チいさいアキ (2)
いよいよ夏休みも終盤、というか、残り一週間を切った。高校生最初の夏休み。目を閉じれば、楽しかった数々の思い出が浮かんでくる。
「おい、ヒナ、寝るな」
いや、寝てないって。失礼だな、ハル。いくらなんでもハルの前でうたた寝なんかしませんって。すっごい眠いのは確かだけどさ。ふわぁ、うん、寝てない寝てない。
高校一年生の夏休みは、宿題祭りで幕を下ろそうとしていた。いやー、遊んだ遊んだ。遊び過ぎだって話だ。あ、一応バイトとかもしたから、遊んでばっかり、って訳ではないか。うん、なんか、頑張った。
そのツケというか、毎年恒例というか、ヒナもハルも夏休みの宿題がほぼ白紙状態だった。やー、気が合うねぇ。お互いの行動はメッセージとかでやり取りしてて完全に筒抜け状態。まあ、宿題なんてやってる気配はまるで無かったもんね。これはヤバい、という話になって、本日はヒナの家で宿題大会です。
ヒナの部屋だと絶対に遊ぶ、またはヒナが問題を起こすということで、リビングのテーブルの上に教科書やらノートやらをごちゃごちゃと広げている。問題ってなんだよ。あのね、弟のシュウもお母さんもいるのに、一体何をするっていうのよ。ヒナ、流石にそこまで恥知らずじゃないよ。っていうか、問題行動を起こすのがヒナだっていう前提で話をしていたのがムカ。普通は逆じゃね?
ハルとはそれぞれ得意な教科を分担しようって言ってあったんだけど、得意とは、って早速二人とも頭を抱えて固まってしまった。成績的にはヒナもハルも似たり寄ったり。揃って悪い。あー、頭下げてでもサユリ辺りに来てもらおうかな。「え?二人で勉強でしょ?お邪魔じゃないの?」とか絶対言うよな。ダメだ、誰が相手でも同じ反応が返ってきそう。
地道にやるしかない。ハルの補習のせいで一週間お楽しみが削られて、宿題のせいでまた削られて、ヒナつまんなーい。もっとハルといちゃいちゃしたーい。大人の階段登りたーい。
ちら、とハルの方を見る。基礎解析の問題集を見てうんうんうなってる。ヒナ、ハルの恋人になったんだよね。ふふ、ダメだ、集中なんて出来ないや。ハルがいるって思うだけでふわふわしてくる。身体が数センチ浮いてくる。
高校に入って、ヒナはハルに告白された。付き合ってほしいって言われた。ずっと望んでいた、ハルとの交際。嬉しくて、今でも思い出すだけで胸が高鳴ってくる。ハル、ヒナはハルのことが好き。ずっと昔、ハルがヒナのことを見つけてくれたあの日から。そして、これからもずっと。
先週はハルとプールに出かけた。水着、悩みに悩んで、普通にデニムのセパレートにした。露出多めのヤツも考えたんだけどね。ハルにだけ見られるわけじゃないから。オッサンの視線を釘づけにしてもあんまり楽しくない。
その代わり、上にパーカーっぽいラッシュガードを着て、水に入る前によいしょって脱ぐ演出付き。ちょっとドキってするよね。あっそうか、水着だ、って。ハルが見惚れているのを確認して、くすって笑う。ふはは、完璧であった。
泳ぎが趣味というか、プールと言ったら泳ぐことしかないサユリと違って、ヒナたちはレジャープール。大きな浮き輪で流れるプールをぐるぐる回ったり、スライダーでカップルコースを堪能したり、波のプールでばしゃばしゃしたり。うん、超エキサティンッ。楽しかった。
二人で並んで手をつないで、波のプールでばしゃーって大波を受ける。なんだか知らないけどそれが可笑しくて、ずっと笑ってた。休憩時間になってプールサイドに上がって、誰もいない水面がキラキラしているのを見て、とてもどきどきした。一緒にいるのがハルだって思うと、もう何でも素敵に思えてくる。ヒナは、ハルのことをまだまだ好きになる。
ファーストキスは夏休み前に済ませちゃったけど、夏休みに入ってからも何度かキスをした。まだ一回一回が思い出深くて、それだけで大切な宝物に出来てしまいそうな感じ。これが当たり前になってくると、いちいちカウントなんてしていられなくなるのかな。寂しいような、嬉しいような。ハル、ヒナにもっとキスして。回数なんて忘れちゃうくらい。そうじゃないと、ヒナはキスだけで満足しちゃう。次のステップなんて想像もつかないよ。
「ああ、後でな」
ふわっ、え?ちょっと、今、声に出ちゃってた?
あわわわわってなってるヒナの方を、ハルがちらりと見た。ええー、そんなおねだりしちゃうとか、ヒナ、大胆過ぎるよね。その、キスはしてほしいけど、いっぱいとか、次のステップとか、それはその、あの。
リ、リビングでするハナシじゃないよぅ!
「基礎解析だろ?このページもう少しで終わるから」
ぼしゅっ。
またやらかした。ええ、ソウデスネ、ヒナは数学超苦手ですから。見せていただけるととても助かります。英語の和訳の方、誠心誠意進めさせていただきますー。
なんかもう頭の中がごちゃごちゃになりながら、英文とにらめっこする。ホワットアナイスカップルゼイアー。くっそ、宿題にまで馬鹿にされてる気がしてきた。感嘆文の例文作った奴出てこい。
シュウがちょこちょことリビングにやって来て、テレビのスイッチを入れた。邪魔すんなよぅ。確かにシュウの部屋にはテレビないけどさ。ワイドショーやってる。あー、あの俳優結婚するんだ。ちょ、シュウ、チャンネル替えんな。ああん、もう、集中できん!
「そういえばさあ、ヒナ、バイトどうだった?惣菜工場だっけ?」
ハル、訊きますか、それ。良く判らないバラエティ番組を、シュウがぼけぇーっと観ている。それ去年の秋ぐらいに見た記憶があるよ。ほら、上の方に再放送って書いてある。で、なんだっけ?バイトか。
「地獄の釜焚きだった」
「はあ?」
そのまんまだって。なんか、ヒナはふかひれスープのお鍋をかき混ぜる係だったんだよ。あんなもん、春雨でも全然区別つかないと思うんだよね。それを見栄だか何だか知らないけど本物のふかひれ使っててさあ。「これ、ひっくり返したら五百万だから」とか意味判らないよ。
ぐっつぐつの煮え立つふかひれスープを、日がな一日かき混ぜてるの。機械で良いじゃん。ああ、そうしたらヒナのお仕事が無くなるのか。ひっくり返したら五百万。もうその言葉だけがヒナの頭の中をリフレインしてたね。むしろこの鍋持って逃走した方が実入り良いんじゃないかって。でも、ふかひれスープの換金ルートを知らないからやらなかった。あれホントかね、実は春雨なんじゃね。
ハルが笑いをこらえている。何?ヒナは真面目なハナシをしたつもりだったんだけど。何処がツボ?ふかひれ?五百万?換金ルート?春雨?
「いや、ヒナがデッカイ鍋かき混ぜてる姿を想像したらさ」
そっちかい。色が変わってチョコクランチ付けるかい。確かに魔女の大鍋って感じではあったよ。とろみがついて、ぼっこんぼっこん泡が出てたもん。しばらく身体から中華スープの匂いが取れなかった。ヒナ、シュウにラーメン屋の臭いがするって言われてメッチャ腹立った。
我慢出来なくなってハルが吹き出した。もう、笑いごとじゃないんだよ。ふかひれスープの臭いがする彼女ってどうよ。実は春雨かもしれないんだよ。やっす。
「大変だったな」
はい、そりゃあもう。お給料も安くてね。働いてお金を稼ぐって大変なことだなぁ、って身に染みて解りましたよ。お母さんがドヤ顔してました。ちなみに、お給料は瞬間的に蒸発しちゃった。揮発性が強い。ヒナ、宵越しの金は持たない主義。ハルのためにも、頑張って倹約も覚えないと。
ハルの方もバイトは大変だったみたい。宅急便の仕分け。荷物の集配センターで、宛先に応じて荷物を振り分ける。結構な力仕事だ。朝昼夜とシフトがあって、当然夜の方がバイト代が良い。友達に紹介されて、ハルもほいほい夜のシフトに入った。
結果、翌日の日中ハルは過労で全く動くことが出来なくなってしまった。何かあったのかと思って、ヒナ心配して何度もメッセージ送っちゃった。まさか寝落ちしてただけとはね。相当お疲れだったみたい。
昼はヒナと会って、夜はバイトって考えてたみたい。普通に無理だった。いや、ヒナもそこまでハルに強要するつもりは無いです、うん。そんな状態だったので、一回ハルの家で、ハルに膝枕してお昼寝させてあげた。うひゃあ、ちょっと幸せだった。でも人の頭って重いね。すぐに足が痺れちゃったよ。あれ、練習が必要だな。
でも、ハルがヒナの太腿の上に頭を乗せて、寝息を立てて眠っているのは、なんだか新鮮だった。優しく撫でてあげると、すごく愛おしくなった。これはいい、とふやけた顔してたら、ハルの弟のカイに目撃されてしまった。うぎゃー。カイがなんだかちょっと気の毒そうな顔をしてたのは何で?ドウイウコト?
花火大会の時とか、この膝枕とか、ハルとのスキンシップが増えたのは大きな進歩だと思う。ちょっと前だったら、ハルに触れたり、触れられたりしたら、それだけでどきどきしていた。今は、むしろ落ち着く。ゆったりとした気持ちになる。もっと触れてほしいって思う。これって、次のステップなのかな。ヒナは、ハルと次の段階に進んでるのかな。
窓の外から、にゃおう、と声がした。ああ、はいはい。立ち上がってサッシの方に向かう。茶虎の猫の影が見えてる。がらがらと開けると、外の熱気が流れ込んできた。まだ夏。あっついなぁ。
「トラジ、お疲れ様」
でっぷりした茶虎の猫が、ヒナのことを見上げている。お昼の報酬をあげる約束だ。すぐ横に準備してある煮干しを一掴み落としてやる。ハルとシュウも何事かとやって来た。
「へえ、トラジ、ご飯貰いに来てるんだ」
ハルが感心したように言った。まあね。そういう約束をしたんですよ。色々あってね。
シュウがトラジの頭を撫でている。えーっとね、ご飯食べてる時はあまり撫でないであげてね。トラジの場合、それかなり嫌がるから。
「もう少し弟に良く言っておいてくれるか」
案の定、トラジが不機嫌そうに訴えてきた。はは、ごめん、小さい子のやることだからさ。
銀の鍵の力で、ヒナは猫と話が出来る。猫たちは精神世界に沢山の秘密を持っているので、心を読む力を持つ銀の鍵のことを酷く毛嫌いしている。少し前まで、ヒナは猫たちから一方的に絶縁状を叩きつけられていた。
ちょっとした縁があって、今はこうやってまた近くにいてくれるようになった。そのことがとても嬉しい。トラジがこうして来てくれるということは、ヒナにはまだ味方がいるということの証明になる。人間以外の知り合いが増えるのって、微妙に不健全な気がしないでもないけどね。
「ああ、そうだ、ハル」
思い出した。ひょっとしたらハル、知ってるかな。
「原田チアキさん、って覚えてる?中学の同級生」
ハルが首をかしげた。知らないか。ま、そうだよね。もし記憶にあるようなら、どんな印象だったのか聞いてみたかったんだ。
「二年の秋に転校しちゃった子なんだけどね。明日会う約束をしているんだ」
トラジが煮干しを平らげて、にゃおうと一声鳴いた。涼しい風が吹く。もうちょっとだけ夏かな。