チいさいアキ (5)
ファミレスを出て、ヒナとチアキは中学校にやって来た。まだ夏休み中だし、今日は部活もやっていないみたいだ。誰もいない校庭を、強い日差しがじりじりと照りつけている。
校門の横の大きな桜の木陰に入る。昔も良くここで涼んだ。部活で学校の周りをランニングした後とか。夏場は良いんだけど、春先、桜が散った後の毛虫の大群が今でもトラウマになっている。あれ、どうにか出来ないのかね。
チアキはあれからほとんど口を開かない。ヒナもどう言葉をかけて良いのか判らない。あの時と一緒だ。チアキが学校を去った日、ヒナはチアキに何も話せなかった。
「ヒナは、知ってたんでしょう?」
沈黙を破ったのはチアキだった。誰もいない校庭を、じっと見つめている。かつて、チアキが通っていた学校。そして。
チアキが、切り捨てた学校。
「うん、知ってた」
それを知ったのは、チアキの心の中を覗いた時だ。だから、銀の鍵が無ければ、何も知らないままだったと思う。その方が良かったのかもしれない。友達がいじめを受けて、転校してしまった。その事実だけで十分だっただろう。
チアキは嫌いだった。学校も、クラスメイトも、先生も、ヒナも。みんな嫌いだった。嫌いな物に囲まれて生活することが耐えられなかった。
「私は、どうしても逃げ出したかったんだ」
チアキの顔に浮かんでいる表情は、憎悪だ。そこまでして、チアキはここから逃げ出したかった。その気持ちを知って、ヒナにはどうすることも出来なかった。
最悪の中学。いじめが横行し、そのことを黙殺する教師。大きなトラブルにならなければ、放置して通り過ぎるのを待っている。強い者に媚びへつらい、それでいて足元をすくう機会を狙う弱者の群れ。表向きだけの仲良しごっこ。
チアキは、自分がいるべき場所はここでは無い、と感じていた。こんな場所にいてはダメだ。ここは自分を腐らせる。もっと違う場所があるはずだ。自分は、ここにいてはいけないんだ。
みんなが嫌いだから転校する。この理由だけでは少し弱い感じがした。なんだか気に食わないという理由だけで転校を許してくれるほど、チアキの親も、世間も甘くは無いだろう。ならば、この腐りきった学校にふさわしい理由を与えてやればいい。そうすれば、チアキがいなくなった後、少しはマシになる可能性も出てくるというものだ。
だから、チアキはいじめを受けていることにした。狂言だった。
荒れきった学校は、チアキの嘘にまんまと騙された。誰一人疑う者はいなかった。生徒も、誰かがやったんだろうとしか思っていなかった。そもそもクラスメイトにもそんなに好かれていないチアキがいじめに遭うことは、事実としてすんなりと受け入れられてしまった。
ヒナも、チアキが誰かにいじめられていると完全に思い込んでしまっていた。チアキの心の中を覗けばすぐに判る話だったが、最初にチアキに同情してしまったことが、真実を知る妨げになってしまった。
チアキの企みは成功した。学校側は犯人探しがうまくいかず、穏便な解決策の一つとして、チアキの家族に転校を申し出てきた。それこそが、チアキの待ち望んでいたものだった。チアキは両親に、その条件を飲むことを伝えた。そこからは、話が早かった。
最初の臨時学級会でチアキの中に見えた悔しさは、話が思っていたよりも大きくならなかったことに対するものだった。問題を顕在化させ、被害者がチアキであることを広く知らしめたかったのに、それが出来なくて悔しかった。
いじめの犯人探しが行われている間、チアキがずっとうつむいていたのは、笑みを隠すためだった。計画がうまくいっている。いじめの加害者たちが、自分たちの行為に調査が及ばないかと戦々恐々としている。学校側が対応に苦慮して右往左往している。その姿が滑稽で、笑いを隠すことが出来なかった。
その事実を知って、ヒナは愕然とした。チアキがみんなのことを嫌いだ、ということは知っているつもりだった。だが、そんなことをしてまで逃げ出したいと考えているとは、予想だにしていなかった。
嫌いだ、と思いながらもヒナと話をしてくれるチアキ。学校に来ているチアキ。ヒナとペアを組んでくれるチアキ。
でも、チアキにとってのヒナは、他の嫌いな生徒と一緒。切り捨てて置いていくだけの存在だった。表面だけの友達。いや、表向きでも、そこまで親しくは無かったか。ただの知り合い。それだけ。
最後のお別れの時、ヒナはチアキに非難の目を向けた。なんで、チアキ?どうして?確かにこの学校はロクでもない場所かもしれない。でも、そこまでしなければいけなかったの?そんなにみんなのこと、ヒナのこと、嫌いなの?
チアキの心の中は、晴れやかだった。もうここには用は無い。必要なものなんて何も無い。チアキは、これから自分のいるべき場所に行くんだ。うつむいたままの顔には、しっかりと笑顔が浮かんでいる。
ただ、一度だけヒナと眼があった。強い意志を感じる。ひょっとしたらヒナには気付かれたのかもしれない。学校の中で唯一言葉を交わすクラスメイト。ヒナになら、知られてしまっていてもおかしくは無い。
チアキはそのことをずっと心残りにしていた。ヒナがチアキの自作自演を告発すれば、事態は大きく変わっていたかもしれない。だが、ヒナはそれをしなかった。知らなかったのか、或いは何か理由があったのか。それだけが、心の中で引っかかっていた。
「ヒナは、どうして黙ってたの?誰かに言おうとか、思わなかったの?」
思わない訳では無かったが、正直手遅れだった。ヒナがそのことを知ったのは、もう全てが決まってしまった後だった。
それに、たとえその事実を早い段階で知ったとして、ヒナは誰かにそのことを話しただろうか。チアキは学校の全てが嫌いだった。そのことは良く解っている。チアキがそこまでして逃げ出そうとしているのを、ヒナが止めてしまって良いのだろうか。
「チアキは私がしゃべると思った?」
チアキは首を横に振った。
「ヒナはおしゃべりだけど、そういうことは言わないよね」
人の心の中を見てしまう関係上、ヒナは知っていることを何でもしゃべる訳にはいかなかった。そもそも何が口に出された情報で、何が心を読んで得た情報なのかが判らなくなってしまっていた。なので、結果的に他人の事情については口が堅くなっている。基本的にはおしゃべり。ハルのことになると饒舌です。
チアキの顔から、ほんの少し険しさが消えた。ヒナに確認出来たからだろう。知っていて、話さなかった。そして多分、これからも話すことは無い。満足した、チアキ?
「ヒナ」
うん、なあに?ここにいるよ、チアキ。
「私のこと、卑怯だと思う?」
そんなことは無いよ。チアキはここから逃げ出したかった。そのために知恵を絞った。あの時、人の心を読む銀の鍵を持っていたヒナが最後の瞬間まで気が付けなかった。大したものだと思うよ。
ヒナが気になっているのはね、チアキがそこまでして、何を得ることが出来たのかってこと。
この学校、クラスメイト、ヒナのことを切り捨てて、チアキはちゃんと自分の居場所を得ることが出来たのかな。新しい学校、楽しかったかな。好きになれる人、出来たかな。ヒナはそれが気になってる。
さっき、ファミレスで話している時さ、気付いてたかな。
チアキ、ほとんど笑ってなかったんだよ。向こうの学校の話をしている時なんか、全然笑ってなかった。
もし転校した先の学校が本当に楽しくて、そこがチアキのいるべき場所なんだって心から思えるのなら。こうやって、ヒナに会うために戻って来たりなんかしないよね。二度と戻るもんかって。そうじゃなかったら、こんな場所があったってことさえ忘れてしまうんじゃないかな。
チアキは何も言わない。ヒナも心は読まない。だから判らないけど、でもきっと、チアキにはつらいことがあったんだね。悲しいことがあったんだね。だから、ヒナに会いに来たんでしょう?チアキの嫌いなヒナに。チアキを認めて、話してくれるヒナに。
「チアキは必死だったんだよ」
追い詰められて、肩ひじを張って、苦しかったんだと思う。ここじゃない何処かなら、きっとなんとか出来る。そう考える気持ちは、ヒナにも理解出来る。ヒナもこの中学はあまり好きじゃなかった。良い思い出なんてほとんど無い。
ハルがいなければ、ヒナも登校拒否くらいはしていたかもしれない。そういうのって、どう転ぶか判らないよね。あの歪な空気の中を、ヒナはハルと、銀の鍵があるからなんとかここまで来れた。どちらも無いチアキがどうすれば良かったのかなんて、ヒナには見当もつかない。
だから、間違ってるとか、卑怯とか、そんなことは簡単には言えない。あの時はチアキを責めてしまった。でも、今はむしろ、それだけの勇気を振り絞ったチアキを褒めてあげたい。チアキは一歩を踏み出した。その先に待っていたものが、予想とはだいぶ違ってしまっていただけなんだ。
「ヒナ」
うん、聞いてるよ、チアキ。
「ごめんね、ヒナ」
あやまらないで、チアキ。あやまってもらうようなこと、何も無い。
あの時、どうするのが正しかったのか、ヒナには今でも判らない。手遅れではあったけど、その気になればチアキの転校を止めることぐらいは出来たと思う。チアキの嘘を隠したまま転校を中止させる手立てなんて、銀の鍵を使えばいくらでもねつ造可能だ。ヒナは、チアキなんかよりもずっと卑怯な手段が使える。
でも、自分の意思で学校を去ろうとするチアキを、ヒナには止めることが出来なかった。笑顔で去っていくチアキを、どうして引き留められるだろう。チアキは広い世界へと旅立とうとしていた。豊かな沃野を夢見て。
外には楽園があるって信じていたチアキ。ねえ、楽園はあった?チアキの望む場所は、そこにあった?ヒナは、チアキを止めるべきだったのかな。一掴みの希望、オリーブの枝を握って、チアキは外の世界で何を見つけられたの?
「ううん。チアキがそうしたかったんなら、それでいいと思ってる」
嘘をついたこと、後悔しているんだね。その嘘をヒナが知っていること、気にしてたんだね。
チアキはもう苦しんだでしょ。報いなんて言葉は使いたくない。チアキが外の世界に出ていくためについた、小さな嘘。ヒナは、そんなことでチアキを否定したりしない。チアキが受けた苦しみを、悲しみを、こうやって一緒に分け合ってあげる。感じてあげる。
大丈夫、心配しないで。お人よしのヒナちゃんは、チアキのことをまだ友達だと思っているから。チアキがヒナのことをどう思ってるかなんて、全然気にしてないから。
誰もいない校庭を、チアキはじっと見つめている。来月には、また転校だ。今度は親の都合。とはいえ、また同じようなことが繰り返される。チアキはそれが不安なんだろう。
「新しい学校、楽しいと良いね」
ヒナの言葉に、チアキはうつむいた。本当にそう思うよ。嘘をついてでも自分のいるべき場所を求めたチアキ。どうか、自分で認められる場所に辿り着いてくれればと、そう願うよ。
日差しが強い。校庭のスプリンクラーが作動して、噴水のような水飛沫が上がった。乾いた地面に水分が沁み込んでいく。微かに七色の虹が浮かんで見えた。
チアキがいなくなって、中学は何が変わったか。
結論から言うと、何も変わらなかった。体育の時間、ヒナと組むペアの子が他の子になっただけだ。ヒナはもともとちょっと変な子程度の扱いで、嫌われ者とまでは思われてなかったから、そこは問題にならなかった。好きな子がはっきりしてる分、色恋沙汰の面倒事が回避出来てむしろ便利だったくらいだ。
チアキの転校は、普通に家庭の事情として扱われた。いじめなんておくびにも出さない。チアキの家はもともとアパート住まいということもあって、すぐに転校先の中学の近くに引っ越していった。学校から補助金が出たとか何とか、そんな噂がちらほらと聞かれた。そんなことよりも、ヒナにはチアキが知らない間にヒナと同じ町から姿を消していたことの方がショックだった。引っ越し先の住所は、誰も知らなかった。
いじめは無くならなかった。学校側がいじめを隠蔽する姿勢を見せてしまったため、生徒側が調子付いてしまった格好だ。チアキの訴えは、学校を変えることは出来なかった。世界を変えることは難しい。これは、ヒナには良く解っていることだった。
十月の頭にチアキが転校して、しばらくの間、ヒナはチアキのことが許せなかった。嘘をついて、みんなを疑心暗鬼にして、そのまま転校してしまうなんて、とんでもない。ヒナにも何も言わずにいなくなってしまうなんて、あんまりだ。
それでも、チアキを引き留めようとは思わなかった。チアキには理由があったのだろう。ここにいたくない理由。毎日がつらくて、苦しくて、どうしようもなかった。我慢し続けた方が偉いなんてことは無い。チアキはここを出ていく手段を一生懸命考えて、それを実行したんだ。
ヒナは、チアキが残りたいと思う理由にはなれなかった。
そう考えると、ちょっとだけ悲しかった。何もかもを切り捨てていってしまったチアキ。表裏なく、正直なチアキ。そんなチアキが、嘘をついてでも出たかった、この学校。ここは、そんなにどうしようもない場所なのだろうか。
確かにいい学校とは思えない。そこかしこでいじめが起きていて、ヒナ自身、それに関わらないようにするだけで気が気ではない。ここより悪い環境はそう無いだろう。
でも、新しい場所に着いたとして、そこは自分のいるべき場所だって、そう言えるのかな。思えるのかな。
この学校にはハルがいる。だから、ヒナはここがヒナのいるべき場所なんだって、胸を張って言うことが出来る。どんなに酷くても、救いようが無くても、ハルがいるなら、そこはヒナのいる場所なんだ。ヒナはハルの近くにいたい。今はお互いにあまり接点が無いけれど、近くにいるって思うだけで安心出来る。
恋愛脳なんて馬鹿にされる。でも、好きな人がいるって、大事なことだ。その人のために、頑張ろうって思える。少なくともヒナはそうだ。ハルのために頑張ろうって。ここで生きていこうって、そう思える。
チアキにも好きな人が出来れば良い。その人の近くにいることが、チアキにとっての一番になれば良い。そうすれば、きっと自分のいるべき場所だって見えてくる。自分の周りが好きになれる。今のヒナがそうなんだから。
夕方、女子バスケ部の練習で、体育館に移動する。途中で校庭の脇を抜けるが、そこでグラウンドを走っている男子バスケ部が見えた。バスケ部は、今日は女子が中で練習、男子が外で練習の日だ。ハルの姿もある。汗をかいて喰らいついている。ハルは、この学校のことが好きだろうか。
バスケのレギュラー争いに、結局ハルは負けてしまった。来年、三年生の夏が最後になる。頑張ってほしい。ヒナはこうやってハルが見えるところで、ハルのことを応援したい。ハルが一生懸命頑張れる学校であってほしい。
他の女子部員たちが体育館に入っていく。ヒナだけが残された。元から鈍臭いって言われてるから、あまり気にされてない。うん、大丈夫。
男子バスケ部のランニングが終わった。ちょっと遠いけど、見えるかな。ばらばらと散らばって休憩している方に向かって、ヒナは大きく手を振った。
ハル、ヒナに気付いて。
銀の鍵なんて使ってない。本当の心の声。ヒナの気持ち、届いてくれるかな。薄暗い校庭から、体育館の入り口にいるヒナのこと、ハルはわかってくれるかな。
突然、ぱっと灯りが点いた。びっくりした。センサーで暗くなってくると電灯が点くようになっていた。ヒナは真上から照らされて、スポットライトの中にいるみたいになった。うわぁ、なんじゃこりゃあ。
そのお陰なのか何なのか、ハルがこちらに気が付いた。それ以外にも、何人か。いや、これは、ちょっと目立ち過ぎだ。顔が真っ赤になる。笑い声が起きる。慌てて体育館の中に駆け込んだ。
その時ちらっと見えた。ハルが、こちらに向かって手を振ってくれていた。ヒナを見つけてくれた。嬉しくなる。身体が熱くなる。ハル、ヒナは、ハルのことが好き。
この学校は好きじゃない。なんなのあのスポット状態。あんなところに電灯があるとか、しかもあんなタイミングで点灯するとか、もう意味がわからない。
でも、ここにはハルがいる。ヒナの好きなハルが。切り捨てるなんて出来ない。どんなにつらくても、苦しくても、ハルのためなら頑張れる。戦える。
チアキ、やっぱり誰かを好きになった方が良いよ。人を好きになるって、強くなるってことだ。ヒナはそう思う。
その日、ぼんやりしていたヒナは部活中にボールをキャッチし損ねて、右手の指四本を突き指した。中間試験まであと二週間を切っている。最悪の試験の始まりだった。