第五話:渓谷への誘い
目指すべき場所は、禁じられた地──カルナの渓谷。
それは、自分という存在の根に触れる旅の始まり。
朝露が残る村の広場で、セロはイーヴァと並んで倒壊した柵を修復していた。
「昨日の夜、北の畑にまた獣の足跡があったらしい」とセロが言うと、イーヴァは工具を手に取りながらうなずいた。
「未定風が吹き込むと、魔物だけでなく生態系そのものが乱れるの。カルナの渓谷から流れ込んだ風かもしれない」
セロはその言葉に小さく反応する。
「その“未定風”って……なんなんだ?」
イーヴァはしばらく考えたあと、空を仰ぎながら語り始めた。
「未定風は、創界外から吹き込む、理の外にある風。通常の魔法陣では扱えない、混沌と原初の力が混じったものよ。渓谷はそれに侵されていて、人も魔法も正しく作用しなくなる」
セロは目を見開いた。
「そんな場所に行けって、どういうことなんだ……?」
「“普通”のままじゃ、あなたは壁にぶつかる。その渓谷でなら、自分がどんな存在なのか、少しは見えてくるかもしれないわ」
セロは言葉を返せなかった。けれど心の奥で、なぜかその言葉に納得している自分がいた。
「……行くよ。俺、カルナの渓谷に行ってみる」
イーヴァはうっすらと笑い、「その前に、少しだけ訓練をしておきましょう。あそこには、見た目の危険だけじゃない“何か”がある」と告げる。
夜、村の火を囲んで、セロは訓練を終えた疲労の中に立っていた。
肩で息をしながらも、目の奥にはどこか晴れやかな光が宿っている。
母が近づき、静かに問いかけた。
「明日、イーヴァさんと出るの?」
セロは頷いた。
「うん。自分のこと、もっと知りたいから」
母は少しだけ寂しそうな目でセロを見つめる。
そして静かに言った。
「……何があっても、帰ってきてね」
その言葉に、セロはしっかりと頷いた。
渓谷とは、未知と混沌の象徴。
その扉の前で、少年は初めて「自分を知る」ための一歩を踏み出す。
それは、帰る場所を持つ者にしかできない選択だった。