アーモンドの残り香
甘いパンケーキの香りのなかに、数グラムの「死」を混ぜる。
救いも、希望もありません。
ただ、どうしても彼を忘れられない男の、ぬかるみのような執着の話です。
シーシャのボトルの中で、水が規則正しく沸き立っている。
「ボコボコ……」という低い振動は、僕の鼓動と共鳴し、逃げ場のない密室の静寂をかき乱す。
この音だけが、僕にとって彼が確かに存在したという唯一の証明だった。
薄暗い店内の隅。
僕はいつも、彼の「肉体」が放つリズムを視線でなぞっていた。
Tシャツの袖口から覗く、まだ若い、弾力のある二の腕。
ホースを運ぶ際に微かに浮き上がる、首筋の血管。
「ねえ、今度、店が終わったら飲みに行かない?」
何度目かの誘いだった。
僕は努めて軽く、けれど声の端に隠しきれない粘り気を混ぜて彼を呼び止める。
彼は、いつもの大型犬のような人懐っこい笑顔を浮かべ、僕の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「嬉しいっす!でもすんません、今日は先約があって。また誘ってください!」
まただ。
その「また」が永遠に訪れないことを、僕は知っている。
彼は僕の好意を正確に察知し、それを「お客様へのサービス」という分厚いオブラートで包み、決して中身に触れさせなかった。
僕がどれだけ手を伸ばしても、彼はするりと指の間を抜けていく。
そのたびに僕は、彼が吸い心地を確認するために一度だけ手にしたホースの持ち手を、彼が去った直後に、まだ微かに残る持ち手の熱ごと肺の奥深くへ吸い込むことしかできなかった。
パンケーキ、ミルク、バニラ、ビスケット。
彼が僕のために調合する煙は、いつも反吐が出るほどに甘かった。
それは僕を繋ぎ止めておくための甘い餌であり、同時に「お前はこの境界線を越えてくるな」という、無言の警告のようにも感じられた。
そんな折だった。店の裏路地で、一匹の野良犬に出会ったのは。
金色の毛並みを持ったレトリバーの仔犬。
その、何も知らない無垢な瞳が彼にそっくりで、僕は反射的にその体温を抱き上げた。
僕はその犬を自室に閉じ込め、彼には決して言えない汚濁した想いのすべてをぶちまけた。
「どうして僕を見てくれないんだ」「その若すぎる肌を、僕の手で汚してしまいたい」
仔犬の柔らかい腹に顔を埋め、獣の匂いを吸い込みながら、僕は独り言を漏らす。
話し終えて我に返る。犬に話してどうなる。
けれど、そうして吐き出さなければ、彼の笑顔の裏側で僕の心臓は腐り落ちてしまいそうだった。
そして、あの日が来た。
店に彼の姿はなく、別の店員が吸い殻を捨てるような声で言った。
交通事故。二十三歳。即死。
僕の頭の中で、彼が僕を豱した時のあの笑顔が、スローモーションで砕け散った。
僕は逃げるように仕事を辞め、自宅にシーシャの機材を揃えた。
彼がいないのなら、彼の"味"を自分で作り出すしかない。
それは、彼という概念を僕の肺の中に永久に監禁するための作業だった。
ボウルにフレーバーを盛り付ける。
パンケーキ。ミルク。バニラ。ビスケット。
指先をベタつかせる甘い蜜。
けれど、何度試しても、どれだけ高価な炭を焼いても、あの味にはならない。
煙はただ白く、死んだ魚のような匂いしかしなかった。
数年が過ぎた。
仔犬だった犬は、今や立派な成犬となり、僕の膝にずっしりとした重みを預けてくる。
その深い茶色の瞳を覗き込むたび、僕はふと、狂気じみた思考に指先を震わせる。
この犬の肋骨の奥に、彼はいるのか。
僕があの時、犬の耳元で執拗に彼の名前を囁き続けたから、彼の魂がこの肉体に引きずり込まれたのではないか。
そう思わなければ、この数年間の孤独を説明する術がなかった。
雨の降る、あの事故の日と同じ夜。
僕はいつものように、彼の味を模造しようとフレーバーを調合していた。
ふと思い立ち、棚の奥で埃を被っていた「アーモンド」の小瓶を開ける。
それは、甘さの中に潜む、鋭利な"死"の香りだった。
指先にまとわりつくそのフレーバーを、パンケーキの山に数グラムだけ、祈るように混ぜ合わせる。
炭を乗せ、ゆっくりと吸い込む。
水が、ボコボコボコッと鳴った。
「.........っ、」
肺に流れ込んできたのは、紛れもなく、あの日の執着だった。
甘く、重く、そしてアーモンド特有の、喉を刺すような芳醇なエグみ。
最後のパズルのピースは、この毒にも似た香ばしさだったのだ。
一瞬にして、店内の湿り気、水の音、マウスピース越しに伝わった彼の唇の弾力。
「また誘ってください」と笑う、あの暴力的なまでに若々しい、残酷な声。
すべてが色彩を伴って、僕の脳髄を叩き割る。
いた。
ここに、彼がいる。
僕が愛し、僕を拒絶し、僕を置いて勝手に死んでいった二十三歳の彼が、この煙の中に、確かに呼吸している。
「ああ……あああああ……!」
僕はホースを握りしめたまま、獣のような声を上げて泣いた。
煙が目に染みて、涙が止まらない。
パンケーキの甘さと、アーモンドの苦みが、僕の口内をめちゃくちゃにかき回す。
大きくなった犬が、心配そうに僕の顔を舐める。
その温もり、湿った舌の感触。
僕は煙を吐き出し、その白い霞の向こうに、もう二度と触れることのできない彼の「剥き出しの笑顔」を、いつまでも、いつまでも抱きしめていた。
この煙が消えたら、僕はまた、自分の名前さえ忘れてしまいそうな荒野に放り出される。
だから僕は、肺が破れ、意識が真っ白に染まるまで、彼の味がするその毒を、死に物狂いで吸い込み続けた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
パンケーキ、ミルク、バニラ、ビスケット。
それら贅沢な甘さを完成させるのは、いつだって一握りの「残酷な真実」です。
彼が吸い込み続けた煙が、いつか彼自身を真っ白に染め上げてしまうまで。




