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なるほど。ドナーカードで臓器提供意思を表明することにより、手を抜かれる危険性か。逆に臓器提供の拒否を表明していれば、臓器の欲しい医者に患者を殺すメリットはない。
「その例えはおかしいな。医者が死んだ患者からの臓器を家族に移植したら疑われるぞ」
「ええ。わざと極端な例を出したの。でも、実際問題、臓器を欲しがるのは医者だけではないわ。お金持ち、政治家、芸能人、ヤクザ、スポーツ選手など色々いるの。彼らは臓器のために莫大なお金を医者に払うでしょう。政治家だったら病院の院長になれるように押してくれるかもしれないし、ヤクザだと脅してくるかもしれない。それでも赤の他人の命を優先できるかしら」
「……」
「この場合は『見殺し』だけど、殺しにかかってくるかもしれない。予防接種や人間ドッグと称して凶暴なウイルスを注入して弱らせるとか、危ないやつを雇って殺させるとか。重要なのはドナーに適応する者であるか、三番に印のついたドナーカードを持っていないか、死んだあと臓器を譲るように親族を説得できるか、よ。一か二に印のついた親の署名付きのドナーカードがあれば後者二つはクリアよ」
「でも、わからないじゃないか、誰がどんなドナーカードを持っているかなんて。いちいち人の財布をのぞくのか? 馬鹿馬鹿しい」
「日本臓器移植ネットワークはインターネット登録を呼びかけているわ。そして、登録していない人間でも、臓器提供意思を調べるのはとても簡単よ」
「は? どうやって調べるんだよ」
街角で聞くのか? すいません、ドナーカードもってますか、どの番号に○つけましたって。怪しすぎるだろ。
「例えばアンケート。学校でもたまにやるでしょう。最近の調子はどうですか、なんて書かれた普通のアンケート用紙に紛れ込ませるの。献血ルームでするのもいいかもしれないわ。ドナーカードを持ってる人が多そうだし、景品がもれなくプレゼントにしたらみんな書くと思うの。質問はこうよ。あなたはドナーカードを持っていますか。ドナーカードのどこに印をしましたか。家族の署名はありますか、って。アンケートって実名を書くことが多いでしょう、実名を書くなんて個人情報収集と同じじゃないの。今日の宿題なんてもろにそれよ。このアンケートや宿題が医療機関や国家機関に収集されないと断言できる?」
僕は、ふと考えた。
今日のは宿題だから当然だが、どうして学校でやるアンケートには実名を書くのばかりなのだろう。
実名を書けば、恥ずかしさや触れてほしくないなどといった理由から本当のことを書かないことが多々ある。勉強時間、睡眠時間、友人や親との関係、など人によってさまざまだ。まあ、無記名でも本当のことを書くか疑問だし、それらは、嘘を書かれても特に問題はないと思う。
問題は、実名を書いて、イジメられている、イジメを目撃した、今現在自殺したいと考えている、なんて書ける度胸のある人なんているのか、ということだ。
だって、大人の世界だってチクったり周りと違うとハブられるじゃないか。
本当に生徒の問題をなくしたければアンケートは無記名でやるべきだ。あれは、事件が起きた後に教育者が教育委員会や親やマスコミに使い、生徒に特に問題はなかったと言うための免罪札にすぎない。
「断言はできない。だが、アンケートに嘘を書かれたらどうするんだ?」
「関係ないわ。既成事実さえあれば死人に口なしで、本人が死ぬ前に臓器移植を強く希望していた、と嘘をつこうがどうでもいいの。親族に怪しまれたらアンケートを取り寄せて見せればいい。そこに書かれた名前は間違いなく本人の筆跡であるし」
僕はうーん、と頭をひねって考えた。
「待てよ、白雪。僕がさっき話したようにブローカーが臓器を取るのは発展途上国のやつらばかりだ。日本人を殺すのはリスクが高くてやりたがらないと思う」
「自分の身の回りの人間に危害が及ばなければどうでもいい、という考え方ね。嫌いじゃないわ、そういうの。でも、世界は臓器移植手術を受けるための海外渡航が原則禁止の方向に向かっているの。臓器移植ビジネスの存在を許せば自国で犯罪率は上がってしまうもの。もちろん、殺人を禁止しても人を殺す者がいるように、禁止しても存在はし続けると思うわ。でも、海外での移植を敬遠する人はでてくるわね。政治家や芸能人などのイメージが大切な人たち。いくら人の命を助けるとはいえ、法律を破ったら政治生命も芸能生命も終わりに近くなるわ」
「だから、日本人を殺すのか?」
「だってそうでしょ。本人が海外へ行って移植手術を受けたことが露呈して『知りませんでした』なんて言い訳は通じないわ。でも、日本での移植ならどうかしら。秘書が全てやったこと、というセリフで政治家が助かるように、私はお金を払っただけで臓器の売買などのいけないことをしたとは知りませんでした、すべて医者がやったことで通じるのじゃないかしら」
「……そんなこと」
「ええ、必ず起きるとは言えない。原則禁止されても今までどおりに海外での移植手術は行われるかもしれない。法律の穴を狙って、海外からドナー、もしくは臓器そのものを輸入するかもしれない。でも、日本人が被害にならないとは決して言えないわ」
「……日本の警察は優秀だ。人を殺すなんて許されるはずがない」
白雪はふーん、と呟いたあと「『和田心臓移植事件』って知ってる?」と訊いてきた。
「いや、知らない」
「一九六八年に和田寿郎を主宰とする札幌医科大学のチームが日本初の心臓移植手術をしたの」
「事件になってるってことは失敗したのか?」
「いいえ、成功よ。溺水事故を起こした大学生から高校生に心臓を移植して、八十三日間も生き延びたの」
「すごいじゃないか、そんなに生き延びたなんて」
白雪は人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「その心臓を提供した大学生、殺された疑いがあるの」
僕は言葉を失った。
「溺れた大学生に和田のチームは普通は使わない筋弛緩剤を注射して、抗議した蘇生のプロである麻酔科医を現場から追い出したの。その異常行動を聞いて駆け付けたもう一人の麻酔科医は大学生の心音があり、彼が危ない状況ではないことを確認している。なのに、溺水者にメリットのない人工心肺を取り付けたり、移植後の拒絶反応を和らげるためのステロイドホルモン製剤の『ソル・コーテフ』を十筒も大量投与したのを目撃してる。これは溺水した者に対する適切な処置ではないし、どう考えても蘇生より移植を優先しているわ。そして、ドナーには必須である脳死を判断するための脳波の測定をしたのは研究生が一人だけ、って和田が証言し、彼は五ヶ月後に胃ガンで死亡してるの」
「嘘だろ?」脳死という重要なことの確認をしたのがたった一人の研究生で、既に死亡しているなんて。
「事実よ、言彦。まさに死人に口なし、ね。怪しいところはたくさんあるけど長くなるからやめとくわ」
僕は嫌な予感がした。「その医者、捕まったんだよな?」
「不思議なことに嫌疑不十分で不起訴処分になってるの」
「そんなこと……」
「きちんとした処置も脳死確認もしないで、人の体から心臓を奪っても不起訴なの。一応、言っておくけど不起訴と無罪は違うし、不起訴の決断をするのは検察だから。
言彦の言うように日本の警察は優秀かもしれないけど、有罪かどうかを決める検察は不起訴にすることが多々あるのよ。警察だけ信頼してればいいのかしら?」
僕はショックで言葉が出なかった。
「もし、大学生が三番に印のついたドナーカードを持っていれば、まともな措置が施されて助かったかもしれない。
人を殺そうとするとき、まともな人間には抑止力が働くわ。罪悪感、倫理観、将来観などね。でも、誰かを救うために殺すとなればその抑止力は大いに鈍ってしまうの。ドナーカードで臓器提供に賛成の意を表すってことは、自分が殺されても他の誰かが助かってしまうということに賛同したようなものよ」
授業が始まる五分前のチャイムが鳴り響いた。
「私は大人が信用できないわ。正義や美しい意見ばかり押し付けてデメリットは何も説明しないじゃないの」
「……」
白雪はいつの間にかテーブルの上に置かれていたドナーカードを取り、財布にしまった。
「別に言彦の意思を否定しないわ。殺される確率より誰かが救われる確率のほうがずっと高いでしょうし」
僕は帰宅し、椅子に座り、机の上にプリントを広げてドナーカードを置いた。
こんなにも難しい宿題は生まれて初めてだ。
ここに何を記入するかで、誰かの命が救われるかもしれないが、逆に僕が殺されるかもしれない。
ボランティアや献血とはわけが違う。
自らの命を危険にさらしてまで、誰かを救わなければならないのだろうか。
どうなんだろう。
どうなんだろう。
参考文献 凍れる心臓 共同通信社社会部 移植取材班編著
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