第一話
ふと左に曲がってしまいたくなる衝動に駆られたが、そのまま信号を直進した。
直進していくわたしの車は、いつもの見慣れた街並を後ろに追いやるようにして進んでいく。
駐車場のないコンビニに、いつもシャッターの閉まっているなにかのお店を通り過ぎ、今日も輸入雑貨屋の店長らしき女性が、若草色や山吹色の椅子を店の外に並べているのを横目でちらりと見るようにしてから、工事中で幅が狭くなっている道を超えて小道へと入る。
昔からここに住んでいる人だろうか、真っ青なデニムに、オーバーサイズ気味の黒いウィンドブレーカーを来た初老の男性が犬を連れて歩いている。ファッションの街に似つかわしくない格好の男性は、よろよろと道の真ん中へ寄っていく。わたしはブレーキを踏んでゆっくりと車を止めた。初老の男性が横切るまで、のんびりと待とう。
くすんだフロントガラス越しに見えるのは、決して青すぎることのなく広がる、雲一つない青空だ。外に出れば思った以上にひんやりとした空気が肌に触れるなと想像すると、やはり直進して良かったのだろうと、少しだけ思えた。
もう男性は道を折れていったのか、姿が消えていて、わたしはアクセルを軽く踏んだ。
駐車場は灰色のブロックが積んで出来た塀に囲まれている小さなものだ。そこに車を止めてから、バックミラーを自分に向けて顔を見る。写るのは内側に巻いてある肩まで伸びる髪と、薄いメイクがしてある顔だ。
今朝も髪の毛を巻くのに三十分、メイクをするのに三十分かけた。わたしは人からは羨ましいと言われる顔立ちとスタイルをしているらしい。らしい、とは言うものの、人前で口にこそはしないが、自分でもちょっとした女優やモデルには負けない容姿は持っていると思っているし、それが事実だ。
軽く首を振ってみる。その度に跳ねる髪がうっとおしい。いっそのことばっさり切ってしまおうかと思うこともあるが、本当に切りはしないことを自分でよく分かっている。顎の細いわたしには、輪郭に沿うようにした髪型がよく似合う。
たまに真っ白な化粧を顔にしていて、首の皮膚の色がやけに黄色く見える客が来るが、わたしには理解が出来ない。けれど相手の方も、丸一日のあいだ地下の薄暗い店の中にいるわたし達のことは理解できないかもしれない。
私の仕事は珍しくとも、親に言えないようなものでもなくて、来た客に服を売るだけのことだ。アパレルの販売員と聞くと、目を輝かせる十代の女の子がいるのかもしれないが、アイドルでも芸能人でも、何でもない。ただの売り子だ。
今日もこれから十三時間、雑居ビルの地下一階に引きこもって、ただただ客を待つだけの時間が始まる。
私はバックミラーから青空に視線を移す。
このフロントガラスを乾いた布で拭えば、もっと青々と広がる空が見えるのだろうか、そんなことを考えながら車から降りた。
俺はさ、いつも仕事で朝が早いんだけど電車は満員なんだ。でも、四十分くらい乗っているとちょうど県境の川の上を通るんだけどね、ちょうどオレンジ色の朝日が水面を照らして、きらきらきらきらしててきれいなんだよ。天気の良い日しか見られないんだけど、それを見ると一日がんばろうとか、朝が早くて良かったなって思えるんだ。
先週に会った男は、安いワインが入ったグラスを傾けながら、そんなことを言っていた。
ミナちゃんも、そんな経験があるんじゃないの? いつも地下にいる分、なにかを敏感に感じることってあるんじゃないかなぁ。
私は視線を上げた。
フロントガラスを通さずに見る空は高いビルに囲まれていて、一瞬、灰色のビルと青い空のどちらが本物なのか分からなくなってしまった。
わたしはお店へ歩き出す。
こうしてまた今日が始まる。
わたしには夢があるんだよ。白いスポーツカーに乗った、かっこいい王子様がわたしを迎えにきてくれて、大きな家に連れて行ってくれるの。
そう作文に書いたのは小学生三年生のときだ。今となっては大真面目に書いたのか、不真面目に書いたのかは分からないけれど、昔から性格の良くはなかったほうなのだろう。
けれど、ランチのサンドウィッチをほうばりながらも真剣な顔つきで同じようなことを話す、直子を見ていると気分は複雑だ。
「だって子どもが大学にも行けないようじゃかわいそうじゃない。私は結婚したら仕事を辞めるつもりだし。共働きも二世帯も絶対にムリだし」直子は指を広げて、ごてごてとした指に向かって話しかけている。「ねえ、聞いてるの?」
わたしはコーヒーカップをカップソーサーにゆっくり置いてから「わたしもそう思うよ」と答えた。
「だよねー。自分が苦労してきた分くらい、楽させてあげたいし」
「この間のは外れだったけど」
「ほんっとに外れも外れ。なんでわたし達が気を使って話さなきゃいけないんだよって正直思ったよ。っていうか、そもそもあんな安っぽい居酒屋でやんなよって」
「最近は安いとこでも雰囲気いいところあるからね。そんなところですまさないでーってわたしも思ったよ」
「あんな安いワインだから次の日キツかったんだよ。次の日は仕事だっていうのに、行ったのに」
「直子は単純に飲み過ぎ」わたしは肩を突っついて笑いかけた。
「南青山で飲んだときはもっと飲んだけど、二日酔いにならなかったもん。やっぱりワインは安くちゃダメ」
「直子みたいに高いワインなんて飲んだことないから分からないよ」
「その気になれば、なんだって出来そうなのにね」
直子がわたしに視線を移しながら、そう言った。
わたしはそうだよねと答えても、そんなことないよと答えても、直子は納得しないような気がして、ただ微笑みを返した。
「いい人、できないの?」
「うん。直子は?」
「実はね、南青山で飲んだときの人と会ってるよ」
「あのひとっ?」
「連絡がよく来るから、こないだも会ったの」また指先へ向かって答えたが、視線はどこを見ているのか分からなかった。
「話は合うの?」
「うん、合うかな」
「そっかぁ」
「ジェネレーションギャップって言っても、あってないようなもんなんだよ」
「ならいいんだけど」
「でも……」
「なぁに?」
「やっぱりあんまり立たないんだよね」おどけたような微笑みを浮かべた。
わたしはなんと言おうか迷ったが、沈黙はつくるべきじゃないなと思って、すぐに「そっかぁ」と呟いてから「いくつだっけ?」と言った。
ふたまわりは上じゃないよ、そう答えてから、そろそろお昼も終わりだね、戻ろうよ、と言って直子は席を立ち上がった。
閉店間際の店の客足はとても少ない。
わたしはレジのまわりを片付けながら、鏡を磨いている直子をぼんやりと眺めた。
別に自分がやましいなんてなんて思わなければいいのに。
本当に好意を抱いているのなら、もっと自信を持てばいいのに。
だけれども、言えないのなら、本人としてもなにか違うものを感じているのだろうな、そんなことを考えていると、店内のBGMが変わった。今日がようやく終わる。
本当に欲しいものがなんだったのかが思い出せない。
あの作文を書いたころのわたしは欲しいものがたくさんあったし、はやく近所のお姉さんのように大人になりたいと思っていたのに、いまでは誕生日が来るごとに憂鬱になる。
誕生日になれば、何人かの男から誕生日メールが来るし、数える程もないが花束が届いたこともあった。
もちろん余程へんな男からでなければ素直に嬉しいと思うけれど、わたしが本当に欲しいものをくれた男は、まだいない。
直子に、じゃあ明日と手を振ってから自分の車に乗った。そういえば朝は雲一つない空だったんだなと思い出すと、なぜかわたしの頭の中には雲一つない固いグレーの空が現れた。
ほとんど腰を下ろすことのない仕事だからか、車の中に入るとシートを倒してしばらく背もたれにからだをもたれて動きたくなくなってしまう。車の天井はやはり灰色で、オープンカーで星空でも見上げられたらいいなと思ったが、車を買い替えるお金は持っていないし、現実的に考えれば乗ることさえ出来たら車なんてなんでもいい。
助手席に放り投げたバッグから携帯電話を取り出したが、珍しく誰からも着信はなかった。うっとおしく感じるのに無ければ無いで淋しさを感じてしまう。バッグに向かって携帯電話を放るとちょうどすっぽりとバッグの中に吸い込まれた。それを見たわたしはなんだかおかしくなって、ふっと息を吐いた。今日はじめて笑ったような気がした。