03_記憶喪失の原因
王都の一角にある居酒屋。夜も更けた時間、カウンター席にエミリーとひとりの男性が並んで座り、酒を酌み交わしていた。
その男性――リノは目を引くほど美しい容姿をしていて、他の客たちが時折ちらりと盗み見ては、噂話に花を咲かせている。だが、リノ自身にその視線を気にする素振りはなく、むしろ慣れている様子だった。
彼は頬杖をつきながら、エミリーに視線を向ける。
「で、久しぶりの出勤はどうだった? エミリー先生」
幼馴染であるリノとは、小さいころから今も仲良くしている。実家が近所で、親同士も親しかったため、まるで兄妹のように育った。
彼はエミリーより二歳年上で、騎士の名門侯爵家の次男。
文武両道で、現在は王女付きの近衛騎士を務めるエリートだ。
エミリーはビールをごくごくと喉に流し込み、ジョッキを乱暴にテーブルに置いてた。
「気まずすぎて死にたい」
ジョッキの溶けかけた氷が、カランと音を立てる。エミリーが眉間に縦じわを刻み項垂れると、リノは軽く笑った。
「はは、そりゃご愁傷様」
「笑いごとじゃないから。職場に見知らぬ婚約者と、略奪した親友がいるんだよ? どう思う?」
「率直に言って地獄だね」
「そう、地獄」
エミリーはため息を吐いた。
昏睡から目覚めたあと、エミリーはわずか一週間で仕事に復帰した。アステラとオリビアの姿を見かける度に頭が真っ白になるし、職場の同僚や先輩からも婚約解消について根掘り葉掘り聞かれ、気疲れしている。
「みんなに言われるの『あんなにベタ惚れだったのにどうして別れたの?』って。こっちが聞きたいくらい。あんなにとか言われても覚えてないし」
「ふーん。今も先生のこと全く思い出せないの?」
「全く。でも――」
エミリーはジョッキの縁を指でなぞりながら、ぽつりと続けた。
「医療魔術師としては、本当に天才だと思う。グエン先生の論文、一週間で全部読破しちゃったもん。特に八年前の――」
「石吐き症の原因についてのやつ、でしょ?」
「そ、そう。え、もしかして私、前にも話してた?」
「してたしてた。耳にタコができるくらいね。キラキラした目ですごい語ってたよ」
「へ、へぇ……」
魔病のひとつである石吐き症は、治療法が確立していない不治の病。その研究成果を発表した論文を読み、魔病に対する高い知識と関心の深さに感銘を受けていた。
まだ現場で、アステラの医療魔術を見た訳ではないが、論文から伝わってくる力量は確かだった。年齢はエミリーより十歳ほど上で、医療魔術師としての経験もエミリーの比にならない。
リノはグラスに入った酒をひと口飲んで言う。
「俺は直接会ったことないけど、エミリーはいつも言ってたよ。グエン先生を、医療魔術師としても人間としても尊敬してるって」
「なんかそれ、恥ずかしいなぁ。でも、本当に尊敬できる人なのか疑っちゃう。オリビアと浮気して私を裏切ってるわけだし」
「だね」
いくら医療魔術の天才でも、婚約者の親友と浮気するなんて最低だ。もちろん、オリビアも同罪である。
ちなみに、医学院時代にオリビアにリノを紹介したことがあるのだが、オリビアはリノを気に入って言い寄っていたらしい。リノは相手にしなかったのだけれど。
「やっぱり私って、恋愛には向いてないのかなぁ」
エミリーが呟いたその瞬間、リノは不敵に口角を持ち上げて言った。
「じゃあ、俺にすれば」
「え?」
「俺なら絶対、お前に不誠実なことはしないし、大事にする」
口調は軽いが、その眼差しは真剣そのもので、目が逸らせない。
さらさらした金髪に、長いまつげが縁取る緑目。十人いたら十人が美しいと絶賛するであろう美貌を持つ彼。
大勢の女性たちに言い寄られてきたリノに、まさか自分が口説かれるとは――夢にも思っていなかった。
「冗談?」
「本気」
「でも私、リノのことずっと、兄妹みたいに思ってて」
「分かってる。でも、俺は――違った」
リノは真剣な表情を浮かべ、緑の双眸でこちらを射抜いた。瞳に宿る熱を感じ取り、エミリーの胸がざわついた。
「もしかして……リノが誰とも付き合わなかったのって……私がいた、から……?」
どきどきしながら返事を待っていると、リノは色っぽく微笑む。
「やっと気づいた?」
「!」
びっくりして目を見開くエミリーの額を、リノがつんっと指で軽く弾く。
「ずるいかもだけど、記憶喪失の今だからこそ、入る隙があるなら狙わせてもらうよ」
「い、いつから私のこと……? だって今まで、一度もそんな素振り見せなかったでしょ」
「子どものころから。お前との関係が壊れるのが怖くて、言えなかっただけ」
「そう……なんだ。……そっか……」
エミリーへの複雑な思いを抱え、それを秘めてきたリノを思い、胸の奥がつきりと痛んだ。
好きという気持ちを打ち明けられても、やっぱりリノはリノで。恋愛対象として見られるかどうかは、正直なところよく分からない。どう返せばいいか分からず沈黙していると、そんなエミリーの感情を見透かしたように彼が優しく言う。
「すぐに返事をしてほしいとは言わないよ。恋人候補のひとりくらいに気軽に考えといてよ。……それなら、アリ?」
「気軽になんて考えられないよ!」
思わず声を荒らげ、ムキになって答えると、リノは目を瞬かせた。
「ちゃんと、真剣に向き合うから」
「……ありがと。なら俺も、これからは堂々とお前をオトすわ」
リノは心から嬉しそうに笑った。作り物のように整った顔をしているが、笑った顔は無邪気で子どものようなあどけなさがある。
「じゃあ――さ。今週末、デートしない? ちょうど流行りの舞台チケットが二枚あってさ」
「うん、行きたい!」
リノは懐から二枚のチケットを取り出し、一枚をこちらに差し出す。エミリーはそれを受け取って、カバンにしまった。人気演目で、前から見てみたいと思っていた舞台だった。
「楽しみにしてるね」
「俺も。とにかく、お前が目覚めてくれてよかったよ。本気で心配してた。全身複雑骨折、臓器損傷って聞いて――」
「ちょっと待って。複雑骨折に臓器損傷って何……? 私、ただ酔ってバルコニーから落ちて頭打ったって聞いたんだけど」
「確かにバルコニーから落ちたのは聞いたけど、事故当時のお前は全身傷だらけで、命も危なかったよ」
「傷だらけ……?」
顔から血の気が引くのと同時に、おかしい、と違和感を感じた。自宅のバルコニーの下は芝生だ。大した高さもないし、たとえ落ちたとしても、そこまでの重症になるとは考えにくい。まして、全身傷だらけというのも変だ。
もっとも、仮にそのような大怪我をしていたとしたら、王族に対してのみ行われるような特別な医療魔術を施さなければ、三ヶ月でここまで回復することもない。エミリーの担当医は医療魔術師ではなく、一般的な医師だったはず。
(今度、診療記録を見せてもらおう)
そう思った直後だった。エミリーたちが座る席の後方から、バタンと何かが倒れる音がして、二人は驚いて振り向いた。
「おい、大丈夫か!?」
「しっかりしろ! 兄さん!」
床に、中年の男性が倒れ込んでいた。エミリーはすぐに立ち上がり、男性のもとに駆け寄る。
「大丈夫ですか? 聞こえますか?」
エミリーはしゃがみ込み、男性を冷静に観察する。応答がなかったので、さらに肩を揺すって意識があるか確かめる。意識はないが呼吸はあり、胸の動きから心臓も動いていることが分かった。
周囲の人々が心配して集まってきた。
男性と一緒に飲んでいた二人が、心配そうにこちらに尋ねる。
「あの、あなたは……」
「王国魔術師団附属特異医療院、医療魔術師のエミリー・ブラウンと申します」
「と、特異医療院……!? あの、魔病の……」
特異医療院は、最先端の魔病研究をする王族直轄の専門機関。
そこに務められる医療魔術師は、年に数名しか選ばれないため、職場を教えると大体いつもこういう反応をされる。
「こちらの方のお名前は? 倒れる前に何か症状はありましたか?」
「あ、ああ。そいつはマイクだ。さっき、胸が痛いって言ってた」
(胸……)
エミリーはマイクのシャツを脱がせた。すると、心臓の上に黒い痣のようなものができていた。
軽く触診してから、男性たちに静かに告げた。
「マイクさんは恐らく――魔病です」