蛮族と疫病
ロマヌ王国があるガリドーニュ島から海峡を挟んで向こう側、島の南から北東側に広がる大地、それがロパ大陸である。
ロパ大陸北東部の寒冷化(近年の研究では小氷河期があったとの見解)に伴い、森人、石人、獣人、それに大陸の国々にまつろわぬ異郷の人々、当時の呼び名によれば”蛮族”がほぼ一斉に南下してきた。この大移動は南側にある勢力と衝突を引き起こし、やがて血みどろの争いとなった。ロマヌ王国も例に漏れず、これら蛮族の侵入に悩まされていた。
暦476年、ガリドーニュ島の東端に”カミュエルの氏族”と記録される蛮族の集団がおよそ3日間の船旅を終えて到着した。しかし彼らを待ち受けていたは矢の雨だった。氏族の数人死んだところで彼らは再び船を出し、逃げ帰ったという。
当時のロマヌ王国東部ではこのようなことが頻発していた。ロパ大陸の西から船を出し、ガリドーニュ島の東から侵入する。先程のカミュエルの氏族の事例は割と”温和”な方であり、大概の接触が蛮族による村や街への略奪、もしくは東海岸を守る駐屯軍との悲惨な戦闘へと発展した。
またこれら人々の大移動により、疫病も運ばれた。猛威を振るったのは今ではペスティエル熱として知られる感染症で、当時は”黒の疫病”と呼ばれていた。
潜伏期間は4日から1週間。発症後は39~40℃の高熱、皮膚の黒ずみと体中にできる膿疱。さらに進行すると目、鼻、口から黒いドロドロした壊死性分泌液を垂れ流して死ぬ。
現代の医学者ならびに私達が知っている通り、黒の疫病の感染力と致死率は凄まじく、一説にはロパ大陸の総人口の半分を死に追いやったとされている。ガリドーニュ島においても人口の4割を殺したというのが現在の有力な説である。
疫病による死はロマヌ王国の貴族、聖職者、民、そして侵入した蛮族に等しく降り注いだ。一族が断絶したり、小さな村や街が滅びることは珍しくなかった。
この壊滅的な人口減はロマヌ王国の経済に大打撃を与え、特に交易と農業の分野では顕著だった。労働力不足により食料生産が十分成されず、一部の村では餓死者も出している。また行商人たちは感染の媒介となってしまったが同時に自身も被害に会いやすい立場だ。多くの商人や荷運び役がその旅路の途中で命を落とし、その荷物は運ばれずに終わる。これにより都市部では慢性的な物資不足と物価の乱高下を招いた。
暦480年、貴族と聖職者の不正、蛮族との戦い、疫病の猛威。ロマヌ王国は混迷を極めていた。だがそこに希望の光が差し込む。サン・ルメクスである。