第六話:揺らぐ現実と自我
己を知るための渓谷。その地では、現実が揺らぎ、心すら試される。
少年はそこで、自分自身という“問い”に向き合うことになる。
カルナの渓谷──それは、創界の理すら歪む“未定風”の吹き荒ぶ地。
セロとイーヴァは、霧の結界を越え、その境界に足を踏み入れていた。
「ここからは、一つ一つの感覚を信じるしかない」とイーヴァは静かに言った。
だが、足を進めるごとに、空気の重さが変わり、音が消え、色彩が歪む。
セロの視界が急に暗転する──気づけば、彼は“ひとり”だった。
どこまでも灰色の空間に立ち尽くすセロの前に、かつての自分が現れる。
「本当に、お前は“力”が欲しかったのか?」
幻影のセロは語りかけてくる。かつて自分が抱いていた憧れや野心、不満が形を成しているようだった。
「このままじゃ、お前は何者にもなれない」
その言葉が胸を突く。セロの手が震える。足が動かない。
──“何者かになる”とは何か? 強さとは、戦う力のことか? それとも、誰かを守れる力か?
セロの頭に、かつて訓練中に師匠リゼルから受けた問いがよみがえる。
『戦いの技術よりも、もっと大事なものがある。それはな、自分がなぜ戦うのかを、心に刻んでおくことだ』
だが、実戦では体が動かなかった。守りたい気持ちはあったのに、恐怖に足がすくんだ。演習の時とは違った。
──自分は弱いのか? いや、違う。怖いと思えるのは、自分にとって何かが“本当に大切”だからだ。
“自分自身に否定される”という、誰よりも重い感覚に、心が崩れかけたその時だった。
──笑顔の母が、火のそばで料理をしていた記憶がよぎる。
「……何があっても、帰ってきてね」
その言葉が、重く揺れる空間を突き抜けるように響いた。
──そうだ、俺は創る側に立ちたい。壊すことじゃない。壊されるのでもない。
たとえ未熟でも、誰かを傷つけてまで勝ちたくない。
力を手に入れる理由があるとすれば、それは“戻る場所”を守るためだ。
セロは目を開く。幻影のセロが、驚いたように立ち止まる。
「俺は……俺だ。帰る場所がある。だから、迷わない」
その言葉と同時に、幻影のセロは風に消えるように霧散した。
次の瞬間、現実が戻ってきた。イーヴァが数メートル先でこちらを見つめている。
「……見事だったわ」
イーヴァの声に、セロはわずかに頷いた。
「これが、“未定風”か。試されてたんだな、自分自身に」
「ここではね、“誰”であるかを明確に持っていないと、簡単に取り込まれるわ」
二人は再び歩き出す。その先には、渓谷の深部。空間がゆがみ、浮遊する岩石や逆巻く樹木が静かに息づいていた。
……その奥に、何かが“視ている”気配を、セロは確かに感じていた。
力とは何か。自分とは誰か。
未定風が問いかけるのは、力の形ではなく“心のあり方”だった。
そして少年は、初めて“帰る場所”という想いを、力に変えた。