2.本名と仮名
私はマールと呼ばれています。
かつてこの国に魔があふれて当たり前だったころ、名前はとても大切なものでした。
そのひとの本質を表す音。きちんとした手続きに組み込めば、そして力の強い魔法使いが使えば、操ることさえできてしまうという。
そんな大切なものを、親とは言え他人がつけるべきではない、という考えが、かつて一の国にはありました。そしてそれは、後を継ぐ大陸に存在する大小20ばかりの小国でも、いまだに守られているのです。
幼いひとは名を持ちません。あるのは、呼びかけに使う仮の名だけ。それはたいていの場合、髪や瞳の色からとられる簡単なものです。あるいは誰それの娘だとか、何くれの役職を継ぐべき者だとかいう、親からとられるもの。もちろん同じ仮名がつけられることも多く、その場合は親の名や紋章などから呼び分けられます。
そしてある程度成長して、名というものが識別でき理解できるようになった頃、本当の名を名乗ることとなります。どのように名乗るのか、と言っても、それは何となくとしか言いようがありません。魂が叫ぶとか、魂に刻み込まれただとか、あるいは心が知っているだとか共鳴するとか。ひとによっていろいろの表現をしますが、そういったもの、としか言いようがないのです。
とはいえ仮の名と言っても、数年も呼びかけられていれば馴染むもの。そうそう、仮名から大きく外れた名を名乗ることはありません。たとえば私の兄であれば、その見事な翠色から仮名はそのまま翠でした。そして彼が成長し、名乗った名前は大木。結局、本質と言っても誰もが感じる第一印象から、そう外れはしないものなのでしょう。
さて、私はと言えば、仮名はマール。海の仮名を与えられ、生きてきました。蒼とも碧ともつかない瞳の色からでしょうか。私は少し早熟で、3歳のころに己の名を見出しました。それが、エン。意味は自分でもよく分かりません。ただ、この、忌み名と言われるそれだけが、私を正しく表すものだと思うだけ。これだけは譲れないことでした。
困ったのが両親です。忌み名であるから、名乗ることは仕方がないにしても呼びかけることなどできません。名乗ることもなるべくならしないようにと言われています。本当の名というのは、それが本当であるために、変更することなどできないものなのです。かといっていつまでの仮の名でいさせるのも気まずい。
ちなみに、本当の名ですが、かつてほど強力な魔が存在しない現在となっては、持たないひとも数多いのです。王侯貴族でも1割、市井のひとでは半数程度が、仮の名のまま生涯を送ります。ですので、別に私も仮の名で過ごしてもよいのですが、王侯貴族の中では本当の名を持つというのはひとつのステータスともなりますので、折角見出した本名を隠すということは、両親には考えられなかったようです。
結果として、私はエン(マール)・クルスとなりました。クルサンド王家の第二王位継承権保有者です。本当にこのように戸籍に記入してあります。兄はレーニョ・クルス。ミドルネームも二つ名も存在しない現在では、これが普通の名前です。