交代を命じられたのだ。


 ――まぁ、いい機会だ。お前も姫さまも、互いに近すぎた。


 交代の理由を問うシェルの背中を、母は蹴とばした。


 ――グダグダ言うな、と。



 王宮の庭にある船着場から、舟に乗り込む。

 王家の紋が刻まれた舟は、冬李王子との縁談の時にも乗ったものだ。


「出してください」


 王妃が命じると、舟は揺れることもなく穏やかな紅水河に漕ぎ出した。


 水に反射する光、風にそよぐ木々の枝。すべてが美しいのに、シェルの心は晴れない。


「どちらへお出でになるのですか?」

「そうね。すぐに戻るかもしれないし、藍都をぐるりと一回りするかもしれません」


 王妃は薄い青と白の二枚のベールを顔にかけた。


(はっきりしない外出だなぁ)


 先に舟に乗り込み、王妃の手を取って導く。ふだんよりも高い手の位置に、シェルはとまどった。

 舟は川を下り、市の立つ広場、そして学校を巡った。


「そうですね。次は藍都の外れになるのですけど。確か公園がありましたよね」


 とくに目的がありそうにもないのに、王妃は舟頭に次々と場所を支持する。

 公園近くに着くと、王妃は舟を止めさせた。とはいえ船を下りるわけでもない。ただ泉のある公園を眺めているだけだ。


(母さん?)


 泉の前に立つ後ろ姿は、間違いなく母だ。ならば、今日その背が守っているのは。


「姫さま」

「お静かに」


 しー、と王妃が唇の前で人差し指を立てた。


「あの子、最近はこうして街に出かけるようになったのです。どうやら紅水河の水源の場所をまとめているようです」

「それは、地底河川の工事についてですね」

「自分なりにできることを模索しているのでしょうね。シェル、あなたには謝らないといけません。娘のすべてを、あなたに任せてしまったことを」


 王妃は瞼を伏せると、シェルに頭を下げた。


「せめて一日でもあの子を産むのが前後していれば、滅びの王女などという占いはなかったかもしれないと、後悔ばかりしていました。でも、違ったのですね。火国、桂国ともに同じ占いが出ているのならば……これはもう避けられない運命なのです」


 暴力的な占いがもたらしたのは、気持ちの断絶。たとえ親子であろうとも、一度壊れれば修復は難しい。


「親子なのに、ちゃんと話すこともできないなんて。おかしいですよね」


(王妃さまも姫さまも、もう互いに傷つきたくないのだろうな)


 工事現場の監督から聞いた話を書き、さらに清蘭は井戸の奥に紐を垂らしている。長い紐をたぐりよせると、その先端には温度計が結びつけられていた。


(たしか新たにできた地底河川の流れを知るためには、水温を計らなければならないと、教師が言っていたな)


 藍人が大切に守り、地下に隠す紅水河。その正確な位置と流れを記すことが、清蘭が見つけた務めだ。

 シェルの意見を聞き入れ、大人や専門家を差し置いてでしゃばることをやめた王女。

 その本質はとても素直だ。


(なのに、なんで私を避けるんだ)


 会えばいつも飛びついてきていたのに。

 もう何日、抱きつかれていないだろう。

 シェルは、はっとした。


(もしかして、寂しいのか。私は)




 王宮へと戻る途中、川のほとりに露店が立っていた。

 十人ほどの客が、その露店を取り囲んでいる。女性が多いが、中には男性の姿もちらほら見える。


「あれは何の店でしょうか」

「まぁ、懐かしいこと」


 王妃は舟から身を乗りだして、目を細めた。


「桂国の水晶細工ですよ」

「水晶ですか。あの透きとおってきらきらした」

「ああ。シェルはパラティア出身だから、知らなくて当たり前ね。桂国の水晶細工はこの辺りで有名なのですよ。求婚するときに、男性が女性に贈ることもありますね」

「そうなんですか」


 王妃は自分の右耳の上に指を添えた。


「求婚するときから結婚式までは、女性の右側に。結婚してからは左側に水晶の髪飾りをつけるのです。一生、あなただけを愛します、という男性の誓いなのですよ」

「初めて知りました」


 桂国の職人だから、いつも藍国にいるわけではないのだろう。露店からは、人々の熱気が伝わってくる。


「水晶細工を、一緒に選んであげることができれば……そう願ったこともあります」


 王妃は寂しげに睫毛を伏せた。


「けれど、わたくしと清蘭が二人そろえば、嫌でも人々は滅びを意識せざるを得ません。それにもう今さら母親ぶることなんて、できません」


「姫さまは、奮闘なさっておいでです。いかにしてこの国を守るか、そのことに心を砕いておいでです。滅びの姫の烙印を押されたからこそ、民のために頑張らねばならぬのでしょう」


「あの子が? まだ幼いのに」


「王妃さまがお考えになっているよりも、姫さまはしっかりなさっています。日干しレンガや紅水河を利用した防衛など……ただ、しっかりしようと気負いすぎておられるので、誰かが止めて差し上げないといけないのです」


 シェルが話している途中で、王妃は足を止めた。

 どうなさったのか? とふり返ると、王妃はじっとシェルを見つめている。


「わたくしは娘から目を背けていたのね。シェル、あなたは王とわたくしの代わりに、あの子をしっかりと見続けてくれていたのですね」

「王妃さま……」

「わたくしは、親であることを放棄していたのだわ」


 その声は、今にも消え入りそうにかすれていた。


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